見出し画像

瞑想の道〚19〛創造と終焉

 誰がどのようにしてこの世界をつくったのかは分からない。それは創造主だというかもしれないが、ではその創造主をつくったのは誰なのか。その創造主をつくった創造主は誰なのか。こう考えていくと、その答えに行き着きそうもないことが分かる。つまり、それについては考える必要のないことだ。分かることは、この世界は何を元にしているかだ。その答えは自分が何を中核としているかを探ることによって、直接知ることができる。自分もまた世界の構成要素だからだ。自分が真我という存在を元にしていると知ることができれば、世界もまたその存在でできているということだ。存在は素粒子よりも小さく、目に見えるものではない。だが、それで在ると感じることはできるのだ。

 存在は姿かたちを持たないため、科学的な手法で検出されることはない。それはまるで無のようであるが、無ということではない。それは対象として認識できないだけで確実に存在している。さらにそれは世界の動きの中にあっても完全に静止している。存在のその全貌についてはこの世界の常識で推し量ることができない。存在には時空という概念が当てはまらず、この世界の始まる前の状態であり、かつ世界の終わりの状態でもある。電子よりも小さく全宇宙よりも大きい。さらに、ひとつでありながら多数に分割されている。この世界には多様な物質があるが、そこでもこの存在の単一性は破られていない。この存在が世界の源であり、いまも世界が存在しているのはそれを拠り所としているからなのだ。

 この存在が「私」の本質であり、主体であり、世界の観察者となっている。この「私」という存在は、この全時空においてひとりしかいない。この地球上には数十億の人がいるが、実際にはたったひとりの観察者がいるだけなのだ。すべての生命体の中核にはこの「私」が主体として宿っている。ブッダはすべては平等であると言い、キリストは誰もが兄弟姉妹であると言ったが、その言葉はこのことを示唆している。それは人間社会での平等性や血の繋がりということでの兄弟姉妹であることを意味しているわけではないということだ。もし存在が神だとするなら、神がひとりなのか多数なのかは、この真実からすると意味のない議論だということになる。

 この世界は目覚めた知性が観察を始めたことによって始まった。なぜその知性が目覚めたのかは分からない。その知性には姿かたちがなかったため、自分が誰か分からなかった。それを知りたいと願ったとき、存在にひずみが生じて対象としてのこの世界が現れた。その知性はいまもすべての自我を通してこの世界を観察している。自我はそれに気づかない。自我は自分が観察していると思っているからだ。その自我が誰かに観察されていると気づいたとき、真我という「私」の本質に触れる道が開かれる。そうして、すべての自我が自分は真我だと知ったとき、存在のひずみは修復され、この世界は役割を終えて消え去るのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?