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『海の向こうでこんなこと言われた』#14

「Ashin!Ashin!」
「待って、今通訳するから」

『近松心中物語』のヨーロッパ公演はベルギーのアントワープから始まった。
この国の公用語は地域によってオランダ語(フラマン語)、フランス語、ドイツ語に分かれている。然し首都ブリュッセルやアントワープのような大都市には国中の人が集まるので、町の標識は勿論、看板やメニューまで3つの言葉で書かれ、人々も様々な言葉で喋っている。

我々の海外公演の劇場スタッフは現地採用。ベルギーでの建て込みや舞台稽古は大騒ぎだった。日本のメインスタッフから出た指示を3人の通訳が夫々の言葉で伝達するのだ。

公演は「日本の廓の世界を秋元松代さんの文章に沿って訳しても理解が追いつかないだろう」という理由で、パンフレットには3ヶ国語で解説を入れ、各幕の冒頭に人物紹介とあらすじを英語のナレーション(バネッサ・レッドグレイヴさんが担当)で流すという方法が取られた。
「大丈夫かな?分かるかな?」という我々の不安を裏切って公演は大受けだった。

右から4番目が壤、6番目が忠兵衛役の井上倫宏さん、その左隣が梅川役の田中裕子さん

アントワープは中世のギルドハウスが今も残る美しい港町。散策して飽きることがない。港町だけに飾り窓の娼婦たちのいるエリアがあったりして。

空き時間に「梅川」役の田中裕子ちゃんや「忠兵衛」役の井上倫宏君ほか、何人かで街に出た。

すると道行く人達が「!」「?」てな顔をして1人、2人‥やがては20人位が後から付いてくる。何か囁き交わしている。

『Ashin?Ashin!』

これ実は「おしん」だった。

もう7、8年前に日本でオンエアされたNHKの朝ドラ『おしん』(裕子ちゃん主演)が、この時期ベルギーで放送中で大人気だったのだ。
しかしこの国の人々は大人しく、握手もサインも写真も求めない。ただ付いてくる。

「お茶を飲もう」とティールームに入った。
初老の男性店主の他に何人かのおじさんがいた。「Ashin」には気が付いたらしく話しかけてくる。但し夫々別の言葉で。全く解らない。

店主がニコニコと

『待って、今通訳するから』(英語)

と、一人一人の言うことを聞いて僕達に伝え、こちらの返事を今度は夫々に解る言葉で伝えている。
この人、4カ国後を喋るのだ。
‥「こりゃ大変な国だ」と思った。

翌日、男ばかりでこの店に行くと店主が
『今日はAshinは来ないのか?』と残念そう。

帰り際に『ちょっと頼みがある』
「何?」
『昨日家に帰って母親に話したらとても喜んでいた。母にやりたいからAshinのサインを貰ってくれないか?』と便箋を出す。

勿論翌日、色紙に書いてもらったAshinのサインを届けた。

NHK連続テレビ小説「おしん」
1983年(昭和58年)4月4日〜1984年(昭和59年)3月31日

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