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瞑想の道〚18〛欲望と悟り

 悟るためには自我の欲望が必要だ。欲望がなければ、悟るための熱意が起こらない。欲望を否定することは、その持つ力を間違った方向に行使していることに対する修正作用としては有効かもしれない。その使い方を間違えば、人や自分をも傷つける毒になり得るからだ。だからといって欲望そのものを否定する必要はない。それをなくせば、ただの無気力で腑抜けた人間になり、真実を悟ろうとすることさえ思いつかなくなるだろう。欲望を使って悟ることに執着し自らを奮い立たせることが、その成就への推進力になる。そうして自分が真我になった瞬間、そこから欲望は新たな局面を迎える。それが自我にとっての最高位の成就のため、あらゆる欲望が些末なものになり、真我自体にも活動がないため、欲望を起こすことするらできなくなるのだ。

 真我を悟った聖者は、欲望は障害であり不要だと言うかもしれない。それを聞いた人々は、欲望をなくすように努力するだろう。信奉する聖者がそういうのであれば、それを信じるだろうし、実際にそうすることが、人として磨かれていくようにも感じられる。欲望をなくして清廉な人間になれば、聖者のような境地に到達できるのではないかと期待もする。だが、悟りへの欲望なくして真我になることはない。聖者でさえ真我を悟ることにその欲望を激しく燃やしたのだ。聖者たちは真我となった状態でものを話す。真我に欲望はない、だから欲望は捨てなさいと。それは正しいのだが、その前提として、自らが真我になっていなければならない。

 聖者はさらに言うだろう。努力は必要ない。すでに悟りは実現している。恐れは存在しない。恩寵はいつでも与えられている。だが、それらはすべて真我である状態での言葉だ。人々はこのような言葉に慰められるかもしれないが、その言葉を信じても真我になることはない。悟りに対して熱い情熱を持ち、その実現に不断の努力を捧げ、狂気のように邁進することで、ようやく人は真我になることができるのだ。それだけのことをどの聖者たちもやってきている。人々は聖者の立ち振舞や言葉に何かを感じて、敬愛する感情を持つだろう。だが、真実はこの世界での見た目ではない。それはその内なるところに在って、聖者という自我を超えているのだ。

 聖者にとって名前や称号などは何の意味もない。自分が自我ではなく真我であるなら、そこには個々の名称や善行の実績さえないのだ。人々は聖者の名前を叫んで敬愛を示すが、仮に真我がそれを耳にしたなら、一体誰のことをいっているのかといぶかしがるだろう。そんな真我を悟るには、自我に正しい欲望の道を行かせる必要がある。かつて、どんな聖者も誇り高い自我だったのだ。真我に至ったとき、そこで自我の性質をすべて失った。真我には欲望も、執着も、努力も、狂気もない。聖者の言葉を理解したいのなら、はじめに自らが欲望を奮い立たせて真我を悟ることだ。そうして初めて、その言葉の真意を知ることになるだろう。

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