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真我の軌跡

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真我補の本質は存在するということだけですが、この世界から見たときに、それは72の概念として言い表すことができます。
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真我の軌跡(26)真実

真我はこの世界で唯一の真実だ。 それは誰の心にも宿っていて、誰にとっても同じもの。 どんな現象よりも現実であり、いつでもそう確かめられる。 その真実は決して変わらず、失われることもない。 真我が在ること、その真実から逃れることはできない。

真我の軌跡(25)起源

真我はこの世界の起源だ。 この世界で真我より先に誕生したものはない。 それは過去のことではなく、現在のことでもある。 誰でもこの世界誕生前の状態を心の奥に宿しているのだ。 真我に時はなく、いつでもそこで起源のままでいる。

真我の軌跡(24)本質

真我は世界の本質そのものだ。 世界は常に変容しているが、その本質が変わることはない。 世界がどう変わっても、真我は真我として在り続ける。 美しさや醜さも、強さや弱さも、その本質においては同じだ。 自分の本質さえその真我であり、それが変わることもない。

真我の軌跡(23)根源

真我はあらゆるものの根源となっている。 世界は真我から生まれ、絶えず真我とつながっている。 真我以前に存在したものはなく、未来永劫絶えることはない。 それは地中の根のように見えないため、世界は真我を忘れてしまう。 それでも真我は世界を支え、世界が真我に気づくのを待つ。

真我の軌跡(22)包含

真我はすべてを包み込んでいる。 生滅、善悪、良し悪し、幸不幸、成功と失敗、光と影。 世界の二元的な概念を、そのひとつの中に飲み込んでいる。 真我は世界から超越し、それでいて世界そのものでもいるのだ。 真我の中に世界はあり、その世界の中心に真我がある。

真我の軌跡(21)沈黙

真我は沈黙して何も語らない。 何の意図も持ち合わせず、わずかな願望すらない。 そこで何かを語れば、真我に偏向を生じさせる。 偏向が生じたものは、真我から離れた何かになる。 沈黙しているからこそ、それは真我たり得るのだ。

真我の軌跡(20)慈愛

真我は慈愛に溢れている。 誰の心の中にもあって、その灯火を絶やすことがない。 自らを求める者に、いつも道を用意して待っている。 決して見放すことなく、どんな時でもすぐ側にいてくれる。 無条件で抱きしめ、慰めることを惜しまない。

真我の軌跡(19)幸福

真我は幸福そのものを体現している。 そこでは苦悩や欠乏が起こらず、穏やかで満たされている。 そうなるように努力して何かを成し遂げたわけでもなく、 必死に幸福を壊さないように守っているわけでもない。 その本性が幸福であり、つまり幸福だと宣言するまでもないのだ。

真我の軌跡(18)至高

真我だけが至高ということができる。 それがこの世界の頂点であり、それ以上という場所がない。 「高みを目指せ」と聖者は言ったが、確かにその高みはあるのだ。 まだ見通せない場所があるのなら、それはまだ至高ではない。 すべてを見通せる場所で静止したなら、 それは真我という至高に至ったのだ。

真我の軌跡(17)勝者

真我だけがこの世界唯一の勝者だ。 どれだけの強者でも、これに勝つことはできない。 真我に戦いを挑んでも、触れることさえできないだろう。 真我は世界の頂点にあり、そこから陥落することもない。 この世界の誰もがこの勝者になることができる。

真我の軌跡(16)富者

どれだけの富があっても、真我は超えられない。 真我だけが真の富者ということができる。 すべてをその手の内にし、必要なものなど何もない。 それらを失うことも、奪われることもない。 真我は何の努力も執着もなく、すでに富者として在る。

真我の軌跡(15)貧者

真我は何も身に付けず、何も持っていない。 そのため、世界からは貧しい姿に見えるだろう。 だからといって、真我が世界に何かを求めることはない。 求めずとも、その真我の内に世界はあるのだ。 世界はそれを知らず、真我は貧者として世界を慈しむ。

真我の軌跡(14)静寂

真我には一切の音がないため静寂と呼ばれる。 それは真我にとって変えようのない自らの本質のこと。 そこで静寂でいようと努めているわけではない。 心の中の音を鎮めることで静寂になるのではなく、 真我自身として在れば、それは自ずと静寂になるのだ。

真我の軌跡(13)知性

真我は自我を超えたところから世界を見ている。 それは認識と呼べるものだが、決して自我ではない。 そこには自我の要素がまったくないからだ。 本来、「私」とはこの真我のことであり、 ここに存在していると気づいている知性のことだ。