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瞑想の道〚15〛苦悩の解消

 苦しみや悩みがあれば、この世界の誰もがそれを軽くしたり解消したりしようとするだろう。それは自然なことだ。ただ、そのために瞑想を利用するのであれば、概ね失望することになる。どれだけ厳しい瞑想修行をしても、苦しみや悩みは自分の中に起こる。いくら瞑想に長い時間を費やしたところで、その状況はその前とさほど変わらないだろう。それではそういったことの解消に対して瞑想は何の役にも立たないのだろうか。瞑想することで為されることは、苦しみや悩みがあっても、何の問題もない自分になれるということだ。そうなれば、苦しみや悩みを恐れる必要はなくなり、そうであってもいいのだとさえ思えるようになる。これが瞑想によって起こることだ。そうなるためにはどう瞑想すればいいのか。それはそこで自分が真我だと知ることだ。

 この世界のことやそこに含まれる自我を思い通りに制御することはできない。つまり、自我は何をしても思い通りにならないという苦悩を避けることができない。自分の考え方を変えたり心の状態を整えたりすることで、その苦悩をなくそうとする試みは行われるかもしれない。もちろんそれは正当な対応だが、完全にそれらがなくなる状況は決して訪れない。一時的な平穏はあるかもしれないが、世界の変化するという性質によって、また苦しみや悩みがどこからかやってきてまとわりつく。それらをまるで存在しないかのように蓋をしてやり過ごそうとしたり、目を向けないようしたりすることはできる。ただ、それはそれで新たな苦しみや悩みの種となってしまうのだ。

 この世界で自我が苦しみ悩むのであれば、それはそうする必要があるということだ。だからそこでは苦しみ悩むことをするべきなのだ。だが、自我はその心地悪い状態に陥ったり耐えたりすることを嫌うだろう。その自我の気持もよく分かる。この状況から抜け出せない理由は、自我を自分だと信じているからだ。自分を守りたいと思うのは当たり前のこと。苦しみ悩む自分をどうにかして救いたいと考えるのは至極自然なことだ。そういった思考が生まれるのは、それを解決する唯一の状態である真我へと自我の目を向けさせるためなのかもしれない。もし真我を自分とすることができたなら、どのような世界の状況からも影響を受けず、つまりそれで自我がどのような状態に陥っても、自分は何の問題もない立場に置かれることになる。真我自身には動きがないため苦しみも悩みも起こらない。それは苦しむことや悩むことが不可能な存在になることなのだ。

 自分には苦しみも悩みもないと言えるのは、自分が真我だと完全に理解しているときのみだ。自我が場当たり的に考え方を変えて苦しみを軽くしようとしたり悩みを解消しようとしたりすることは、短期的には有効であっても根本的な解決には至らない。自分が真我になることによって、そのすべては自分から自然と消え去る。それでもこの世界や自我には苦しみや悩みが起こり続けるだろう。そうであっても自分は悩んだり苦しんだりすることはない。真我はそうであることが不可能なのだ。この真我は特別な誰かだけに与えられた特権などではない。そこには誰もが真我であるという恩寵がある。そうなるために自分を自我から真我へと転移させる努力は絶対不可欠になるが、すでに苦しみや悩みの解決策は自分の中にあり、それは瞑想することによって誰でも可能なことなのだ。

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