心の病と体の病、もっと助けを求めていい。
こんにちは!強靭な肉体が取り柄!だけどメンタルはレンチンした絹豆腐並み、はるねずみです🦔
専門知識があるわけでもなく、自分自身、心も身体も大きな病気になった危険がなく、他人を介助した経験もありません。
なので、あくまで知っている・イメージできる範囲での話となります。もしも不快にさせてしまったら申し訳ございません。
そんな私ですが、心の病も体の病も、どちらが軽いとか重いとか、こっちの方が大変だとか比べるつもりはなく、どちらも大変だけど、「大変さの種類が違うのかもしれないな…」とふと思ったので、今日はそういう話をします。
体の病
病院へ行くかどうかの判断基準
病気やケガなど、体に異常が出た場合、基本的には病院へ行って治療を受けたり、薬を処方してもらったり、その度合いによっては手術や入院が必要になると思います。
軽い風邪くらいのものなら、病院へ行かず、市販薬を飲んで1,2日仕事を休んで様子を見る、という人もいると思います。あるいは、「薬に頼りたくない!」という考え方の人の場合は自然治癒力でどうにか乗り切ろうとするかもしれません。
私もどちらかと言えば、頭痛や腹痛などの症状が軽く、発熱も無い場合は、「仕事(学校)を休もう」「病院に行こう」という発想がないタイプでした。なので、実際に病院へ行った回数は少ない方で、ここ10年で考えても片手で数えられるかどうかな気がします。
どの程度の症状が出たら病院へ行くかは人それぞれですよね。持病や過去の病歴がある人なら、少しでも異変を感じた場合、早めに相談に行く方がいいのかもしれません。仕事で責任のある立場にいる人や、個人で仕事をしていて「休む=収入がなくなる」な人の場合は簡単に休むことができない分、悪化する前に手を打つ必要があるとも思います。
つまり、何が言いたいかというと、よほどの事情が無い限り、自分でどうにもできない状態(体の異変)があった場合、多くの人は病院や薬など、何かの力を借りて、それを治そうとすると思うんですね。
どんなにつらくても頑なに、「絶対に、なんとしても自分の力で治してみせるんだ!」という人は少ないと思います。(そんなことをしていたら命の危機に関わりますし…)
私はあまり詳しくないのですが、「仕事をしていないのでお金がない」「頼れる身内がいない」という人であっても、行政機関に相談することで生活保護を受けたり、医療サービスを受ける手段が得られるはずです。
なので、現代の日本において体の病を治療するかしないかは、あくまで「本人の意志」によるものなのかな、と私は思っています。
本人が自分で意志決定できないような状況(突然の事故や病気の発症)の場合は、強制入院というケースもあるかもしれません。
いずれにしても、体の病を治すことにおいて、他人に助けを求めることはごく自然というか、常識に沿ったことであり、恥じることや悪いことではないはずです。
むしろ、治さず放置している方が「良くない」「自己管理ができていない」「周りに迷惑がかかる」とみなされかねません。だからこそ、病院であれ市販薬であれ、休養を取るという方法であれ、体に異変が起きたら、「治そう」と思う人が多いんでしょうね。
助けの求めやすさ、助けやすさ
自分の体に異変が起きている、あるいは過去に起きた異変により今不自由している場合、他人に助けを求められるかどうか。はたまた、目の前にそんな人がいたとき、自分が手を差しのべられるかどうかについて考えます。
たとえば、街中を歩いていて杖をついている人がいるとします。
そんな人を見かけたら、
そんな予想ができると思います。
そこですぐに手助けをしようとするかどうかは状況にもよりますし、必ずしもそれが「正しい」かはわかりません。
「親切」と受け取られるかもしれないけれど、もしかしたら「余計なお世話!」「一人で大丈夫なのに!」と思われてしまうかもしれないからです。
でも、もしもその人が、杖をつきながらどんどん壁の方に向かっていって、行き止まりまで行ってしまい、進むべき方向がわからなくなってしまっていたら・・・
そうしたら、「助けが必要そうだ」と私なら判断すると思います。
「大丈夫ですか?」「お手伝いしましょうか?」と声をかけた方がいいだろうと考えます。(実際そんな行動が取れるかどうかはさておいて…)
何が言いたいかというと、体の病やケガ、異変、障害は、周りの人の目にも「わかりやすい」と思うんです。
だから、「困っている」こともわかりやすく、自分がその人に何をしてあげられるのかもわかりやすいんですよね。
困っている人と感謝されたい人
病とはまた話が別ですが・・・
背中が曲がっていて腰の調子が悪そうなおばあちゃんが重たい荷物を持って階段を登ろうとしていたら、「重い物を持つのは大変そうだな。腰に負担がかかりそうだな」と考えて、「良ければお持ちしましょうか?」と声をかける。
キャリーケースを引きずり、スマホの地図を見ながら右に左にきょろきょろしている人を見かけたら、「道に迷っているのかな。」と考えて、「案内しましょうか?」「どこへ行きたいんですか?」と声をかける。
そんな感じで、「困っている」様子が目で見てわかりやすければわかりやすいほど、人は手を差し伸べやすくなると思うんです。
たぶん人は、人から喜んでもらったり感謝されることが嬉しいっていう気持ちが、誰でも多かれ少なかれあるんじゃないかなと思うんですよね。
だから、何をすればいいのかが明確だと、「してあげるべき」というより「してあげたい」という気持ちに自然となりやすいのかなぁ、と。
何をすればいいか、自分が相手に何をしてあげられるのか、どんな風に役に立てるのかが明確ということは、イコール、相手に感謝されることも明確だからです。
(良くも悪くも、「感謝されたい」「いい人と思われたい」みたいな承認欲求が満たされる、ということかもしれません。)
体の病やケガ、障害などを抱えている人は、少なからず他人の力や助けを借りる必要があり、それを本人も周りの人もわかっています。
ただ、例外もあると思います。
表に出にくい、見た目だけではわかりにくいものだと、本人から助けを求めなければ、なかなか周りも助けにくいケース張ると思います。
また、潜伏期間が長く、症状が出にくいような病気などの場合は、本人が自覚しにくいことで、助けを求めにくかったり、助けを求めるまでに時間を要する可能性もあるかもしれません。
ただ、いずれにしても、「体の病(ケガ・障害等も含む)」について、助けを求めることも助けることも、「恥ずかしい」「悪い」「ハードルが高い」とは思われにくく、比較的自然と助け合う仕組みが存在していると思います。
傲慢な考え
もちろん、「私は体が悪いんだから、これくらいしてもらって当然だ!」「なぜこんな手助けもしれくれないんだ!」という態度はあまり良いとは思えません。
いくら、体の病による苦労があったとしても、「助け」はあくまで人の善意であり、強制できるものではないです。
それが得られないからといって、それが自分の権利であるかのように主張するのはどうなんだろう?と私は思ってしまいます。
助けを求めることが「恥ずかしい」「申し訳ない」と罪悪感を抱く必要はないけれど、他人の「助けたい」という気持ちや行動にたいして、「ありがとう」という気持ちを持つことは忘れず、大切にできたらいいなと思います。
助ける人は、「ごめんなさい」と言ってほしくて助けるのではなく、「ありがとう」やその人の笑顔が欲しくて助けるはずだからです。
むしろ、「助けてやったんだ!」「少しは申し訳なさそうな顔をしろ」という人がいたとしたら、その人の方に問題がある気がします。
助けるのも善意、任意。その人がしたいからすること。
助けられるのは恥じるのではなく感謝すること。
相手に強制したり、コントロールしようとしたり、より多くのことを要求したりするのは、結果的にお互い幸せになれないと思います。
心の病
病院へ行くかどうかの判断基準
精神科病院、心療内科、メンタルクリニック、カウンセリングルーム・・・
心の病や異変、不調について相談できる場所は、症状や費用などによっても色々あると思います。
それでも、「体の病」と比べて、「心の病」のためにそうした場所へ足を運ぶのは、どこか抵抗がある、ハードルが高いと感じる人が多いのではないでしょうか。
私もそんな風にずっと考えてきました。
その抵抗やハードルの高さを感じる理由として、私が思いつくのはこんな感じです。
自分の心の状態を軽く見て、そこまで深刻なもの(今すぐケアが必要)と捉えていなかったり、自分がどう思うかどうかより周りの目が気になるなど・・・
あるいは、
と、状況を楽観視したり、現実や自分の心から目を逸らしているのかもしれません。
私の場合は、自分だけでなく周りでも、「心の病」を理由に病院へ行っているという話はほとんど聞いたことがありませんでした。
だから、「体の病」の場合と比較して、病院へ行くことのハードルは高いと感じている人が多く、治療や薬、カウンセリングなど、何らかケアが「必要」と考えている人も少ないのではないかと考えています。
「心の病」にも色々種類があり、症状が軽めのものから、社会生活に支障をきたすほど重たいものもあります。
なので、これは「体の病」と同様に、症状が表に出て、本人がそれを自覚したり、他人の目にもわかりやすい状態になっていれば、手を打たなければという思考・行動になるはずです。
でも、逆を言えば、そういう状態にまでなって初めて対策する、とも言えますよね。わかりやすい症状、他人が目で見てわかるほどの変化がないと、ケアされず、放置されてしまう。
そこまで深刻な状況にならない限り、本人もそれを「良くない」こととして捉えられず、周囲の人も「助けなければ」という発想に至れない。
ここがすごく大変で、難しいなと私は思いました。
症状によっては、一定期間薬を飲み続けることで治癒するものもあるのかもしれません。
でも、多くの場合は薬だけでなく、根本の原因である悩み、トラウマ、心の傷をケアしなければならなくて、そのためにはどうしても時間がかかります。
それに、一旦改善が見られたとしても、また何かのきっかけで再発や悪化がしやすいのも心の病だと思います。
助けの求めやすさ、助けやすさ
目に見えない傷だからこそ、とても複雑で治すのが難しくて、それなのに、助けも得られにくい。
仮に、「大変だな」「困っているんだな」とわかっても、「何をしてあげればいいのか」「どんな風に役に立てるのか」が他人からは非常にわかりにくいんですよね。
重たい荷物を背負って階段を登ろうとするおばあちゃんを助けることと比べて、杖をついて歩いている人を手助けするのと比べて、「取るべき行動」の選択肢が多すぎて、しかも「適切」より「不適切」の方が多いんです・・・。
自分のかけた言葉、取った行動、寄り添い方・・・
目の前で困っている人を「助けたい」という善意で、良かれと思ってやったことが、逆に相手を傷つけてしまう可能性がある。
なので、「困っている」ということがわかったとしても、「助ける」という行動に移すまでは、したくでもできない人が多いのではないでしょうか。リスクが高いと感じて、二の足を踏んでしまうのではないでしょうか。
私はそうです。
他人の表情、言葉、声の調子、それらから「困っている」様子を感じ取ることまではできても、その人達一人一人に、私が何をしてあげたらいいのか、どんな言葉や態度を欲しがっているのか、確実に応えてあげられる自信がなく、結果、何もできずに終わってしまうということがしょっちゅうあります。
そんなとき、「見て見ぬふり」をしているようで、「私って冷たい人間だな」「薄情だな」と思います。
でもそれは、「心の病」で苦しんでいる当人も同じで、「助けを求めたい。でも、困らせてしまう」と思って、他人に頼ることに高いハードルを感じてしまうんですよね。
こんな風に、相手に求める明確な欲求を持っていても、なかなか伝えるのは難しいです。
心の病って、「悩んで悩んで悩んだ結果、わずらってしまうもの」だと私は思います。
だからこそ、その苦しみをよくわかっている当人は、自分の身近な人にたいして「迷惑をかけたくない」「困らせたくない」「負担になりたくない」と、より深刻に捉えてしまうのではないでしょうか?
そんな苦しみを押し付けてしまう自分を、相手が良く思わないのではないか、嫌われてしまうのではないか、と不安を感じてしまう。
だから、はっきりと「~してほしい」と言えず、直接助けを求められず、結果的に「察してほしい」という消極的な行動を取ってしまう。
(大きなため息をついたり、SNSに書き込んだり、自傷行為に走る、など)
でも、それは他人からはわかりづらく、「助けづらい」と感じてしまうアピールです。
「困っている」「苦しんでいる」という状況は伝わっても、結局「何をしてあげられるか」「どんな風に役に立てるか」は全く明確ではないから、「助けたい」という気持ちにならないんですよね。
これは、私も常々そうならないように気を付けている(?)ことではありますが・・・
「かまってちゃん」「不幸自慢」が疎ましがられてしまうのは、きっとそれが理由なんじゃないかなと思います。
困っているなら専門家へ
病院やメンタルクリニックへ行く基準ってよくわかないし、ハードルが高く感じるし、なんとなく難しいですよね。
でも、それと同じかそれ以上に、身近な人に「心の病」のことで頼るのは難しくないでしょうか?
病気なのかどうかや原因まではわからないけど、「心がつらい」と感じているとして・・・
こんな風な短い言葉だけを伝えて、あなたの本当の苦しさや、心に負った傷、あなたの自覚していない部分までを見抜いてくれる人って身近にいるでしょうか。
もしかしたら、長い時間を共にした家族や親友、恋人、パートナーなら、それができるのかもしれません。
ただ、何度も繰り返しになりますが、それを見抜けたとして、そこから先どんな対処ができるのかどうかは、また別の問題になります。もっと難易度が高くなります。
(もちろん、それもあなたをよく知っている人なら、経験から心得ているのかもしれませんが…)
でも、もしそういう人がいるんだとしたら、きっと、今そこまで苦しくなっていないんじゃないかと思うんですよね。
「そこまでは頼れない」と感じて、心に蓋をしているからこそ辛いんだと思います。
「ここまでなら頼っても大丈夫かな?」と、相手の顔色を伺いながら、自分のつらさを小出しにして、察してくれる・手を差し伸べてくれる・自分のしてほしい行動を相手が取ってくれるのを待つ。
それは、心の病(傷、辛さ)をケアする方法としては、だいぶ効率が悪く遠回りだと思います。
むしろ、そういうやり方で、徹底的に相手に期待を寄せることで、思い通りに相手が動いてくれなかったとき、余計傷ついてしまうはずです。
もともとは「この人に嫌われたくない」「負担になりたくない」と思うほど、大切だと思う相手だったはずなのに、勝手に期待したことで「~してくれなかった」「裏切られた」と失望し、新しい傷を負ってしまうのは、自分にとっても望ましくないことです。
相手も、「期待に応えてあげられなかった」「役に立てなかった」「してあげたことが無駄だった」と感じて傷つくと思います。
善意や好意が、結果的にお互いを傷つけることになってしまう事態は、極力避けたいです。
ここで言いたいのは、そうなるくらいなら、はじめから中途半端に頼ろうとせず、専門家へ相談してみる方がいいかも・・・ということです。
(もちろん、心の病の解決方法=専門家!と考えているわけではありませんが…)
私はカウンセリングルームでカウンセラーの方に話を聞いてもらい、簡単な心理療法を受けた経験がある程度なので、精神病院や心療内科のことはわかりません。
症状の種類やその重さによって、どこに行くべきかは異なると思うので、一概には言えませんが・・・
少なくとも、「専門家(専門機関)」に頼る場合には、「迷惑をかけてはいけない」「嫌われないように」というような心のブレーキみたいなものを外せるんじゃないかと思うんですよね。
そう思えるだけでも、心が少し軽くなるはずです。
その場所は、その相手は、それが許されるというか、それが望ましい場所であり、それを求める人なわけなので・・・
自分で「ここまでで遠慮しておこう」と思わなくて済むんですよね。
そうやって、自分の判断や思い込み、変な遠慮で、心に蓋をして、苦しみを外に出し切れないことこそが、悩みを作る原因になってしまうと思うので。
話す場所・相手を変える、そしてできれば、秘密を厳守してくれて、自分の私生活とは無関係な存在であることが望ましい。
これは、匿名掲示板で自分の素性を明かさずに、見ず知らずの人に相談することも似ているかもしれません。
お互い匿名で、その場限りの関係であれば、その人にどう思われようが、好かれようが嫌われようがどうでもいいと割り切れるからこそ、素直に心の内を見せることができるんですよね。
だから、私もよく利用していました。
悩みがあるときはもちろん、ただの雑談などのコミュニケーションであっても、普段の「人に見られても大丈夫な自分」という仮面を脱ぎ捨てて、本来の自分になれる場所、という意味で、居心地が良かったんですね。
ただ、匿名掲示板の場合は、誰もがそういう自由がある分、発言に責任を持たなくて済むという側面があります。
だから、匿名掲示板で悩んでいる人にたいしてするアドバイスも、その場しのぎのものにすぎなかったり、アドバイスどころか、誹謗中傷をしたり、その人の「正しさ」だけをやたらと押し付けてくる人もいます。
そういう意味では、真剣に悩んでいればいるほど、匿名掲示板で悩みを打ち明けたり、アドバイスを求めることにはリスクがあるかもしれません。
素直に何でも話しても大丈夫な場所、そうすることによって自分に何の不利益もない場所、相手。
そう思える相手にたいして、あるいはそういう場所で、心の蓋を開けて、相談してほしいです。
目に見えないだけで、軽い・重いを決めつけたり比べたりせずに、自分が「つらい」と感じているなら、それは深刻な問題として受け止めて、根本から解決できる方法を考えてほしいです。
私はカウンセリングに行ってみて、本当に良い経験ができたと思っています。
カウンセリングによって当初の悩みを解決できたわけではないのですが、そのとき深刻に私の悩みと向き合ってくれた先生のまなざしや、私の話を一言一句ていねいに聞き取ってくれたことは、間接的に、私の心の傷を癒してくれました。
心理学の専門的な言葉や考え方を教えてもらえたのはもちろん参考になりましたが、もっとシンプルに、自分が他人に心を開くということ、そしてそれを自分以上に真剣に受け止めてもらえた、という体験こそが、自分にとって大きな意味を持っていたんです。
それに、そのときはなんとなく聞き流していたような先生の言葉も、最後のカウンセリングから半年以上経過した今、本を読んだりしたときなどに、「あ、これ先生もあのとき言ってくれていたな…」と思い出したりします。
その瞬間理解できなかったことでも、時間の経過や、自分自身や環境の変化によって、あるとき突然理解できることってあると思うんですよね。
もちろん、利用者の話をしっかり聴くというのは、カウンセラーの仕事そのものなので、当たり前といったら当たり前かもしれないのですが・・・
それでも、「誰かに聴いてほしい。でも誰にも話せない」という思いを抱えて、藁にも縋る思いでカウンセリングルームのドアを叩いた私にとって、それがいちばん意味のある、求めていたことでした。
「感謝されたい」は承認欲求?
困っている人がいたら助けたい。もっと言うなら、困っていることに気づいてあげたい。
そんな気持ちは「承認欲求」からくるものかもしれません。
それでも・・・
「承認欲求」ってなんとなくうしろめたい、それがあまりに強いと良くないもの、という認識でいました。
だから私は、この本でこう書かれているのを読んで、「あ、そっか!そういうのならアリなんだ!」と、安心できました(*´ω`)
承認欲求も、全部が全部「手放すべきもの」というのではなく、自分にとってプラスになる行動を起こせる理由となるなら、大切にしていい欲求なんですね。
なので、
などと思って消極的になる必要ないんだ~!と楽になりました。(そんな風に思うの私だけですかね…!?💦笑)
まとめ
心の病、体の病について、「助けの求めやすさ」「助けやすさ」という観点で、私の意見を話してみました。
まとめると・・・
助けたいと思ったら助ければいい。助けたいと思う自分の気持ちも大切にしていい。
また、体の病でも心の病でも、他人に助けを求めることは恥ずかしいことではない。
周りからすると「わかりやすい」方が助けやすいけど、わかりやすさは、問題の深刻さを表す指標ではない。
むしろ、わかりにくい(目に見えにくい)ものほど、放置すると深刻になっていく可能性がある・・・
だから、「苦しい」「つらい」と感じたら、自分が明確にSOSを出せることが大事。身近な人に頼りにくい場合は、専門家に相談してみると楽になれるかもしれない。利用してみたら、思ったよりハードル高く感じないかも?
今の私が考えられることは、こんな感じです(´▽`*)
直接手を差し伸べて助けられるのは、目の前にいる人だけ。
でも、困っている、苦しんでいる人は世の中に大勢いて、ぱっと見ではわからない。
今、苦しみの真っただ中にいる、一人でも多くの人の、ほんのちょっっっとでも力になれたら、ヒントになることがあったら、嬉しい。
そんな気持ちで話してみました!
長くなっちゃいましたが、ここまでお読みいただきありがとうございました!
また次回の記事でお会いしましょう(*´ω`)ノ✨
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