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瞑想の道〚20〛自我の思考

 真我を悟る上で自我と世界のことを抜きにすることはできない。自分とは自我のことであり、その自我が世界で生きていると認識しているところから真我探求ははじまる。自我は身体が自分だと思うから大切に世話をする。誰でも病気にならないように注意し、病気になったら早く治るように処置をするだろう。心は自我が楽しく幸せな状態になるにはどうすればいいかを考える。自我の様々な経験は記憶となり、知識となり、自分のパーソナリティを形成していく。多様な感情を表現し、それは心地いいものも悪いものもある。どうあれそれが自分であり、良くも悪くも自分の個性だと納得している。

 その自我が何かを考えるとき、当たり前のように自分が考えていると思っている。自由な意志による独自の思考によって、どう生きるかを判断する。その意志の判断と行為によって、自我の人生が形成されていく。判断はその時々に自ら決定していくものであり、つまりそこには自分の未来は自分で決めているという感覚がある。これは自分の未来は決まってない状態で、今という瞬間に様々な選択と可能性があり、その意志の決定によって人生の次の状況が創造されると認識しているということだ。その連続によって創造された体験が自我の世界観になっている。そのため、よい自分の未来をつくるためには、より良い考え方と行動が大切でだと学び、それが自我の置かれている人生に課せられた使命だと信じているのだ。

 真我は世界という時空を超えている。同時にそれは全時空でもある。つまり真我はいま現在に在るということだけでなく、同時に未来に起こるこの世界の終わりにも在るということだ。ということは、この世界はすでに終わっていて、その終わりまでのことはすでに起こってしまっているということにもなる。どう自我が頑張って思考しても、自分の運命は決まっているのだ。そしてこの世界の時空にプロットされている自我は、その決まっている運命を知ることができない。だが、それを知る必要はない。自我はその時々の思考の判断に従って人生を生きていけばいい。もちろん運命論など信じなくても問題ない。ただし、それには条件がある。それは自分が真我だと知っていることだ。この自我の人生がどうなるかは知らないが、自分はそのすべてを内包する真我であると理解することはできるのだ。

 自我の心に浮かぶ思考はどこから来ているのか。それは世界から来ている。自我が思考をつくっているのではない。世界だけがその時点の全体性や向かう地点を知っていて、それを的確に稼働させるために一定量の情報を自我に伝えている。自我はその思考で成功して幸せになるかもしれないし、とんでもない間違いを犯し痛い目に遭うかもしれない。だが、それらの出来事も世界の目標地点に向けての、つまりすべてが真我に集約するための必要な活動になっている。世界のすでに起こった未来に従い、ある時点で自我は多くの思考と体験を経た結果として、「私」を真我へと転移させる判断をするだろう。そうなれば、真我である「私」の中に世界と自我を認識することになり、自我はそこで真我実現を完成させるのだ。

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