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暴 支膺懲の萌芽は日清戦争にあった~残忍Chinaの邦人惨殺史

太平洋戦争はこうしてはじまった⑪

姑から聞いた話

1年前

日本軍のシベリア出兵、虐殺・略奪 1918年-1922年(Wikiより)、それからの流れ、他

尼港事件(にこうじけん)

3年前
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【百年ニュース】1920(大正9)5月31日(月)ニコライエフスクに日本軍が迫りパルチザンは街を焼き払う。堅牢な建物は爆破しアムグン川上流ケルビに逃亡。2月6日無線施設破壊以降日本は現地詳細不明。3月14日領事館焼失し守備隊全滅。5月24日捕囚者も殺害。救援隊到着は6月3日。

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【百年ニュース】1920(大正9)3月6日(土) 前日の外交調査会の決定に従い、シベリア撤兵方針を閣議決定。守備線を短縮し、バイカルおよび黒竜江省から撤兵し、東支鉄道沿線および浦潮地方の沿海州に配置。黒竜江河口の港「ニコライエフスク」は樺太防衛上の要地として守備兵駐屯を継続。

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【百年ニュース】1920(大正9)5月21日(金)ニコライエフスクで逮捕と処刑が始まる。司令官トリャピーツィンはパルチザンとその家族をケルビ村に避難させ、市内は焼きつくす方針。中国領事と中国人居留民は全財産を持ちアムール川上流へ避難。収監中の日本人居留民生存者にも緊張が走る。尼港事件。

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【百年ニュース】1920(大正9)3月29日(月) ハバロフスクから敦賀港に帰着した引揚者の談として、パルチザンとの衝突でニコライエフスク領事館が焼失し石田虎松副領事生死不明と伝わる。尼港事件に関する初報道。→解氷を待ち多門二郎大佐の救援隊が到着したのは6月3日。

【百年ニュース】1920(大正9)6月3日(木)早朝多門二郎大佐の救援部隊がニコライエフスク到着。全市が火焔に包まれ、トリピャーチンはじめパルチザンはすでに逃走後。墓地に避難していた市民約70名を発見。ロシア人のほか中国人4,米国人1。上流マゴ村で中国人妻妾となった日本人女性14名生存の報。

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【百年ニュース】1920(大正9)3月14日(日) ニコラエフスク日本領事館がパルチザンの包囲攻撃を受け焼失。石川正雅少佐、三宅駸吾少佐以下日本軍全員戦死。石田虎松副領事とその妻子、領事館内の在留邦人も全員死亡。兵営に残った日本軍80名と民間人13名が翌日正午に白旗投降したが5月までに全員殺害。

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【百年ニュース】1920(大正9)4月2日(金)「午後閣議(官邸)、外相陸相よりニコライウスクにおいて我が守備兵および居留人の多数惨殺せられたる由を報告せしが、事情判明せず、結氷中なれば救援隊を送る方法も之なし、甚だ心痛のことなり。(原敬日記)」

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【百年ニュース】1920(大正9)5月24日(月)ニコライエフスクのパルチザンが撤退するにあたり、収監中の日本陸軍軍人軍属108名,海軍軍人2名,居留民12名,計122名をアムール河岸に連れ出し殺害。病院に収容中の傷病日本兵17名も殺された。監獄に処刑宣告時刻の12時を忘るなとの壁文字が残る。尼港事件。

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【百年ニュース】1920(大正9)3月13日(土) ニコラエフスクで展開中の日本軍とパルチザンとの戦闘で、アムール川停泊中の中国砲艦が日本軍兵営を砲撃。後藤大尉隊全滅。日本軍はわずかに日本領事館と兵営一部を残すのみ。市内日本人居留民はほぼ全員が集団自決するかパルチザンに虐殺された。

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【百年ニュース】1920(大正9)4月4日(日)ウラジオストクで日露両軍衝突。尼港事件を知り日本側強硬化。「夜田中陸相より電話にて浦塩において日露衝突ありし旨ただいま電報に接せりと云えり。とにかく政府の声明によりて然との方針を公示せしに何事を生じたるや、遺憾の次第なり(原敬日記 4/5)」

自虐教科書の病理④ 日本単独悪玉説〜日本人は虐殺されても教えない

【百年ニュース】1920(大正9)7月17日(土)「飯野吉三郎,外松孫三郎来訪。都下無頼の徒にして志願する者を樺太に送ることにつき内談あり,余は適当の案と思い賛成しおきたり(原敬日記)」尼港事件で保障占領予定の北樺太に都会の無頼漢を多数送込む計画が原首相宛提案される。

尼港事件も日本軍のせい?

大正九年五月24日午后12時 忘ルナ | 日本人が虐殺された尼港事件

1年前

ウクライナ侵攻のなかの「中ロ関係」を日本から眺める

超拡散宜しく『貴方も歴史の証人になれる令和4年5月28日午後1時:靖國神社昇殿参拝「尼港事件殉難者慰霊祭」◇シンポジウム「隠された歴史を取り戻す」』

【百年ニュース】1921(大正10)8月12日(金) シベリア臨時海軍防備隊司令,大田原達大佐が東京の自宅に戻った。「尼港」「亜港」と名付けた2匹のシベリア産の子犬を持ち帰る。交代でシベリアに派遣されたのは秋元秀太郎大佐。だが9月9日アムール川上流で海軍越冬工事中のマリンスクを視察中に病死した。

【百年ニュース】1920(大正9)3月12日(金) ニコラエフスク駐屯中の日本守備兵370名が蜂起。陸軍は石川正雅少佐以下水戸歩兵第2連隊第3大隊等330名、海軍は石川光儀少佐、三宅駸吾少佐以下40名。赤軍本部(ノーベリ商会)護衛部隊(市民倶楽部)監獄等を襲撃するも撃退される。

【百年ニュース】1920(大正9)6月24日(木)貴族院衆議院合同の尼港事件追悼会。貴族院代表徳川家達、衆議院代表岡崎邦輔に続き、原敬首相が弔辞を読み上げた。「断じて黙認寛恕することあたわざるところなり」。同日水戸でも尼港で全滅した歩兵第2連隊第3大隊の招魂祭開催。

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【百年ニュース】1920(大正9)6月24日(木)貴族院衆議院合同の尼港事件追悼会。貴族院代表徳川家達、衆議院代表岡崎邦輔に続き、原敬首相が弔辞を読み上げた。「断じて黙認寛恕することあたわざるところなり」。同日水戸でも尼港で全滅した歩兵第2連隊第3大隊の招魂祭開催。

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【百年ニュース】1920(大正9)7月7日(水)ヤーコフ・トリャピーツィン(Yakov Tryapitsyn)、ニーナ・レベデワ(Nina Lebedeva)ら尼港事件の首謀パルチザン計32名が、ケルビでボルシェビキと連携中の元白軍将校アンドレーエフ(Andreev)の部隊に逮捕される。2日後に全員が死刑宣告をうけ即刻処刑された。