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瞑想の道〚21〛真我の印象

 真我をどう感じるかは自由だが、その感じたものが真我の本質とは限らない。それはあくまでも自我が感じたことであり、つまりこの世界の感覚に依っている。真我には姿かたちがなく、そこに何の活動もない。それが真我の本質であり、実際にただ存在しているだけなのだ。それに触れて、至福や愛、暖かさや守護を感じたとしても、それは世界における感覚であり、真我という存在の本質にはならない。それでも、例えばそこに至福を感じれば、それは真我が自分に与えてくれた経験であると感じて、その記憶を大切にするかもしれない。だが、それは真我の本質に迫るものではないため、いずれは色褪せて、思い出すことも困難な記憶になってしまうだろう。

 真我の本質と世界における真我の感覚とでは明らかな違いがある。真我の本質に迫るためには、真我とは何かを世界の概念で語らなければならず、それはいままで様々な言葉で形容されてきた。至福、知性、存在、守護者、避難場所、静寂、愛、慈悲。そう感じることは、真我の本質を世界という領域に持ち込んだときに、その反映として起こる感覚だ。その先、例えば至福であれば、まだそこには至福の先というものがある。そこが世界での感覚を超えて真我に迫る領域になる。つまり、それは世界における真我の印象ではなく、実際に真我自身になってみたときにどうかということだ。至福の先にある真我はどうなっているのか。そこに至福はない。真我を形容した言葉に当てはまるものは何ひとつない。真我の実際は姿かたちがなく、活動がなく、存在しているだけだからだ。

 つまり、至福の本質は至福ではないということだ。愛の本質は愛ではなく、守護者の本質は守護者ではない。真我において世界で感じられた印象はすべて消え去り、ただ真我だけがある。なぜこのようなことが起こるのか。それは真我が主体だからだ。主体はひとつしかなく、その他はすべて客体になる。真我の領域は主体だけなので、客体はそこに存在することができない。どのような客体であれ、真我の領域では主体に溶け込んで同化してしまうのだ。つまり、そこではどのような印象も存在できない。だが、そこが印象の源であり、そこから印象が発生したことは事実だ。この事実から分かることは、すべての印象の究極は真我に集約され、そこがその印象の最高地点だということだ。

 この世界では感覚や印象を大切にする。それによって、その物事の優劣を評価するのだ。自分を心地よくさせるものは優れていて、自分を貶めるものは劣っているとする。真我は優れているものだとしたいが、その印象の源を辿ると、それは完全に消え去り、まるで何でもないような存在だけになってしまう。これを世界の感覚に慣れてしまった自我は評価しづらく感じるだろう。少なくともこの世界での優れた何かにすることはできない。それが世界で最高のことだと分かるのは、真我を知ってから随分とあとになる。それまでは何でもない真我を感じながら、これをどう評価するべきか途方に暮れるしかないだろう。

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