SOICHI SATO(空風瞑想)

真我探求の瞑想伝道者|悟りへの道|本当の自分を知る|空風瞑想|瞑想説明会|瞑想法の伝授…

SOICHI SATO(空風瞑想)

真我探求の瞑想伝道者|悟りへの道|本当の自分を知る|空風瞑想|瞑想説明会|瞑想法の伝授|瞑想個人セッション| 小説|詩|エッセイ|電子書籍|オンデマンド出版|ジャプーヒーリング|タイ古式マッサージ|ルーン|お問合せ|https://www.sorakaze.com

マガジン

  • 瞑想の道

    真我を探究する瞑想において、自らの内に真我を実証していく。それは知識と瞑想が重なり合って深遠なる真我を理解する道。

  • 真我の軌跡

    真我補の本質は存在するということだけですが、この世界から見たときに、それは72の概念として言い表すことができます。

  • うつしおみ

    真実を求めてこの世界を旅する魂の物語。

  • 空風瞑想

    空風瞑想のご案内

  • 空風登山部

    登山記録。公共交通機関を利用して山に出かけています。基本的にソロ。山行で撮影した写真を掲載しています。ヤマレコ会員(nainoa)

最近の記事

瞑想の道〚30〛苦悩の解決

 真我を知り、自らが真我になったとしても、自我が楽な状態になるわけではない。それで自我の傷ついた心が癒やされるわけでも、恐れが消えてなくなるわけでもない。実際にこの世界で生きているのは自我であり、私は傷ついている、恐れていると感じることは変わらない。真我はこの世界に取り込まれているわけではない。この世界を超えたところに存在している。自分が真我になるということは、身体や心ではなくなることであり、その生死さえも超えることだ。その真我が生きるのが苦しいとか楽になったと感じることはな

    • 真我の軌跡(30)平等

      真我は誰にとっても同じものだ。 誰かだけ強かったり弱かったりするものではない。 富める者や貧しい者も、幸せな者や不幸な者もそれは同じだ。 その見かけの姿で真我の有無を決定づけることはできない。 真我だけがこの世界で平等なものなのだ。

      • 瞑想の道〚29〛言葉と真実

         自我と真我には明らかな境界がある。それを見極めなければ、真我を理解することは難しいだろう。真我でいるつもりでも、それは真我に似せた自我かもしれないのだ。真我には常在性があり、それがないということができない。自我は身体感覚や思考であり、それは無感覚や無思考という状態で不在になることがある。真我を理解するためには、そういった違いを見つけて確かめ、真我でいるとはどういうことなのかを突き詰めていく必要がある。そうして理解が深まっていけば、真我に対する信頼性が高まり、これは明らかに自

        • 真我の軌跡(29)許容

          真我は世界のあらゆる出来事を許容している。 世界の針路を支持し、その過程を信頼している。 善悪も好き嫌いもなく、愛や憎しみさえ分け隔てない。 真我にとっては、世界のどんな側面も同じものなのだ。 それらをすべて許容できる懐の深さが真我にはある。

        瞑想の道〚30〛苦悩の解決

        マガジン

        • 瞑想の道
          30本
        • 真我の軌跡
          30本
        • うつしおみ
          60本
        • 空風瞑想
          0本
        • 空風登山部
          4本
        • ピルグリメイジ(巡礼)Ⅳ
          3本

        記事

          瞑想の道〚28〛神の存在

           神は存在するのか存在しないのか。神には姿かたちがない。伝説や物語に登場するいわゆる人格神は、姿かたちのない神をこの世界の人々が想像したものに過ぎない。それ自体が神の本質を語るものではない。現実には透明で動きのない存在が神であり、その神はこの世界で何もしない。ただ世界に寄り添っているだけだ。その神の本質を理解していなければ、まるで神など存在していないように感じるだろう。神を信じている人でも、その人に神が何もしないのであれば、次第にその存在を信じなくなるかもしれない。人々にどう

          瞑想の道〚28〛神の存在

          真我の軌跡(28)慈悲

          世界は真我から誕生した。 そうであるなら、真我は世界を我が子のように慈しむだろう。 その慈しみによって、世界を遍く在らしめている。 たとえ誰ひとり真我を知らなくても、世界は存在する。 そう存在させていることが真我の慈悲なのだ。

          真我の軌跡(28)慈悲

          瞑想の道〚27〛真実と努力

           自分が真我であると悟ることは簡単ではない。ある意味、骨身を削るような大変な努力を必要とする。悟るためには、時空を切り裂き、自我という分厚い壁を破壊しなければならないのだ。そのために何もしなくていいという覚者の教えは、慎重に受け取る必要がある。それはあくまでも真我を悟った者の言葉であり、そうでない人のものではない。もちろんそれは人を騙すために言っているのではない。覚者は真我探求のために大変な努力を重ねて真我実現を果たした。ただ、結局何もしなくても、そもそも自分は真我であったと

          瞑想の道〚27〛真実と努力

          真我の軌跡(27)信頼

          真我は何よりも信頼することができる。 思考や感情がどのような状態であれ、真我は変わることがない。 愛想をつかして離れたり、冷たい態度で立ち去ることもない。 絶望に打ちひしがれていても、悲しみに沈んでいても、 罪悪感に苛まれているときも、真我は黙ってそこにいてくれる。

          真我の軌跡(27)信頼

          瞑想の道〚26〛世界の役割

           世界は完璧だ。完璧な潮流の中にある。そこでどんな幸福や不幸があろうと総合的に完璧なのだ。自我は幸福であるとき、世界を祝福するだろう。不幸であるとき、世界を呪うだろう。自我がその境遇をどう評価しようと、世界は何も気にしない。世界は世界の動きをするだけであり、誰かが不幸になって嘆くことさえ、世界にとっては完璧な中での出来事なのだ。不幸な自我は幸福になりたいと思うだろう。そうなるために何かの努力をするかもしれない。あるいは、何の努力をする気力もなく、向上心もなく、人生を終えるかも

          瞑想の道〚26〛世界の役割

          真我の軌跡(26)真実

          真我はこの世界で唯一の真実だ。 それは誰の心にも宿っていて、誰にとっても同じもの。 どんな現象よりも現実であり、いつでもそう確かめられる。 その真実は決して変わらず、失われることもない。 真我が在ること、その真実から逃れることはできない。

          真我の軌跡(26)真実

          瞑想の道〚25〛自我の幻想

           世界は幻想であるという説がある。そこに生きている自分も幻想。だから努力しなくていいし、何も問題は起こっていない。本当にそうだろうか。そう信じれば、生きることが楽になるのだろうか。そこで起こる安堵感や解放感が自分の求めていたものなのだろうか。実際には世界が幻想かどうかは考える必要のないことだ。夢の中でこれが夢だと分からないように、幻想の中ではこれが幻想だと分からないようになっている。たとえそれが幻想だと分かったところで、夢のようにそこから覚めて何かの現実に戻ることはないのだ。

          瞑想の道〚25〛自我の幻想

          真我の軌跡(25)起源

          真我はこの世界の起源だ。 この世界で真我より先に誕生したものはない。 それは過去のことではなく、現在のことでもある。 誰でもこの世界誕生前の状態を心の奥に宿しているのだ。 真我に時はなく、いつでもそこで起源のままでいる。

          真我の軌跡(25)起源

          瞑想の道〚24〛非二元と私

           この世界の自我が非二元を論じるとは興味深い現象だ。非二元について、この世界の一般的な概念や論理で語ることは難しいことであり、それを理解するには、それ相当の瞑想修練が必要になる。非二元についての基本となる感覚なしに、自我がそれを理解することは不可能に近い。つまり、それについて考えても理解できないのであれば、意味がないことになる。実際に、非二元で語られる、すべてはひとつであることや起こることは完全であること、すべては愛であるについて、何を根拠に信じればいいのだろうか。どこかの高

          瞑想の道〚24〛非二元と私

          真我の軌跡(24)本質

          真我は世界の本質そのものだ。 世界は常に変容しているが、その本質が変わることはない。 世界がどう変わっても、真我は真我として在り続ける。 美しさや醜さも、強さや弱さも、その本質においては同じだ。 自分の本質さえその真我であり、それが変わることもない。

          真我の軌跡(24)本質

          瞑想の道〚23〛信仰の目的

           宗教を信仰することは特別な人類の歴史であるといってもいい。宗教信仰についてはそれぞれに賛否があるかもしれない。それを救いであると感じる人もいれば、人を貶める害悪だと思う人もいる。宗教には信仰の対象となる神や聖者がいる。原則的にそれらは人々に何らかの目的を告げる役割を持っている。神や聖者はその目的を達した者であり、その目的の重要性を知っているか、あるいは、目的そのものであるかもしれない。いずれにしても、宗教信仰には人を導くべき何らかの目的地があって、そこにたどり着くための方法

          瞑想の道〚23〛信仰の目的

          真我の軌跡(23)根源

          真我はあらゆるものの根源となっている。 世界は真我から生まれ、絶えず真我とつながっている。 真我以前に存在したものはなく、未来永劫絶えることはない。 それは地中の根のように見えないため、世界は真我を忘れてしまう。 それでも真我は世界を支え、世界が真我に気づくのを待つ。

          真我の軌跡(23)根源