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真我の軌跡

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真我補の本質は存在するということだけですが、この世界から見たときに、それは72の概念として言い表すことができます。
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真我の軌跡(38)非我

真我は自我ではない。 真我にしてみると個別の自我という存在はいない。 だが自我は真我を拠り所にして存在している。 自我が真我になることはないが、真我から離れることはない。 だから自分は真我だと悟ることができるのだ。

真我の軌跡(37)豊穣

真我は何もないが豊穣でもある。 世界のあらゆる収穫が真我から生まれている。 世界が最も豊穣な時でさえ真我は超えられない。 つまり自分が真我であれば、世界で最も豊穣だということ。 何もない真我は世界の全収穫をその手にしている。

真我の軌跡(36)静止

真我は完全に静止している。 静止する以上に静止することはできない。 その完全に静止している場所が自分の中心だ。 真我は静止している姿を維持しているのではない。 そうして静止することしかできないのだ。

真我の軌跡(35)超越

真我はこの世界を超越している。 善悪も幸不幸も成功や失敗も、その遥か下に従えている。 世界の観念を超えていて、言葉を尽くしても言い表せないもの。 直感や気づきや霊感さえも、真我にはならない。 真我を実現するとはこの世界を超えた存在になることだ。

真我の軌跡(34)完全

真我に欠けている点はなくそれ自体で完全だ。 世界は不完全であり、それ故に完全を求めている。 この世界は完全である真我を起源としている。 自らを完全にするために、世界は真我になることを目指す。 世界がその真我に触れたとき、完全になり真我に消え去る。

真我の軌跡(33)平和

真我は常に平和で、それが乱されることがない。 真我には闘う相手がどこにもいない。 比較するべき誰かもいない。 そうであれば、平和であることしかできない。 真に平和を願うとは真我であろうとすることなのだ。

真我の軌跡(32)無欲

真我には欲というものがない。 不足しているものが何ひとつないからだ。 この世界のすべては真我によってつくられている。 つまり真我はすでに世界すべてをその手中にしているのだ。 そのため真我には欲という観念そのものさえない。

真我の軌跡(31)清廉

真我は決して汚されることがない。 常に清廉であり、何者もそれに触れることさえできない。 真我は匂いを嗅がれたことのない花のように汚れなきもの。 それを汚そうとする者は、それが無理なことだと悟るだろう。 真我に汚れた手を伸ばしても、その手もまた真我になってしまうのだ。

真我の軌跡(30)平等

真我は誰にとっても同じものだ。 誰かだけ強かったり弱かったりするものではない。 富める者や貧しい者も、幸せな者や不幸な者もそれは同じだ。 その見かけの姿で真我の有無を決定づけることはできない。 真我だけがこの世界で平等なものなのだ。

真我の軌跡(29)許容

真我は世界のあらゆる出来事を許容している。 世界の針路を支持し、その過程を信頼している。 善悪も好き嫌いもなく、愛や憎しみさえ分け隔てない。 真我にとっては、世界のどんな側面も同じものなのだ。 それらをすべて許容できる懐の深さが真我にはある。

真我の軌跡(28)慈悲

世界は真我から誕生した。 そうであるなら、真我は世界を我が子のように慈しむだろう。 その慈しみによって、世界を遍く在らしめている。 たとえ誰ひとり真我を知らなくても、世界は存在する。 そう存在させていることが真我の慈悲なのだ。

真我の軌跡(27)信頼

真我は何よりも信頼することができる。 思考や感情がどのような状態であれ、真我は変わることがない。 愛想をつかして離れたり、冷たい態度で立ち去ることもない。 絶望に打ちひしがれていても、悲しみに沈んでいても、 罪悪感に苛まれているときも、真我は黙ってそこにいてくれる。

真我の軌跡(26)真実

真我はこの世界で唯一の真実だ。 それは誰の心にも宿っていて、誰にとっても同じもの。 どんな現象よりも現実であり、いつでもそう確かめられる。 その真実は決して変わらず、失われることもない。 真我が在ること、その真実から逃れることはできない。

真我の軌跡(25)起源

真我はこの世界の起源だ。 この世界で真我より先に誕生したものはない。 それは過去のことではなく、現在のことでもある。 誰でもこの世界誕生前の状態を心の奥に宿しているのだ。 真我に時はなく、いつでもそこで起源のままでいる。