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「Vision」 ー最高の自分を生きるために ー

最適化への第一歩は自分を知ること

2か月前

真我と一つだった頃のこと。

1か月前

静けさそのものがほんとうの「私」

2か月前

P34. 無欲と智慧の関係は?無欲と智慧それは同じもの。無欲とは真我のみを求めること、智慧とは真我を決して離れないこと…とマハリシは言う。ただ在りてある一者、その分光たる心、彷徨う心は対象物(影)を創る。そして一者を光源と見做すのは心。だが哀しいかな光源と影に直接の繋がりは無い…

2か月前

P35. 解脱とは何でしょうか?束縛されている自我の本性に尋ね入り、その真実の本性を悟ることが解脱である…とマハリシ。光源とフィルムとスクリーン。自我はスクリーンに映る流浪の映像。映像を離れ、フィルムを捨て去り、光源とひとつに還る。一者の智慧で自我を手放す恐怖が至福となるように…

1か月前

P32. 解脱を願う者にとって本を読むことは・・・本を読むあいだ解脱は成されない。何故「私は誰か」と問うか。想いと対象がある限り一者は隠され続ける。想いの源流を辿るとき、為すべきは心を静寂に保つこと。手放す恐怖が智慧で癒され、輪廻に縛られた心もろとも「沈黙」に溶け込み滅するまで…

2か月前

P31. 解脱(真我)を願う者にとって、現象世界の構成要素や性質の探求は全く不要であり、すべきことは真我を覆い隠すもの総ての拭い去りである…とマハリシ。そして、現象世界は夢のようなものと見做されるべき…と加える。そろそろ真我を(観る働き以前の)根源的一者に置き換えたくなってきた…

2か月前

人生のテーマ

P34. 洞察力とは何でしょうか?静寂にあることが洞察力である。静寂とは心が真我に溶けていること。過去や現在、未来を知るテレパシーのようなものは洞察力ではない…とマハリシ。物理現象おろか、直感や共時性、辿られる過去世も粗大な対象物…と観る働きに還る。非ず非ずの洞察、消え逝く主客…

2か月前

【エッセイ】人生の物語は最初から最期まであらかじめ定められていて自我や自由意志では変更できない

P33. 幸福とは真我の本性そのもの。私たちは無知のゆえに対象物から幸福を得るものと錯覚する。心が外に向かえば悲惨を味わう。世界と想いが消え去れば、心は幸福を経験する…とマハリシ。想いとその対象物(二元)を滅し、清浄なる沈黙(一元)にあり続ける智慧、心と一者の邂逅、如実知自心…

2か月前

瞑想の道〚20〛自我の思考

瞑想の道〚14〛自我の放棄

「自己認識のために」

3か月前

全ての役を降りた時。 それは沈黙となる。 沈黙がずっと続く時。 それは舞台を完全に降りた時。 セリフを言う限りは役者である。 真に目覚めているかどうかは、そこを見ればいい。 観察者は何も言わない。

P28. 真我の本性とは何か?存在するのは真我のみ。真我は「私」という想いが絶対にないところのもの、それは沈黙と呼ばれる…とラマナ・マハリシ。喩えれば、対象物たる心のざわつきを滅し、あたかも水面の月光が静寂しきった月とただ一つに還るように。釈尊の拈華微笑は沈黙の響きなのだろうか…

2か月前

P27. マハリシは「想いを完全に捨て去り真我に集中すべき」と言ながらも、心の制御にも言及する。即ち、欲望と憎しみ、善い悪いから離れよと。心が静まれば総ては静まる。心底、印象世界は心の投影と観じる時、他者は私。他者への想いはそのまま私に還る。我儘を去った静寂が心を濯ぎ終えるまで。

3か月前

P28. 探求はどのくらい続けるのか?ラマナ・マハリシは、心に対象物とその印象が残る限り「私は誰か」と尋ねなければならない…と言う。結局、心は自らの想いに縛られる。心と想いの主客に気づいたら、想いのみならず主(あるじ)たる心の消滅が叶うまで探求は続く。私の心を存在させた私は誰か。

3か月前

真我とは 本当の感謝をすることで引き出される「本当の自分」