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ウクライナ侵攻のなかの「中ロ関係」を日本から眺める

ロシアによるウクライナ侵略から1年経ちました。そんな中で注目されるのは中国の動向です。中国とロシアの関係については拙稿もご参照下さい。

バイデン大統領のウクライナ訪問と同時の2023年2月22日に中国の外交担当のトップの王毅共産党政治局員がモスクワでプーチン大統領に面会しています。


この訪問から中国とロシアの協力関係と観測されるようなニュースになっています。しかし、一方で私が注目した中ロ関係のニュースは大きくは報道されていません。

2月6日に中国政府(自然資源部)は地図上の地名で中国語名の併記を義務付けたロシアの都市や地名を発表しました。台湾や尖閣諸島の魚釣島、南沙諸島についての記述は従来の方針とは変動は無いものの、大きく異なるのは、ロシアの領域での中国名表記を併記とは言え、義務付けたことは注目されます。しかもウクライナでの戦時中にやるタイミングです。

自然资源部关于印发《公开地图内容表示规范》的通知
自然资规〔2023〕2号
各省、自治区、直辖市自然资源主管部门,新疆生产建设兵团自然资源局,国家林业和草原局,中国地质调查局及部其他直属单位,各派出机构,部机关各司局:
《公开地图内容表示规范》已经部审议通过,现予以印发,请遵照执行。
自然资源部2023年2月6日

中国政府・自然資源部2023年2月6日

http://jx.people.com.cn/n2/2023/0220/c186330-40307445.html

私が引っかかるのは今回発表したのが「自然資源部」という天然資源を扱う役所であることです。要するに天然資源は頂きます、という露骨な話ではないでしょうか。日本からすると、ウクライナ情勢の関連でサハリンの天然ガスの権益だけ見るのは短絡的すぎると感じます。他にも地下資源あります。

そこで、中国語名の併記を義務付けられた地名とその由来や日本との関係史などを考えてみようと思います。

中国名の併記が義務付けられた地名

①ウラジオストク(Владивосток)

英文表記:Vladivostok 中文表記:符拉迪沃斯托克 中国名:海参崴
ウラジオストクは日本人にもなじみがある都市だと思います。
歴史的に経緯を辿ると日本とも縁が深い「渤海」にさかのぼります。拙稿ご参照下さい。

7世紀末から10世紀初のウラジオストクは渤海国の領域でした。沿海地方州立博物館には発掘された渤海国時代文化財が展示されています。

元・明の時代。元の時代は永明城と呼ばれ、明の時代は永楽帝が「奴児干都指揮使司」を設立、東北地方を支配する機関として「奴児干都司」が設置された重要な要衝地となっています。

清の時代は外満洲と呼ばれていた地域の中で、現在のウラジオストクは海參崴(「海辺の小さな村」の意)と呼ばれていました。外満洲は1858年のアイグン条約と1860年の北京条約により清からロシア帝国に割譲されました。「ウラジオストク」はロシア語の「東を征服する」の意味です。

ネルチンスク条約とアイグン条約

1901年からウラジオでの極東艦隊の編成が始まり、日露戦争に至ります。その後のシベリア出兵後に日本人も多くいました。

古是三春ことヤメ共の篠原常一郎氏の訪問動画が興味深いです。

最近では名越健郎氏もウラジオストックでの中国の影響について2012年夏にフォーサイトに寄稿されてレポートしています。

②樺太(サハリン)(Сахалин)

英文表記Sakhalin 中文表記:萨哈林岛 中国名:库页岛
「庫頁島」の由来は「苦夷」からのようです。日本の「樺太」はアイヌ語から来ています。

経緯については黒色中国様のブログが参考になります。「サハリン」が満州語由来のようです。

中国の動画サイトでの説明もあります。「ロシアと日本に奪われた」そうです。

③ハバロフスク(Хабаровск)
英文表記:Khabarovsk 中文表記:哈巴洛夫斯克 中国名:伯力

1858年、アムール川を東進してきたロシア帝国の監視所がアムール川とウスリー川の合流点に建設され、17世紀のロシアの探検家エロフェイ・ハバロフにちなんで「ハバロフカ」と命名されています。1860年の北京条約により、この町の中心部になるアムール川東岸(右岸)の地域は正式に清からロシアに割譲されています。1895年には現在の「ハバロフスク」という名前になりました。「伯力」の命名の由来がよくわかりません。最近では小泉悠氏が2019年にハバロフスクを訪れ、レポートしています。

④ウスリースク(Уссурийск)

英文表記:ussuriysk 中文表記:乌苏里斯克 中国名:双城子

ウスリースクもかつては清国領でジュル・ホトン(満州語:juru hoton、漢語:双城子)またはフルダン・ホトン(furdan hoton、漢語:富爾丹城)と呼ばれていたようです。1866年に清国領からロシア領になって6年後、ニコライ1世の名をとってニコリスコエ村が置かれました。東清鉄道との連絡を図るウスリースク鉄道の建設後は分岐点として重要な都市になりました1898年ニコリスク・ウスリースキー市となりました。由来は「ウスリー川」からです。

なお、ウスリースクにはシベリア抑留の日本人墓地が確認されているだけで13か所あります。

⑤ネルチンスク(Нерчинск)

英文表記:Nerchinsk 中文表記:捏尔琴斯克 中国名:尼布楚

1689年にネルチンスク条約が締結された地として知られています。それほど中露紛争の象徴的な場所と言うことでもあるわけです。ネルチンスク条約は康熙帝時代の清朝とピョートル1世時代のロシア・ツァーリ国との間で結ばれた、両国の境界線などについて定めた条約です。

1689年ネルチンスク条約(赤線)

内容は満洲での国境を黒竜江・外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の線に定めるもので、ロシア側は不凍港を獲得できていない点が重要です。1672年生まれピョートル1世が17歳で摂政政治でしたが、この「失敗」がピョートルの親政の契機にもなっています。一方の清朝は康熙帝27歳。日本は元禄2年の綱吉の時代です。

原文はラテン語、ロシア語、満洲語で二部ずつ作成。清側のアドバイザーとして2人のイエズス会員トマス・ペレイラ(Thomas Pereira、徐日昇)およびジャン・フランソワ・ジェルビヨン(Jean-Francois Gerbillon、張誠)が交渉していることも注目されます。2人は康熙帝に数学や音楽を教えています。

1689年ネルチンスク条約。ラテン・ロシア・満州語で作成。漢文は無い

⑥ニコラエフスク(Николаевский)

英文表記:Nikolayevskiy  中文表記:尼古拉耶夫斯克 中国語名:庙街

アムール川の街ニコラエフスクも清代もアイグン条約で割譲されるまでは清の領土でした。1809年間宮林蔵は樺太およびその対岸のアムール川下流探検で『東韃地方紀行』という記録を残していますが、その中の「フヨリ」がニコラエフスクに相当すると見られています。

ロシア革命後のロシア内戦期、1920年(大正9年)の春から夏に「尼港事件」が起きています。赤軍パルチザンによって占領された町で6千人の住民が虐殺、建物は破壊、廃墟となりました。犠牲者はロシア人だけでなく、日本人居留民と日本軍守備隊およそ700名余りが含まれ、国際的にも批判を浴びることになりました。

この「虐殺」で当時の原内閣、田中義一陸相も世論の批判を浴びました。その後、戦後は左翼史観の中で「忘れさせられた」事件にはなっていますが、当時の世論は沸騰していました。

⑦ブラゴベシチェンスク(Благове́щенск)

英文表記:Blagoveshchensk 中文表記:布拉戈维申斯克 中国名:海兰泡

1689年のネルチンスク条約ではブラゴヴェシチェンスク周辺地域は清朝の領土とされ、1856年にブラゴヴェシチェンスクはロマノフ朝ロシア帝国の要塞都市として建設されました。アムール川の北部は清に属していたが、1858年のアイグン条約(璦琿条約)と1860年の北京条約によって外満洲の一部として正式にロシアに割譲されています。

その後1900年(明治33年)義和団の乱(庚子拳乱)が発生した際、義和団の一部が黒龍江対岸のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)を占領しました。以前から満洲全域進出を計画していたロシアは、義和団と列強とを相手にしている清国側は満洲情勢に関わる余裕無しと見ていました。

そこで1900年7月ブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)事件でコサック兵が混住する清国人約3千名を同地から排除するため虐殺し奪還。さらに8月の黒龍江・璦琿事件では、義和団に対する報復として派兵されたロシア兵約2千名が黒河鎮に渡河上陸し、清国人を虐殺。そこの時期に清国人約2万5千名がロシア兵に虐殺されました(アムール川事件)

この事件を契機に日本でのロシア脅威論が高まり、できたのが第一高等学校寮歌「アムール川の流血や」です。日露戦争前の緊張感が感じられます。3番の歌詞「満清すでに力つき 末は魯縞も穿ち得で 仰ぐはひとり日東の 名もかんばしき秋津島」を読むと、没落する中国とロシアの脅威に立ち向かう日本の姿を歌っています。ちょうど120年前と逆の現象と言えるかもしれません。しかも、これが一高の寮歌という時代の雰囲気です。「ブラゴベシチェンスク」と言っても今の日本人99%知らないと思います。

なお、作詞の塩田環は一高で鳩山一郎の友人だったようです。鳩山の日ソ交渉で奇縁と言えば奇縁です。後に資源関連の法律の専門(鉱業法)で『鉱業法原理』なども出していますが、ここでもロシアとも奇縁を感じます。

陸軍の「歩兵の本領」も同じ旋律。同じものは数多く別途論じますが、もとは永井建子が1899年の『小楠公』が原曲だそうです。

メーデー歌も。「ソ連」が輝いた昭和の左翼のニオイが懐かしいなぁ。

ラゴベシチェンスク市とアムール川(黒竜江)を挟んだ中国の黒河市の現在の様子を北海道新聞が取材しています。

⑧スタノボイ山脈(Станово́й хребе́т)

英文表記:Stanovoy Range  中文表記:苏塔诺夫山脉 
中国名:外兴安岭(外興安嶺)

スタノボイ山脈・外興安嶺

1689年のネルチンスク条約で一旦は清とロシアの境界となりました。しかし1858年のアイグン条約により完全にロシア領となりました。


要するに全て「かつて『中国』の領土」だったところ

『中国』と言うと語弊がありますが、現在はロシア領とされるエリアで清朝の領土とされていたところです。ウクライナに対するロシアの主張が認められるなら、これはどうなんだ、という気もします。

清朝の範囲

極東ロシアでの「中国」の動き

極東ロシアでの中国の存在感は日に日に増大しつつあります。中ロ関係を協力関係だけ見るのは違うのではないかとは思います。

2022年9月には、極東で大演習も行われています。

極東ロシアのニュースには注目が必要です。土地を巡るいさかいもよく起きています。


参考


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