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瞑想の道〚22〛不老不死

 真我を悟るとは、自分が真我になるということだ。それは自我を自分とすることからの決別であり、その時点で、自分は自我から離脱したことになる。自我の身体はいずれ年老いるか病気によって、この世界でのその活動を終えるだろう。だが、その終焉を迎える前に自分が真我になったのなら、その時点で自我としての自分は終焉を迎えたのだ。そうなったのであれば、その後に起こる身体の死さえこの世界におけるひとつの現象となり、すでに自分にとっての死ではない。真我実現において、自我は世界に戻され、世界の現象の一部として稼働している。自我の死はその世界での役割を終えただけであり、真我はそれに影響を受けることなく存在し続ける。

 不老不死は自我にとって夢のような話であり、そう望む者たちがこの世界で様々な手法を試してきた。賢者の石を手に入れる。身体の機能を高める神秘的な修業をする。特別な祈りや魔法を駆使する。だが、そのどれもが失敗に終わっている。いまでは不老不死は実現不可能なファンタジーだと思われている。だが、不老不死は実現可能なことだ。ただし、それは自我に於いてではない。真我を自分とするとき、おのずと不老不死になるのだ。真我は静止していて姿かたちがないため、老いるという現象が起こらない。時空を超えて常在しているため、死ぬという時点がない。これはまさに不老不死だ。自我としての不老不死は、世界の変化の中にあるため、その実現は不可能だ。だが、世界を超えたところの真我に於いてはその本質が不老不死なのだ。

 真我になることで、当然のことだが、不老不死になろうと努力する必要はなくなる。むしろ、不老不死でなくなることができない。このことは、この世界の時間感覚で理解することはできない。それは長い時間、年老いず、死なずにいる状態になることではないのだ。真我には時間という概念がない。真我にとって、この世界で言うところの宇宙の始まりから終わりまでの時空はひとまとまりであり、一瞬の中に凝縮されている。つまり、一瞬と永遠が同じなのだ。これが真我として不老不死になるということの実態だ。ただ、真我はそうなったとしても、それを喜ぶわけでも優越感に浸るわけでもない。真我としてそこに在るだけだ。

 このことを古の聖者たちは自らのこととして伝えようとした。その聖者たちは真我になっていたので、不老不死にもなっている。そこで私は不老不死であると人々に宣言したかもしれない。ただし、それは聖者の姿かたちある自我のことではない。姿かたちのない真我としてのことだ。実際にはその聖者は年老いて死んでしまう。それを見た人々は、不老不死は偽りであったと見なすだろう。だが、それはこの世界から分からないだけであって、聖者の真我はいまも不老不死でいるのだ。

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