眼科医
(平成六年九月)
駅からすぐ近くにある夫の実家の裏にはO眼科という小さな病院がある。先生は姑より三つ四つ年上だというから九十才かそこらになる。まだ現役で患者を診ている。
医師ひとり、看護婦ひとりという最低人数で経営されている眼科であるが、すぐ近くにあるにもかかわらず、わたしがこの医院の中にまで入ったのは長男がまだ歩く前に起こした外耳炎のとき以来であるから二十五年ぶりのことになる。
先日、治療に行くと言って出た姑の帰りが少し遅いように思って迎えに行き、はからずも二十五年ぶりに診察室にまで足を踏み入れることになった。
一歩中へ足を入れて、わたしはそのなんともいえないような古くも温かさの伝わってくる雰囲気に圧倒された。木の床、サッシュではない鍵の手に開かれた開口部、開け放たれた窓の外に桐の木やその大きな葉が風に動いているのが見える。目をひくのは診察用の医師と患者の座る椅子のそばの机で、 直径が二十センチあまりの大きなフラスコがふたつ台に掛けられている光景である。 朝の光線に映える桐の葉をバックにした窓ぎわには細かい仕切りの木製のカルテを入れる棚が置いてある。カルテの色はどれももはや白ではなく黄ばんでいる。それだけ古くからの患者がここにかよい続けているということを示している。 部屋の右手の壁に沿ったところには次の診察を受ける人のためのソファがおいである。ふたりの老婦人がかけていた。診察室の外側にも待合室がある。診察室に続く小部屋は暗室になっていて、姑は先生とその中にいた。それを知らずに、見える場所にいない姑の姿を求めてわたしはつい診察室にまで入ってしまったのであるが、想像もしなかった光景に「これはモノクロームの世界だ」と瞬間に思ったのは、念入りに磨かれた床が逆光でほとんど白く見えたこともあるが、そのたたずまいは時代がかっていてカラーの写真などにおさめるのは最も不適当だと思えたからである。
暗室からその治療室に姑を伴って出て来た〇先生の腰は曲っていたが、わたしがほとんど忘れていた顔はにこにことしていてちっとも耄碌などしているようすもない。
ごく最近海外旅行に出かけていたという話を姑から聞いてはいたが、なるほどその年にもかかわらずそれだけの意欲がある道理だとうなづける。意欲があるからボケもしないし、ボケないから次の意欲に取りかかりやすい。いい循環である。姑の話では、O先生はここに住んでいるわけではなく、美野里からかよってくるらしい。ひとり住まいで、自分でお弁当まで作って来るというのであるから驚く。
眼科専門の先生に耳鼻科のまねをしてもらったのは、もともと姑の勧めによっていて何よりもすぐ近くにあって、近所のよしみでほかの患者さんのように順番を待たなくても診てもらえるという便利さだけで無理を聞いてもらった。科は違っても医者に変わりはないという姑の、いささか強引な勧めであった。泣きかたがふつうではなくいろいろ注意してようすを見ていると、ある角度で抱きあげたときに泣きかたが変わり、どうもそれは頭の位置と関係があるように思えた。頭を見ても外傷などないから、これは中側のどこかに異変があると見当がつく。 中心部は考えられないからまず外側に近い頭のぐるりから触っていくうちに、抱くときに支えるわたしの手が両耳のうしろに当てられると泣きかたがひどくなるのがわかった。角度によって強く泣くのは、その部分に血圧がより強くかかったときに痛みが増すことによっていて、そのことからおそらくそこが化膿しているに違いない。わたしは七、八才のころ中耳炎にかかってかなり長い間病院に通った。そのときの自分の耳の痛み、あのうずくような痛みをまだ覚えている。 長男の耳の異常に気づいたときによみがえったのはまずその痛みであった。ちょっと頭を傾けただけで脈打つ血管の圧迫を受けて患部がよりズキンズキンした。他人の痛みを自分の痛みとして理解するには、やはり経験が必要である。ゆえに、これは母親の力ではなく単に経験者の知恵で探り当てた子供の病気である。
耳が原因だとよくぞわかったと、O先生が関 心していたと後に姑の口をとおして聞いた。単に外耳炎であった。一度の治療ですぐに治ったのはさいわいであった。そのときには長男のことばかりが気になって、先生の顔はおろか診察室のようすなどまったく目にはいらなかった。おそらくそのときからちっとも変わってはいないに違いない部屋は、まもなく二十一世紀になろうという現代からはタイムスリッ プしたような雰囲気がある。以前「少年時代」という映画を見たが、この映画を撮影するために、ロケ地である裏日本海側のある町の、道路の舗装を剥がし、電柱を撤去するという徹底した時代考証があったと聞き、わざわざそういうことをしなければ時間を遡って物を見るということが不可能な時代、 O先生の診察室は時間に置いていかれたようなやすらかなやさしさがいたるところにうずくまっている。
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