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瞑想の道〚31〛自我と真我

 自我と真我はつながっている。なぜなら、真我なしに自我は存在できないからだ。その自我を真我は消し去ろうとするだろうか。自我を忌み嫌い、これは間違いだったと言い訳をするだろうか。真我がそう言うのを聞いたことがない。自我が不運な自我を嫌って、その救済を真我に頼むることはあるだろう。こんな自分ではいたくないと思い、この世界から消え去りたいと願う。もちろん、真我はそんな自我を救済したりはしない。自我はそのままにされる。このことは真我が無慈悲なのではなく、そもそも真我はこの世界で活動できないからなのだ。そのため、真我は自我を含めた世界の自律的な活動に関知していないように見える。この世界で活動できるのは自我だけだ。不運な自我でいることが嫌なのであれば、真我そのものにになることに希望を見出すしかない。そのためには自我が真我へと近づく必要がある。

 自我と真我はつながっているため、活動できる自我は真我に近づくことができる。つながっているということは、つまりそれは元々ひとつだということだ。自我は真我に近づき、その先でそれとひとつになることができる。ひとつになれば、そこには自我と真我の区別がなくなる。自我はその源である真我に収束される。そこでの真我の本質は誰でもないということではなく、「私」という決して消すことのできない主体のことだ。この「私」とは自我にも共通している概念だ。自我は自分のことを主体だと思って「私」と呼んでいただろう。自我が真我に収束されたとき、その「私」は自我から真我へと移譲される。そもそも、自我が真我を源とするなら、「私」とは真我のことに他ならない。「私」が決して消えないのは、実はそれが真我だったからだ。

 自我が真我とひとつになったとしても、自我は消えることがない。世界も消えるわけではない。自我や世界もまた現実なのだ。それは、現実である真我を源として、世界すべてがつくられているからだ。ただ、自我と世界には活動が与えられている。真我とは違って、空間と時間、エネルギーという領域がそこにはある。それは様々な変化をもたらすだろう。平穏と混乱、自由と束縛、安心と苦悩、成功と失敗、善行と悪行。「私」だと思っている自我は、その渦波の中で何度も溺れそうになる。そして波のない凪の場所を求めるのだ。もちろん、その場所は真我しかない。真我には活動がなく、波が立ちようがない。これが自我が真我を求める理由になる。

 現実には自我が真我になることはできない。自我は活動であり、真我は無活動だというその本質が違うからだ。できることは、「私」を自我が真我へと明け渡すことだ。そうすることで、自我は世界となり、世界の波となって活動するだろう。もちろんそこには様々な変化が起こり、自我はその波を被り続ける。だが、「私」は真我であり、そんな自我であっても問題はない。自我も「私」ではないため、波に揉まれても問題はない。自我は「私」という重責から解放されている。そこで「私」が苦しむことはなく、たとえ世界に苦しみがあったとしても世界は自律的に対処し、真我は世界がどうあれ、その現象がどこに収束するかを知っているのだ。
 
 

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