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瞑想の道

19
真我を探究する瞑想において、自らの内に真我を実証していく。それは知識と瞑想が重なり合って深遠なる真我を理解する道。
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瞑想の道〚19〛創造と終焉

 誰がどのようにしてこの世界をつくったのかは分からない。それは創造主だというかもしれないが、ではその創造主をつくったのは誰なのか。その創造主をつくった創造主は誰なのか。こう考えていくと、その答えに行き着きそうもないことが分かる。つまり、それについては考える必要のないことだ。分かることは、この世界は何を元にしているかだ。その答えは自分が何を中核としているかを探ることによって、直接知ることができる。自分もまた世界の構成要素だからだ。自分が真我という存在を元にしていると知ることがで

瞑想の道〚18〛欲望と悟り

 悟るためには自我の欲望が必要だ。欲望がなければ、悟るための熱意が起こらない。欲望を否定することは、その持つ力を間違った方向に行使していることに対する修正作用としては有効かもしれない。その使い方を間違えば、人や自分をも傷つける毒になり得るからだ。だからといって欲望そのものを否定する必要はない。それをなくせば、ただの無気力で腑抜けた人間になり、真実を悟ろうとすることさえ思いつかなくなるだろう。欲望を使って悟ることに執着し自らを奮い立たせることが、その成就への推進力になる。そうし

瞑想の道〚17〛循環の停止

 真我を完全に理解することなく瞑想をやめてしまった場合、そこには悟りへの道が残されたままとなる。もちろん、悟ることを人生の目的にしていなければ、中途半端に瞑想をやめてしまっても表面上は問題ない。瞑想で期待することが起こらないなら、これは求めている最適な方法ではないと見限るのが妥当なところだろう。要は何を目的として瞑想しているかだ。もし何事にも動じない平穏な心を手に入れたいなら、別に瞑想でなくてもいいだろう。身体に負荷のかかる激しい修行でもいいし、世界に対して無感覚や無関心でい

瞑想の道〚16〛陰陽の彼岸

 真我を悟ったとしても、不安になったり、恐れたり、ジタバタしたりしなくなるということはない。それは悟っていないからだと言われるかもしれないが、むしろ不安になることも恐れることもジタバタもしないのであれば、それは悟りではないとも言える。悟りとは心の状態をポジティブに保つことでもなければ、何事にも動じなくなることでもないのだ。多くの人々は、ネガティブな心の状態を改善できるのであれば、悟りについて学ぶのもいいかもしれないと思うだろう。だが、どれだけ悟りについて学び、修行をしても、そ

瞑想の道〚15〛苦悩の解消

 苦しみや悩みがあれば、この世界の誰もがそれを軽くしたり解消したりしようとするだろう。それは自然なことだ。ただ、そのために瞑想を利用するのであれば、概ね失望することになる。どれだけ厳しい瞑想修行をしても、苦しみや悩みは自分の中に起こる。いくら瞑想に長い時間を費やしたところで、その状況はその前とさほど変わらないだろう。それではそういったことの解消に対して瞑想は何の役にも立たないのだろうか。瞑想することで為されることは、苦しみや悩みがあっても、何の問題もない自分になれるということ

瞑想の道〚14〛自我の放棄

 真我探求において、自我というものは頼もしい味方であると同時に、厄介な敵となる存在だ。自我はあらゆるものに興味を持ち、それについて理解しょうとする性質を持っている。そうすることで、自分は知っているという満足を得たいのだ。その興味の対象は世界のみならず真我でもあり得る。好奇心旺盛な自我であるからこそ真我に興味を持ち、それを知るために瞑想をし、その本質に迫ることができる。だが、真我のすべてを知るためには、真我自身になる必要がある。外から真我を眺めているだけでは、その本質を真に理解

瞑想の道〚13〛悟りの解釈

 悟りという言葉は多分に曖昧さを含んでいる。長く瞑想の道にある人でさえ、悟りについて上手く説明することができない。それが説明できなのなら、悟りへと人を導くことも容易ではない。言葉は空回り、いったい何を言っているのか分からない状態が続いてしまうだろう。悟りとは何もない無の状態や空意識のことだと説明する人がいるかもしれない。だが、それはまだ悟りではない。その状態を長く保ち、いわゆるサマディの経験があるとしても、それもまだ悟りではない。そこには誰がその無や空意識を観察しているのかと

瞑想の道〚12〛自我の成熟

 悟りという言葉を知っていても、それが何を意味するのか知っている人は少ない。悟りとは真理のことであり、その真理とは自分が真我であるということだ。そう言われても、ほとんどの人はピンとこないだろう。自分には縁のないことであり、他人事のように話を聞いて終わりになる。それよりも、この世界で何を楽しみとして、どのような人生を送るのかが最大の関心事だ。多くの人はできる限り楽しく、充実した人生を送るために、人間関係や財力を高めることに注目し、個人として評価され、健康な肉体を持ち、誇り高く生

瞑想の道〚11〛真我の真実

 真我は特別なエネルギーの類ではない。もし何がのエネルギーであれば、それは真我ではないということだ。真我にはエネルギーがない。それは完全に静止していて、一切のエネルギー活動が行われていない。その状態を確認することができれば、それが真我だ。真我はエネルギーがない必要がある。もしそれがあるのであれば、真我によってつくられている世界は根底から歪んだものになってしまうだろう。世界の基盤としての真我は、静止していてエネルギーがなく、つまり何の性質もなく、姿かたちさえない必要があるのだ。

瞑想の道〚10〛真我と世界

 世界の動きは予測できず、制御することもできない。そのため、自我は世界に苦しめられることになる。世界は自我の願いを叶えることなく、思い通りに事を運ぶことに障害をもたらす。自我には様々な問題が降りかかり、その対応で心身は消耗していく。自我は何度も希望を失い、自分の存在に虚しさを感じる。そんな自我にとって、真我を悟ることなど何の意味もないと思うだろう。自我にとっては、この世界で願いが叶い、物事が問題なく円滑に進んでいくことが大切なのだ。そうなれば、自我は幸せであり、人生は希望に満

瞑想の道〚09〛真我への道

 真我実現には二つの道があるといわれている。ひとつは探求の道であり、ひたすら自らが真我であることを目指す道だ。もうひとつは、すべてを真我に明け渡す道であり、熱烈な信仰によって真我到達を目指す道だ。結局はどちらの道でも真我実現に至るのだが、はじめに難しくあとで楽になるのは探求であり、はじめに楽であとで難しくなるのが明け渡しだと感じる。明け渡しの道がそう思えるのは、自我の問題をどうやって解決するか曖昧な点にある。修行者はすべてを真我(あるいは神や聖者)に明け渡したと言うかもしれな

瞑想の道〚08〛思考の意味

 瞑想中の思考を問題視する人は多い。多くの場合、瞑想者は思考を邪魔な存在だと思っている、瞑想中に思考がなくなれば、いい瞑想になると思うのだ。そう分かっていても、思考をなくすことは困難を極める。しかし、瞑想中の思考には重要な役割がある。瞑想中に思考がなくなることは、実はあまり良い状況とはいえない。例外的に、真我自体になっているときには思考は起こらない。真我には活動がないため、そこで思考は起こりようがないのだ。ここでの問題は思考ではなく、焦点ということになる。焦点とは何なのか。瞑

瞑想の道〚07〛私と真我

「私は誰か」の探求の結果として、「私は誰でもない」という答えに行き着くことがあるが、これは半分正解で半分間違っている。「誰でもない」という言葉の意味が、どんな自我でもないということであれば間違いではない。しかし、自分とはただ自我を失って存在しているだけということであれば、もう少し探求を深めていく必要があるだろう。問題は「私」という言葉の取り扱いだ。「私」という言葉には、どうしても自我の匂いがつきまとう。そのため、あえて「私」という言葉を排除しようとする方向になりがちだ。実際に

瞑想の道〚06〛自我の場所

 悟りの修行において自我を拒絶する方法があるが、これには疑問がある。自我を消し去ろうとしたり、忌みすべきものとして排除することによって悟りが得られると考えているのなら、それは再考する必要があるだろう。自我というものは、身体であり心であり、パーソナリティーであり、その記憶などによって成り立っている。人々はそれを自分だとして生きていて、その個々人によって社会が形成され、社会活動が営まれている。それを一括りに拒絶し排除しようとすることは無理があることであり強引過ぎるきらいがある。た