(平成六年九月) 駅からすぐ近くにある夫の実家の裏にはO眼科という小さな病院がある。先生は姑より三つ四つ年上だというから九十才かそこらになる。まだ現役で患者を診ている。 医師ひとり、看護婦ひとりという最低人数で経営されている眼科であるが、すぐ近くにあるにもかかわらず、わたしがこの医院の中にまで入ったのは長男がまだ歩く前に起こした外耳炎のとき以来であるから二十五年ぶりのことになる。 先日、治療に行くと言って出た姑の帰りが少し遅いように思って迎えに行き、はからずも二十五年
(平成六年七月) 秩父にオオタブ耕地と呼ばれる山村がある。耕地といっても平坦な土地ではなく、秩父のこの地域は段々畑になっている。厳しい条件である。年々人口が減り、この近くにあった今はダムの底に沈んだ村同様、いずれは消えていく村である。もちろん、わたしは行ったこともないが、 先日テレビでこの村の事情を、何十年も村の写真を撮り続けている人のことといっしょに放映した。最初から見ていなかったのでオオタブという音にどういう字が当てられるのか不明である。耕地という字だけは、放送の後の
(平成六年六月) 立花隆の「生、死、神秘体験」の中に河合雅雄の加わった養老孟司との対話も載っているが、その中で養老が13才の少女の堕胎手術の結果取り出された胎児について話していることがある。三ヶ月くらいでこの世に出てきた「もの」は九センチくらいの大きさではあったが「これはヒトだ」と養老が直感できたものであり、それを解剖学者である彼が 「処理」するのは「明らかに自分が殺しているのだ」という感じがあったという(これはオーストラリアでのことであったと書いてある) これを読むと
(平成六年五月) テレビで「象の時間、ネズミの時間」 を主題にした動物行動学をわかりやすくしたよう番組を放送していた。クイズ番組ではあるが、なかなかススンだ知識まで取り入れて企画されている。 からだの大きさにかかわらず、一生の心拍数はどの動物もだいたい一定していて、その数は約15億回だということである。人間だけがこの計算に合わないのはよりたやすく生きる環境を作ることや進歩する医学によっているが、その根本となる知恵やものを考える力を持っているからである。わたしとしては「持
(平成六年四月) このところ、午後娘と交替してからはひとりで閑居山へ行き次の交替の時間までを過ごすことが多い。森林公園の駐車場に車を止めて、ただそこにいるというだけであるが、前の雑木林から聞こえてくるうぐいすの声に耳をすましていたり、持ってきたはっさくを食べたり、本を読んだりするくらいのことであるが、なにより静かなのがいい。 先日A氏も言っていたが、この山のことを知っている人はあまりいない。ただ霊水だけが知られていて、国道の裏道の途中にあってたくさんの人がそばを通ってい
(平成六年四月) 人間の認識上の数直線というものがある。ゼロを中心にして、そこから左がプラスの方向、右をマイナス方向と便宜上定めている。実際にゼロというものは存在しなしが認識の上では存在する。同時にマイナスという観念も同じである。 この世の中で人間の目に見えるものをプラスの線の上に置くことのできるものとすると、その見える物のすぐ後ろ側にその物のマイナスの面が存在するはずである。鏡をその物のすぐ後ろに置くと考えればいいかも知れない。 去年の放送大学の特別講義の中に「光学
(平成六年四月) すべてをゆるせたはずであった。確かに昨年の暮れにはそういう気持ちでいたはずであった。それがどうだろう。たかだか四ヶ月あまりしか経っていないのに、わたしの心の中にまた憎しみがもどって来てしまった。わたしはそれほど心狭い人間なのであろうか。 すべてをゆるすことができたのは、わたしの努力によるものではなくて、「あってある者」の力によるものだとクリスチャンの友達には話してしまった。一度口から出たことばはもう口の中にはもどらない。わたしの力でなかった結果に疑いを
(平成六年三月) 白水社が定期的に送ってくれる出版案内誌のコラム欄にこういうことが載っていた。 「さる囲碁の名人の言に、名人位にふさわしい三つの条件があり、一は頭のよいこと、二はよく勉強すること、三は礼を知ること。一、二は当然としても三はややひとひねりした言であり、よほどの偽善者のいうことのようにも思えるが、これは、礼儀が正しければ師のおぼえめでたいということではなく、ひとつの道を極めるに必要な精神の傾きという意味ではないか。」 後半にはG・マルケスの小説に出てくるア
(平成六年三月) 「テスト?なんのテスト?わかんねえな」 と言ってなおもわたしから手を離さなかった人がその後しばらくしてから福島に単身赴任することになった。五年前のことになる。わたしがこのときに彼に発したことばは「あなた、テストされてるのがわからないの?」であった。今でもそのときの状況が目に浮かぶ。彼はわたしをしっかりと抱えて逃がすまいとしていた。 彼はこの地に工場ができた当初から営業所の所長として赴任し、以後十数年まったく動くことがなかった。それがわたしにチョッカイ
年ごろとはたいてい結婚適齢期のことを言う。人の一生の中で「年ごろ」と非常にあいまいないいかたながらもだいたいの時期が限られるのは、結婚を頭においてのものである。 死ぬ年ごろとはあまり言わない。 啓蟄と言われる二十四節気のひとつである日、町内会では恒例の缶拾いが行われた。朝七時から始まるこの行事は、以前は心して起きる必要があったが、このごろではなんでもない。 ものの三十分もあると終わってしまうことであるが、欠席するわけにはいかない。出ないからといってとくに罰則あるわけで
(平成六年二月) 奈良の弟は昭和二十六年生まれであるから今四十三才になる。一ヶ月前になったばかりである。その弟がパン屋の商売に見切りをつけてまもなく一年になろうとしている。さいわいお店の借り手がみつかり、比較的いい条件で譲り渡すことができた。厨房などそのまま使えるような商売を始める人に渡ったのは幸運であった。朝暗いうちから起きて仕込みを始めなければならなかったパン屋の仕事をやめると、しばらくは体と精神を休めるために家でのんび りすることにしていたらしいが、それもいつまでも
(平成六年二月) その閑居山の峠から見える筑波山を、意外に早くA氏に見せてあげることができた。ただ残念なことにお天気があまりよくなく、お正月に見たような夕焼けを伴ったすばらしい山というわけにはいかなかったが。 彼の日曜出勤の日に、英文で明日の出勤をだれかほかの人と交代することのないように、また、少し時間をあけてくれるようにとメモして渡しておいた。 英文で書くのは、現在工事中のために彼の車の置き場所が変わり、めったに窓にすきまのあることがないのでメモをワイパーにはさ
(平成六年二月) 今年のお正月の三日には夫とドライブを楽しむことができた。帰省していた長男を送り、 時間のあいた午後、わたしが山へ行きたいと言うと夫は快く応じてくれた。 以前には、わたしは自分からこのように申し出をすることなどまずなかった。めったにないヒマができたときに夫から「どこかへ行こうか」と言われても、首を横に振って、声にこそならなか ったが「だれが行くもんか」とそう言っていたように思う。 わたしに苦い思いをさんざんさせておいて、気がむいたからと謝罪のことばもなし
観察、考察、推察、洞察はわたしの精神生活を支えているであるが、先日A氏から「アナタは考え過ぎるね」という批評をもらった。これと同じようなことを他の人からも言われたことがある。わたしが物事を必要以上に深く追及し、その結果、自分を窮地に追い込んでいるというのである。 わたしにすれば、考えなければ生きている意味がないと思えるので、A氏からそう言われたときにもそのように答えた。彼の言わんとするところは「過ぎたるは及ばざるが如し」であるらしかったが、彼はさすがにわたしに気を使ってそ
(平成六年一月) ドライバーといって何をまず思い浮べるだろうか。車を持っている人は「運転者」であろうし、ある人には「ねじまわし」かも知れない。またゴルフをするにはティショッ トのクラブと思い浮べるであろう。 いずれの場合にも「ドライブ」という動詞の持つ要素が含まれていて、「前におし進める」という動作を伴っている。 カウンセリングで言うドライバーもやはり同じ要素を持っている。行動やことばに表れるその人の感情を「駆り立てるもの」という意味になる。それには 1、正しくあれ
(平成六年一月) 自慢するわけではないが、このところいろんな人から「すてき」と言われることが多いのですっかり気をよくしている。わたしのような年になってからそういうほめことばをもらうのはこの上なくうれしい。とくに女の人から言われるとよりうれしい。なのでわたしも機会があるごとに人に褒めことばを発するように心がけている。これは明らかにプラスのストロークである。 わたしは自分が美人だとはさらさら思っていないが、ただ自分の持っている個性というものはあますところなく外に出すことはで