見出し画像

瞑想の道〚23〛信仰の目的

 宗教を信仰することは特別な人類の歴史であるといってもいい。宗教信仰についてはそれぞれに賛否があるかもしれない。それを救いであると感じる人もいれば、人を貶める害悪だと思う人もいる。宗教には信仰の対象となる神や聖者がいる。原則的にそれらは人々に何らかの目的を告げる役割を持っている。神や聖者はその目的を達した者であり、その目的の重要性を知っているか、あるいは、目的そのものであるかもしれない。いずれにしても、宗教信仰には人を導くべき何らかの目的地があって、そこにたどり着くための方法を説いているのだ。

 その目的地とはどこなのであろうか。それは宗教によって様々だ。天国や智慧であったり、神との合一であったりする。言い方は違えども、それは同じ事象を指している。それは真我だ。真我が天界であり、智慧であり、神との合一なのだ。真我とはこの世界とは違う領域であり、この世界の出来事から影響を受けない場所にある。それを天国というかもしれない。真我はあらゆる知識の頂点であり、その存在そのものが物言わぬ智慧の塊なのだ。真我はひとつであり、すべての源でもある。そこが神と合一する地点だ。そこでは神も自我もなく、ひとつの存在のみとなる。

 宗教については人それぞれに受け止め方があり、この話に異論があるかもしれない。もちろん、ここではそれぞれの信仰を否定しているわけではない。宗教の様々な形態はそれはそれで存在意義があることなのだ。ただ、その向かう先について知らないのであれば、それは信仰を形式的に受け入れているに過ぎない。神や聖者を信じて祈ることは、単に自我の願いを超自然的な力で汲み取ってもらうためだけにすることではない。神や聖者が指し示す方角に顔を向けて、自らそこへと進んでいくことなのだ。そこには様々な困難があるだろう。どうしても分からないことや突破できない理解の壁がある。そのために信仰には内的な修練がある。それに従えば、困難を乗り越えることができるようになっている。

 神や聖者を尊敬し、祭り上げることは間違いではない。だが、それだけに終始しているのであれば、神や聖者の意に沿っているとは言い難い。神や聖者が大切にしてほしいことは、毎日、その像や写真に触れて、敬愛の意を捧げることではない。その教えを実践することだ。それを実践し、自らがその神や聖者になって欲しいのだ。そうなれば、もうその人に宗教は必要なくなる。神や聖者を拠り所とする必要がなくなることが、宗教信仰の神聖な最終目的なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?