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瞑想の道〚25〛自我の幻想

 世界は幻想であるという説がある。そこに生きている自分も幻想。だから努力しなくていいし、何も問題は起こっていない。本当にそうだろうか。そう信じれば、生きることが楽になるのだろうか。そこで起こる安堵感や解放感が自分の求めていたものなのだろうか。実際には世界が幻想かどうかは考える必要のないことだ。夢の中でこれが夢だと分からないように、幻想の中ではこれが幻想だと分からないようになっている。たとえそれが幻想だと分かったところで、夢のようにそこから覚めて何かの現実に戻ることはないのだ。ただし、世界が幻想かどうかは考えずとも、その世界にいる自分が誰なのかは調べる必要がある。

 自我が自分だということは幻想に過ぎない。自我とは身体と心のことであり、パーソナリティや独自の記憶のことだ。ほとんどの人はそれを自分だとしてこの世界で生きている。この世界を幻想だとする理屈はあるだろう。それを認めていないわけではないが、もっと優先して調べることがある。それは世界を幻想だといっているのは誰なのかということだ。自我は世界を幻想ということにして、特別な世界の扉を開けたような気になっている。だが、世界が幻想である以上、世界に属しているその自我も幻想だということになる。そうだとすれば、そこでの気づきも覚醒も幻想だということになる。自我が幻想となる以上、自我が得た知識や体験もすべて幻想になるのだ。

 世界が幻想だと信じたところで、自我にとって好ましい状況には決してならない。もちろん、世界が現実であるとしても、自我は苦しい状況に置かれているだろう。ここでの問題の核心は、世界における自我がはたして「私」なのかどうかということだ。もし、「私」が真我だと知ったのなら、この世界が幻想か現実かは大した問題ではないと分かるだろう。自我が存在しようが幻想だろうが、それも問題ではない。真我にとってはどちらでもいいのだ。そう思えるためには、「私」は真我だと確信する必要がある。真我であれば、何ひとつ世界から影響されることなく、自我の置かれている状況にも左右されず存在することができる。

 真我とは誰でもない存在ではない。それは「私」だ。誰でもないという言葉を使っている限り、自我がそれをまだ完全に理解できず、他人事のようにしている状態にある。そこで真我を一人称である「私」という言葉で言えるかどうかが重要なポイントとなる。その言葉は力強く、明確で、自信に満ちている。もちろん、ここでいう「私」は自我のことではない。「私」は自我と同義語であるとしていることが誤解であり、真我を意味する言葉として再定義する必要があるのだ。この真我には自我が感じるような安堵感や解放感はない。ただし、そこにはそういった感覚をはるかに超えたものがある。真我が「私」であること、ただこれだけがこの世界の確かな現実なのだ。

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