見出し画像

あの日、あの時、あの場所でしか出会えなかった人

あの夜。いてもたってもいられなくなり、メイクを直して玄関を飛び出した。

最寄駅に向かい、朝のラッシュとは打って変わってすいている上り方面の電車に乗り込む。終電も近い金曜の夜。すれ違う下りの電車は、帰路につく人々で混雑している。数時間前の自分は、どんな表情であちら側に乗っていただろう。がらんとした車内から暗い外を眺めながら、自分の行動にまだ少し驚いていた。

恋人には家を出る前に「おやすみ」とメールを送った。彼は何も疑っていないはずだ。今夜はもう連絡は来ないだろう。

私はしれっと嘘をついた。今夜、家のベッドに横たわることはない。渋谷へ向かい、そこで朝を迎えるのだ。こんな時間から1人で街に繰り出す理由を、彼にうまく説明できる自信はなかった。自分でも、柄にもない衝動に従っている自分がよく分からなかった。

その日、当時好きだったアーティストが珍しくオールナイトのクラブイベントをやることは少し前から知っていた。行くつもりは全くなかったのに、急遽行くことに決めたのだ。

クラブ通いなんてしたこともなく、突然誘って一緒に行けるようなノリの友達もいない。だけどその夜だけは、1人で部屋にいるのがどうにも耐えられなかった。

会社で初めて泣いた日だった。入社2年目、張りつめていた糸がついに切れた。残業中に誰もいないフロアのトイレで、こらえきれずに吐き出すように泣いた。家に帰ってからも心はざわついたままで、モヤモヤしてうまく眠れそうになくて、いっそ出かけるのもありかな、と思ったら体が動いていた。

電車が渋谷駅に滑り込む。渋谷は職場でもあった。会社の人に出くわさないことを祈りながら、朝とは違う出口から夜の街へと踏み出す。ネオンを背に、携帯で地図を見ながら、知らない道をぐんぐん進む。眠気はまったく感じない。

さほど迷わずクラブに着き、チケット代を払い、とりあえずドリンクを頼みに行く。自分がどんな顔をしているか分からないけど、周りにいる女の子たちのような明るい表情ではないことは確かだ。

ほかに1人で来ている子はあまり見当たらない。少し所在ない気持ちもあるが、この先二度と会うことがないであろう見知らぬ人たちしかいない空間だと思うと、心が安らいだ。人間関係に疲れている証拠だ。

思ったとおり、来ているファンの子たちは女性が多い。よかった。これで周りが男性だらけだったら、きっと居心地が悪かっただろう。

大きな音で流れるさまざまな曲。暗いフロアを埋めるカラフルな人波。私は壁にもたれて、ただ主役の登場を待つ。ライブに行ったことはあるけれど、こういうイベントは初めてだから、ドキドキしていた。

入り口のほうから黄色い歓声が上がり、主役たちが普通にフロアに入ってくる。彼らの周りにあっという間に人だかりができるのを、少し離れた所から見ていた。ライブのときのステージにいる彼らとは比べものにならないほど近い距離で、私は静かに感動をかみしめながら、自然と笑顔になっていた。

彼らはDJをして場を盛り上げたり、みんなに混じって踊ったり歌ったり、フロアで自由に遊んでいる。積極的に話しかけるファンに1人1人気さくに応じたりして、彼らが移動するたびに人波がうねった。見ているだけでも楽しいけれど、珍しく「私も一緒にはしゃぎたい」という気持ちがむくむくとわき上がってきた。でも1人でフロアの中央に混ざっていく勇気はまだ持てない。初心者にはハードルが高すぎる。

ふと横を見ると、1人で立っている女性がいた。私より少し年上に見える、きれいな人だった。時折、横目で彼女をちらちらと気にして見ていたが、誰かと来ているような感じではなさそうだ。
思い切って、声をかけてみることにした。

「お一人ですか?」

下手なナンパ師のように話しかけた私に、彼女は笑顔で答えてくれた。

お互いに1人で来ていることが分かり、しばし会話をする。周りの音がすごくて、初対面でも顔をぐっと近づけて話すせいか、不思議なほど打ち解けるのが早かった。2人とも、同じようにうずうずしていたのだろう。しばらくすると、どちらからともなく誘い合い、はしゃぎながら腕を組んで走り出し、盛り上がるフロアの中央に混ざっていった。

彼女のおかげで、1人で過ごすより何倍もその場を楽しむことができた。主役の彼らと握手をしたり、話したりできたことも嬉しかったけど、その喜びを彼女と一緒に分かち合えたこともすごく嬉しかった。

朝方、イベントがお開きになると、少し眠くなった目をこすりながら彼女と駅までの道を歩いた。朝の渋谷は空気が澄んでいるような気がしたのは気のせいだろうか。

暗い中、大音量で流れる曲に声をかき消されながら顔を寄せ合って話すのも新鮮で楽しかったけれど、朝日の下で昨日まで知らなかった人と並んで普通に話していることも何だか楽しかった。解けかけた夜の魔法が、早朝の空気の中でまだ少し続いているようだった。

彼女の連絡先は、聞かなかった。当時使っていたmixiで繋がろうとしたけど、登録名を聞き間違えてしまったのか、後から探しても見つけることができず、彼女とはそれきりだ。

勢いで飛び乗った夜更けの電車。初めてのクラブ。一夜限りの素敵な出会い。あの夜の記憶は何だかふわふわしていて、あまり現実感がなく、夢のようにも思える。

でも、彼女のことは忘れない。子供みたいにくしゃっと笑う笑顔。曇りのない青空のような、透明な空気感。朝の海でサーフィンをしてから仕事に行くのだと楽しそうに話していたこと。

彼女に会えたおかげで、どうしようもなくモヤモヤしていたのが嘘のように、少し前向きになれた自分がいた。柔らかくて明るいエネルギーに満ちた、パワースポットみたいな人だった。

彼女と別れ始発の電車に乗り込むと、窓ガラスに映った私は、晴れやかな顔をしていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?