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尼港事件(にこうじけん)

日本が日露戦争に勝利した明治38年(1905年)、久原(くはら)鉱業が海軍の指導でサハリンの油田開発に進出した。
※久原鉱業とは久原財閥(久原房之介が興した財閥)の一部門

これは先にイギリスがサハリンの油田の採掘権を有していたが、1918年にその権利消滅が迫っていたことを好機として日本側が企てたものらしい。
このころ、海軍は石炭を燃料にする艦船から、石炭と重油の混焼ボイラーを経て、重油オンリーのボイラーへと変遷していく途中だったから、石油資源を陸軍よりも渇望していた。
久原鉱業はロシア政府(帝政)と交渉してサハリンの石油の採掘権をイギリスから引き継ぐことになる。

ところで「尼港(にこう)」とは「ニコラエフスク」の漢字名の頭文字を取って日本ではそのようにこの港町を呼び習わしていた。
「尼港」はサハリン島と間宮海峡を挟んで対岸のユーラシア大陸側にあるアムール川河口の港町である。
この港は日本の漁業会社が古くからサケ漁の本拠地として利用し、開発してきた経緯があり、日本人が多数入植していたのであった。
現在も「ニコラエフスク・ナ・アムーレ」という呼び名で存在している。

この町には日本人のほか、ユダヤ人の漁業事業主や、当然ながらロシア人も多数住んでいた。
1914年にはアムール川流域が、沿海州とは分離され、サハリン島とともにサハリン州としてロシア政府から行政権を与えられ、ニコラエフスク市は州都となり、栄えた。

帝政ロシア時代に、久原産業ほか数社がサハリンの油田採掘権に名乗りを上げていたが、突如、ロシア革命が起こり、そのロシア側の返事があいまいなまま放置された。
1918年に、アメリカの要請にこたえる形で日本のシベリア出兵が実施される。
これは「チェコ解放支援」の名目でアメリカが世界に呼びかけたもので、反共声明と理解される。
チェコ軍は当時、帝政ロシアを革命によって倒したレーニンが率いるボリシェビキ政権に激しく対立していたからだ。
日本のシベリア出兵は国際的な軍事活動への参加だったわけであるが、対してボリシェビキ政権は極左赤軍と後のソビエト連邦となるレーニン一派に分裂しており、日本に対する考え方もそれぞれ違ったとみられる。

その間に、大正九年(1920年)に「尼港事件」が勃発して、極左の赤軍パルチザンによって「尼港」に居留の日本人700人余りが虐殺されたのである。
極左赤軍は、日本軍がシベリアに出兵したため、反ボリシェビキであることだけを理由に暴虐の限りを尽くしたのだった。


ロシア革命によって帝政ロシアは倒れ、1922年にボリシェヴィキの指導者のレーニンとスターリンによってソビエト連邦が興った。
ロシア革命のころから、ニコラエフスクの治安も悪化してきており、ユダヤ人の資本家や日本人に対して強盗を働いたりする者が増え始めるのである。
極左赤軍は革命精神に則(のっと)り、外国人資本家が搾取を極めているとして、攻撃対象にしたのであった。
ゆえに普段、日本人にこき使われていた中国人や朝鮮人もこぞって赤軍パルチザンに加担し、強奪や処刑を企てたのだった。
その窮状を日本政府が聞くに及んで、「尼港事件」で囚われた邦人を救出すべく日本政府は「尼港」へ軍隊を送ることになる。

ソビエト政府も、赤軍パルチザンの「勝手な」仕業を重く見て、彼らを逮捕し死刑に処し謝罪した。ソビエト新政府は日本政府との間で事を荒立てたくなかったらしい。
これを機に、日本の尼港およびサハリンへの支配が強まるのである。

このように、日本政府とソビエト連邦政府は表面上は親密を装っていたが、内心は疑心暗鬼だったと考えられる。
ソ連政府は、モスクワから極東のニコラエフスクへの目が届きにくいことから、反政府組織が極東を牛耳ることに神経質になっていて、赤軍パルチザンにしてもソ連政府の意向とは異なる武装蜂起であり、ロシア人のほか、中国人や朝鮮人が構成員になっていたらしく、彼らの暗躍はソ連にとっても好ましくなかった。

かつて日露戦争で負けたのは帝政ロシアであり、ソ連政府は新たな日ソ関係を模索しており、極東のさまざまな利権に関しても、日本に有利にさせて信託統治的な状況に置く方がよいと考えたのだろう。
私がそう考えるのは、信託統治に関する両国間の契約はなく、ただ私人間の商取引上の権利行使についてしか存在していないからだ。
また日本政府も海軍に私企業を後押しさせて石油採掘を進めるというあいまいな態度を取っていたことからもうかがえる。
このような国家レベルをすっとばした外交関係は、ときに危機を呼び込み、軍の横暴を許す結果になることは自明だ。
日本帝国陸軍の「関東軍」の仕業やノモンハン事件、そして満州国建国という暴挙に至るまで、挙げればきりがない。
「尼港事件」がノモンハン事件などの引き金になっているとしたら、うがちすぎだろうか?

ソ連は、結局、極東を御しきれずに、ナチス・ドイツの台頭によるポーランド侵攻に力を削がれることになる。
第二次世界大戦の勃発である。

その前に、日本の陸軍はナチス・ドイツとイタリアと三国軍事同盟を結ばんと政府を二分して議論が起こっていたことを忘れてはいけない。
海軍左派は三国同盟締結反対を唱え、陸軍は推進を図って国会審議は膠着していた。
及川古志郎(おいかわこしろう)海相が「風見鶏」とあだ名されたごとく、紛糾した同盟締結是非の会議を「鶴の一声」で「海軍も同盟締結に賛同する」と決着をつけてしまった。
先に日本は、ソ連とは「日ソ不可侵条約」を締結していたので、ソ連としては日本の三国同盟参画に不信感をぬぐえなかった。当然だ。
ノモンハン事件の顛末もあり、ソ連は日本政府に対して信頼を欠いていたが、当時は対独政策に忙しく、対日政策は、遠い極東のことでもあり、先送りしてしまっていた。
この不安定な日ソ関係が、太平洋戦争終結時に大陸にいた日本人に大きな災難として降りかかることになるのだが…
ヤルタ会談およびその協定に詳しいが、シベリア抑留問題や北方領土問題が現在も後を引いているのがそれだ。

それもこれも「尼港事件」に端緒があるような気がしてならない。
シベリア抑留で亡くなった方、それよりも前に北の大地で虐殺された日本人の冥福をも祈らずにはいられない。

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