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瞑想の道〚26〛世界の役割

 世界は完璧だ。完璧な潮流の中にある。そこでどんな幸福や不幸があろうと総合的に完璧なのだ。自我は幸福であるとき、世界を祝福するだろう。不幸であるとき、世界を呪うだろう。自我がその境遇をどう評価しようと、世界は何も気にしない。世界は世界の動きをするだけであり、誰かが不幸になって嘆くことさえ、世界にとっては完璧な中での出来事なのだ。不幸な自我は幸福になりたいと思うだろう。そうなるために何かの努力をするかもしれない。あるいは、何の努力をする気力もなく、向上心もなく、人生を終えるかもしれない。そのどれもが良いとか悪いとかということではなく、ただ世界の完璧な動きに従って起こっている。

 自我はこの世界でどうやって生きればいいのか模索するだろう。自分らしく取り組めることを探し、あるいは偶然にそれと出会い、世界の中で自分の安定した位置を確保する。それが見つからない場合は、世界での居場所がなく、孤独で疎外されていると感じるかもしれない。それも世界の既定路線だ。自我の集合体が世界なのだ。それぞれの自我がこの世界でその役割を担って活動している。そこにはふたつとない人生が繰り広げられ、そのときどきに調和と不調和を経ながら時間を過ごしている。見た目は悪いかもしれないが、全体的に見れば、それはそれで完璧な姿であり、世界が終着地に向かうための必要な過程なのだ。

 自我がやりたいと思うことは、世界がやりたいと思うことだ。自我と世界は密接に関係している。ただ、自我を自分だと思っていると、そこにはジレンマがある。隣の自我は幸せなのに、なぜ自分の自我は不幸なのか。その不公平感が世界の不完全性として映るだろう。そこでは歪んだ世界を消したいと願い、不幸な自分を破壊したい衝動が起こるかもしれない。それも世界の思惑通りだ。そうしながら、世界は変容しながら人には思いもよらない終着地を目指して流れている。だが、自我は自分ではない。自分とは真我のことだ。それが真実だ。自我は世界の中で、何かを想い、何かをするだろう。それは自分ではないのだ。真我はそんな世界の外にいて、ただ静かにその流れを観察しているだけだ。

 真我は世界の出発地であり、同時に終着地でもある。そこで世界の全時空を包んでいる。そうであるなら、終着地へのある時点で自我が苦しむことは必要なことであり、たとえ不幸な自我がどれだけ幸せを切望しようと、それを引き起こしている世界を信頼しなければならない。そこで努力する自我は努力するだろうし、怠惰な自我は怠惰でいるだろう。それさえも次の瞬間には変わるかもしれない。世界が終着地に辿り着くには、そういった不安定で目まぐるしい変遷が必要なのだ。決まっていることは、真我が終着地で待っているということだ。自分が真我になったとき、世界の終焉を目の当たりにするだろう。そこで世界はその役割を終えていると知るのだ。そう知ったとき、世界は完璧だったと分かるだろう。

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