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瞑想の道

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真我を探究する瞑想において、自らの内に真我を実証していく。それは知識と瞑想が重なり合って深遠なる真我を理解する道。
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瞑想の道〚26〛世界の役割

 世界は完璧だ。完璧な潮流の中にある。そこでどんな幸福や不幸があろうと総合的に完璧なのだ。自我は幸福であるとき、世界を祝福するだろう。不幸であるとき、世界を呪うだろう。自我がその境遇をどう評価しようと、世界は何も気にしない。世界は世界の動きをするだけであり、誰かが不幸になって嘆くことさえ、世界にとっては完璧な中での出来事なのだ。不幸な自我は幸福になりたいと思うだろう。そうなるために何かの努力をするかもしれない。あるいは、何の努力をする気力もなく、向上心もなく、人生を終えるかも

瞑想の道〚25〛自我の幻想

 世界は幻想であるという説がある。そこに生きている自分も幻想。だから努力しなくていいし、何も問題は起こっていない。本当にそうだろうか。そう信じれば、生きることが楽になるのだろうか。そこで起こる安堵感や解放感が自分の求めていたものなのだろうか。実際には世界が幻想かどうかは考える必要のないことだ。夢の中でこれが夢だと分からないように、幻想の中ではこれが幻想だと分からないようになっている。たとえそれが幻想だと分かったところで、夢のようにそこから覚めて何かの現実に戻ることはないのだ。

瞑想の道〚24〛非二元と私

 この世界の自我が非二元を論じるとは興味深い現象だ。非二元について、この世界の一般的な概念や論理で語ることは難しいことであり、それを理解するには、それ相当の瞑想修練が必要になる。非二元についての基本となる感覚なしに、自我がそれを理解することは不可能に近い。つまり、それについて考えても理解できないのであれば、意味がないことになる。実際に、非二元で語られる、すべてはひとつであることや起こることは完全であること、すべては愛であるについて、何を根拠に信じればいいのだろうか。どこかの高

瞑想の道〚23〛信仰の目的

 宗教を信仰することは特別な人類の歴史であるといってもいい。宗教信仰についてはそれぞれに賛否があるかもしれない。それを救いであると感じる人もいれば、人を貶める害悪だと思う人もいる。宗教には信仰の対象となる神や聖者がいる。原則的にそれらは人々に何らかの目的を告げる役割を持っている。神や聖者はその目的を達した者であり、その目的の重要性を知っているか、あるいは、目的そのものであるかもしれない。いずれにしても、宗教信仰には人を導くべき何らかの目的地があって、そこにたどり着くための方法

瞑想の道〚22〛不老不死

 真我を悟るとは、自分が真我になるということだ。それは自我を自分とすることからの決別であり、その時点で、自分は自我から離脱したことになる。自我の身体はいずれ年老いるか病気によって、この世界でのその活動を終えるだろう。だが、その終焉を迎える前に自分が真我になったのなら、その時点で自我としての自分は終焉を迎えたのだ。そうなったのであれば、その後に起こる身体の死さえこの世界におけるひとつの現象となり、すでに自分にとっての死ではない。真我実現において、自我は世界に戻され、世界の現象の

瞑想の道〚21〛真我の印象

 真我をどう感じるかは自由だが、その感じたものが真我の本質とは限らない。それはあくまでも自我が感じたことであり、つまりこの世界の感覚に依っている。真我には姿かたちがなく、そこに何の活動もない。それが真我の本質であり、実際にただ存在しているだけなのだ。それに触れて、至福や愛、暖かさや守護を感じたとしても、それは世界における感覚であり、真我という存在の本質にはならない。それでも、例えばそこに至福を感じれば、それは真我が自分に与えてくれた経験であると感じて、その記憶を大切にするかも

瞑想の道〚20〛自我の思考

 真我を悟る上で自我と世界のことを抜きにすることはできない。自分とは自我のことであり、その自我が世界で生きていると認識しているところから真我探求ははじまる。自我は身体が自分だと思うから大切に世話をする。誰でも病気にならないように注意し、病気になったら早く治るように処置をするだろう。心は自我が楽しく幸せな状態になるにはどうすればいいかを考える。自我の様々な経験は記憶となり、知識となり、自分のパーソナリティを形成していく。多様な感情を表現し、それは心地いいものも悪いものもある。ど

瞑想の道〚19〛創造と終焉

 誰がどのようにしてこの世界をつくったのかは分からない。それは創造主だというかもしれないが、ではその創造主をつくったのは誰なのか。その創造主をつくった創造主は誰なのか。こう考えていくと、その答えに行き着きそうもないことが分かる。つまり、それについては考える必要のないことだ。分かることは、この世界は何を元にしているかだ。その答えは自分が何を中核としているかを探ることによって、直接知ることができる。自分もまた世界の構成要素だからだ。自分が真我という存在を元にしていると知ることがで

瞑想の道〚18〛欲望と悟り

 悟るためには自我の欲望が必要だ。欲望がなければ、悟るための熱意が起こらない。欲望を否定することは、その持つ力を間違った方向に行使していることに対する修正作用としては有効かもしれない。その使い方を間違えば、人や自分をも傷つける毒になり得るからだ。だからといって欲望そのものを否定する必要はない。それをなくせば、ただの無気力で腑抜けた人間になり、真実を悟ろうとすることさえ思いつかなくなるだろう。欲望を使って悟ることに執着し自らを奮い立たせることが、その成就への推進力になる。そうし

瞑想の道〚17〛循環の停止

 真我を完全に理解することなく瞑想をやめてしまった場合、そこには悟りへの道が残されたままとなる。もちろん、悟ることを人生の目的にしていなければ、中途半端に瞑想をやめてしまっても表面上は問題ない。瞑想で期待することが起こらないなら、これは求めている最適な方法ではないと見限るのが妥当なところだろう。要は何を目的として瞑想しているかだ。もし何事にも動じない平穏な心を手に入れたいなら、別に瞑想でなくてもいいだろう。身体に負荷のかかる激しい修行でもいいし、世界に対して無感覚や無関心でい

瞑想の道〚16〛陰陽の彼岸

 真我を悟ったとしても、不安になったり、恐れたり、ジタバタしたりしなくなるということはない。それは悟っていないからだと言われるかもしれないが、むしろ不安になることも恐れることもジタバタもしないのであれば、それは悟りではないとも言える。悟りとは心の状態をポジティブに保つことでもなければ、何事にも動じなくなることでもないのだ。多くの人々は、ネガティブな心の状態を改善できるのであれば、悟りについて学ぶのもいいかもしれないと思うだろう。だが、どれだけ悟りについて学び、修行をしても、そ

瞑想の道〚15〛苦悩の解消

 苦しみや悩みがあれば、この世界の誰もがそれを軽くしたり解消したりしようとするだろう。それは自然なことだ。ただ、そのために瞑想を利用するのであれば、概ね失望することになる。どれだけ厳しい瞑想修行をしても、苦しみや悩みは自分の中に起こる。いくら瞑想に長い時間を費やしたところで、その状況はその前とさほど変わらないだろう。それではそういったことの解消に対して瞑想は何の役にも立たないのだろうか。瞑想することで為されることは、苦しみや悩みがあっても、何の問題もない自分になれるということ

瞑想の道〚14〛自我の放棄

 真我探求において、自我というものは頼もしい味方であると同時に、厄介な敵となる存在だ。自我はあらゆるものに興味を持ち、それについて理解しょうとする性質を持っている。そうすることで、自分は知っているという満足を得たいのだ。その興味の対象は世界のみならず真我でもあり得る。好奇心旺盛な自我であるからこそ真我に興味を持ち、それを知るために瞑想をし、その本質に迫ることができる。だが、真我のすべてを知るためには、真我自身になる必要がある。外から真我を眺めているだけでは、その本質を真に理解

瞑想の道〚13〛悟りの解釈

 悟りという言葉は多分に曖昧さを含んでいる。長く瞑想の道にある人でさえ、悟りについて上手く説明することができない。それが説明できなのなら、悟りへと人を導くことも容易ではない。言葉は空回り、いったい何を言っているのか分からない状態が続いてしまうだろう。悟りとは何もない無の状態や空意識のことだと説明する人がいるかもしれない。だが、それはまだ悟りではない。その状態を長く保ち、いわゆるサマディの経験があるとしても、それもまだ悟りではない。そこには誰がその無や空意識を観察しているのかと