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瞑想の道〚14〛自我の放棄

 真我探求において、自我というものは頼もしい味方であると同時に、厄介な敵となる存在だ。自我はあらゆるものに興味を持ち、それについて理解しょうとする性質を持っている。そうすることで、自分は知っているという満足を得たいのだ。その興味の対象は世界のみならず真我でもあり得る。好奇心旺盛な自我であるからこそ真我に興味を持ち、それを知るために瞑想をし、その本質に迫ることができる。だが、真我のすべてを知るためには、真我自身になる必要がある。外から真我を眺めているだけでは、その本質を真に理解することはできない。自我はかなり近くまで真我に迫ることができるだろう。そこから先の領域、つまり真我自身になるということは、自分が自我ではなくなるということだ。自分と呼べる一人称のそれは原則としてひとりしかいない。つまり、そこで自我は自我であることを捨ててまで、真我になるかどうかの試練が与えられるのだ。それが試練となるのは、自分が自我であることに執着しているからだ。

 自我はその探究心の力で真我の本質に迫る一歩手前まで来ることができる。この功績は自分に誇れる偉大なことだ。だが、真我の本質を完全に理解するためには、さらに一歩進んで真我そのものにならなければならない。そのために、この誇り高い自我を捨てられるのか。この身体も心も、不完全ながら愛すべき性格や記憶さえも自分ではないとするのだ。いくら真我を理解するためとはいえ、そこには抵抗が起こるだろう。この時点から自我は頼もしい味方から厄介な敵になる。様々な理由をつけて自我を手放さないようにするかもしれない。あるいは自我が自我は放棄したと宣言するかもしれない。これはそういう気持ちになるということではない。それが気分的なものであり、実際には自我から離れていないのであれば、自我を不自然な状態に陥らせるだけになるだろう。自分が真我になるとは、瞑想によって自我ではないことを明確に証明し、自我が十分に納得して為されるものでなければならない。

 自我の本質は世界の細胞だということだ。その自我を自分だとしてきたところに勘違いがある。本来、自分とは真我のことだった。自我を捨て去るとは「私」を自我から真我へと転移させるだけのことであり。本来の正常な状態を素直に認めることなのだ。そのとき、その転移によって自我はただ世界へと戻される。そこが自我本来の居場所だ。初期の自我は世界にいながら真我そのものでいることができた。だが、活動的な世界の中で、それに同調して動いている自我が自分なのだと勘違するようになってしまった。自我は憎むべき敵でもなく、消し去らなければならない存在でもない。ただ、本来の住処である世界に戻すだけでいい。それで自我は「私」という重責から解放されて、世界でのびのびと生きるようになれるだろう。ただ、このことをすぐに自我が飲み込めるかどうかは別問題となる。

 ほとんどの自我は真我の手前で足踏みをする。またはそこから踵を返して別の興味へと焦点を移すだろう。それもまた世界の動きであり、認められている自我の自由な選択なので致し方ないことだ。真我はそれを非難したり、嘆いたりすることはない。自我がそうであっても真我には何の問題もないのだ。自我は自分が真我であることを受け入れるため、精神的に成長する必要がある。そこで時間をかけて、究極的に自分に求められている状態を知っていく。そうして成熟した自我は、真我への最後の一歩を踏み、自分を真我へ転移することに成功するだろう。そこですべてが正常な配置になり、その自我は「私」である真我の本質をも理解するのだ。

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