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瞑想の道〚24〛非二元と私

 この世界の自我が非二元を論じるとは興味深い現象だ。非二元について、この世界の一般的な概念や論理で語ることは難しいことであり、それを理解するには、それ相当の瞑想修練が必要になる。非二元についての基本となる感覚なしに、自我がそれを理解することは不可能に近い。つまり、それについて考えても理解できないのであれば、意味がないことになる。実際に、非二元で語られる、すべてはひとつであることや起こることは完全であること、すべては愛であるについて、何を根拠に信じればいいのだろうか。どこかの高名な聖者がそう言ったから信じるということもあるかもしれないが、それはまるで分かっていないと言っているのと同じなのだ。これは自分自身の中で納得できる回答を得る必要があり、その確証によって理解するべきことだ。

 ここでは非二元を否定しているわけではない。むしろそれを肯定している。だが、それを理解するためには手順というものがある。一部の非二元論者は、そういうことすら必要ないというかもしれない。この世界は幻想であり、「私」はいないだけだとするからだ。幻想の中で誰でもない者がバタバタとあがいて、一体何になるのかということなのだろう。その前提に従えば、非二元論を理解しようなどと思わなくていいという話だ。ただ、その前提が間違いだったらどうだろうか。この世界は現実であり、そこに「私」が存在しているなら。この前提であれば、だれもがそう感じていることでもあり、非二元を理解する正当な出発点になり得るだろう。

 この世界はいくつかの領域によって成り立っている。現象世界、自我(身体と心)、純粋意識、超越意識だ。超越意識はすべての源であり、ひとつとして在る領域だ。ここが非二元といわれている。これについては客観的事実として観察することができない。すべてが完全に静止しているため、そこで認識活動さえ起こせないのだ。想像するに、多分そこは姿かたちがないが、すべてを発現させる潜在力を持つ場所であり、エネルギーゼロの領域なのだろう。純粋意識は、いうなれば観察していない観察者だ。心の中心にあって、超越意識に触れながらも、現象世界との接点を持っている。非二元を理解するなら、手順として、まずこの接点である領域を理解する必要がある。

 自我は現象世界の範疇にある意識活動だ。それ自体は直接超越意識と接点を持たない。それゆえに、超越意識を理解することができない。もし理解したいなら、純粋意識まで自我を拡大する必要がある。そうするためにひとつの手順を踏まなければならない。それが「私」の転移だ。自我と純粋意識は領域が違うため、純粋意識を理解するためには、「私」を自我から純粋意識に移さなければならない。「私」を自我を主体とする存在から、純粋意識を主体とするそれへと昇華させる。これは決して「私」を消すことではない。この「私」こそ、超越意識を理解するカギとなる。そうなったときに、はじめて非二元を直接理解する準備が整うのだ。

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