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1. 哲学の擁護




 哲学には取り組まれるきっかけがなかった。というのも、哲学は一見して当たり前のことを扱っていたからだ。哲学が扱っているものは、「世界」、「私」、「真実」等の、説明するまでもないようなもので、普通の会話の中には出てこないようなものだったのだ。そういうわけで、私は哲学者としてまず哲学それ自体を弁護しなければならなかったのだ。
 ところで、この世界のあらゆるものは自然法則に従う運動の過程に組み込まれていた。そして、学問もまたこうした過程を免れてはいなかった。学問はすでに何かの目的を達成するための道具のように使われ、自然法則に従う動物としての人間の活動の一環となっていたのだ。
 それに対して、哲学はそもそも特定の目的を持ってはおらず、取り組まれることそれ自体が目的となっているようなものだったのだ。だから、哲学はこの自然の過程に組み込まれることを免れ、何かを実現するための道具となることもまた免れていた。哲学への取り組みはこの世界の自然の過程から外れたところにあったのだ。
 とはいえ、私は実際、哲学に関心を持った。その理由と結末を語ることは、人々が哲学に至る一つの端緒を語ることになる。というのも、それを叙述するということは、それを法則として一般化することでもあるからだ。そして、それを語ることは、個人に対する哲学の影響を語ることでもあるわけだから、同時に哲学を擁護することにもなるだろう。

1.  私の世界像

 私が生まれた世界では多くのものが時の流れとともに消えていっていた。だが、すべてが流れ去って行っていたわけではなかった。事実だけはそこに留まっていたのだ。また、これらの事実を、私はしばしば記憶によって見ることができた。起きた事実は忘れられはしても、決して消えてはいなかったのだ。この記憶は様々な形式で現れていた。だが、それらには共通しているものがあった。それは論理に従っているということだった。
 この考え方は周囲の人々にはなかなか理解されなかった。人々は第一に「世界は物からできている」と考えていたようだったからだ。また、人々は第二に、「論理は思考の形式である」と考えていたようだったからだ。思考の形式としての公理系が用意され、それに従って論理式が操作されると人々は考えていたのだ。
 とはいえ、世界が物からできているとは私には到底思えなかった。というのも、世界が物からできているとすると、物の表出は偶然であるということになり、必然ではなくなってしまうからだ。人々は物をその現れ方によって捉えている以上、もしも物の現象が必然でないとすると、人々は物を捉えられなくなってしまうのだ。だが、人々は実際には物を捉えられているわけだから、世界が物からできているというのはありえなかったのだ。また、論理が思考の形式であるとも到底思えなかった。というのも、思考の形式はそれを適用する方法まで規定しているわけではないからだ。たとえ規定していたとしても、さらにその方法を適用する規定が必要になる。この規定には終わりがない。だが、人々は実際に規定を終わらせ、形式を適用できている。そういうわけで、論理は思考の形式ではありえなかったのだ。
 これらの違和感は私の多くの活動を邪魔していた。私の世界像と周囲の人々の世界像が全く異なるものだったから、私には、彼らの前提を受け入れ、彼らのやり方で物事を進めることがどうしても難しかったのだ。
 そういうわけで、私は他の何よりも優先して、哲学によって私の世界像を明らかにしなければならなかったのだ。

2. この世界への関心と、自らへの関心

 子供の頃のことを思い出そうとすると、深い絶望感を覚えたものだった。やがて何度も、私は自身の意志の弱さを深く後悔し、反省したものだった。
 哲学が扱うようなものについてほとんど理解していなかった頃の私の考えは、浅はかなものだった。子供の頃の私は、有名な学校を卒業し、大きな業績を挙げ、この世界に最大限の貢献をするつもりでいた。とはいえ、その関心はあくまで自分自身への関心にすぎなかった。私にとっては、自分がどうしたいかよりもどうすべきかが重要で、いつも自分が尊敬できるような自分であることが何よりも重要だった。そうでなければ、自らが価値ある者であると思うことができなかった。私のこの世界への関心は、自らへの関心でもあり、それらは全く同じ根源から生まれていたのだ。また、当時の私は、自らが善い政策を通せば、善い世界が訪れると短絡していた。当時のすべての悩みは、そうした自分自身の完成に至るまでの試練のようなものであると思っていた。だからこそ私は何にでも耐えられていた。
 ところが、私は徐々に、その考え方に浅はかさを覚えるようになっていった。それがいつだったかは定かではないが、私の関心は確かに実際の政治から離れていった。それに拍車をかけたのが、あるとき、当時最も有名だったある哲学者の、ある発言を聞いたことだった。「善い政策を実現するためには確かに善い政治家が必要だ。だが、善い政治家を生むためには、彼を政治家に選ぶ善い人々がいなければならない。だから、私はまず善い人々を生み出そうと思って、政治家にならず、哲学者であり続けている」。

3. 哲学への関心

 私は大学で予定通り、政治、経済、法律を学び始めた。だが、それはほんの短い期間だった。私のすべての関心はすでに哲学に向かっていた。そのきっかけは、知人から勧められたウィトゲンシュタインの有名な著作に触れ、ウィトゲンシュタインの考え方に驚きを覚えたことだった。私は教養をつけようとそれまで哲学書に触れてはいたが、ウィトゲンシュタインの考え方は従来のそれとは明らかに異なっていた。そして、その見方はある意味で私の抱いていた違和感を代弁するようなものでもあったのだ。ウィトゲンシュタインは事実と言葉が写像の関係にあると考え、ある言葉を表出するきっかけとなった事実こそがその言葉の意味であると考えていた。つまり、物の意味とは自然の法則であると考えていたのだ。彼の思想の中にはまるで私の世界像が近似的に表現されているかのようだった。このことは、物が法則を作るとする、物を主題とする考え方から私を決別させ、法則が物を作るとする、法則を主題とする考え方に私を導いた。また、ウィトゲンシュタインの考えは、周囲の人々の考えと私の考えとの間にどのような根本的な差異があるのかを明らかにしてくれた。それはまた、過去の偉大な哲学者の考えとの橋渡しをするものでもあった。
 ところが、私はこのウィトゲンシュタインの考え方に完全に同意するわけにはいかなかった。というのも、当たり前の事柄、例えば「世界がある」、「私がいる」等々は日常で語られるような事柄ではないが、明らかに意味を持っていたからだ。あらゆる言葉は日常の事柄から生まれるが、それらすべてが日常の事柄を意味しているとは認められなかったのだ。私はこの体験から、自らが日常には現れない事柄、いわゆる「理想」の存在を認めているということ、そして、日常と非日常の繋がりを認めているということを自覚するようになった。
 過去の人々が私を救ってくれた。私は精神的に弱く、体調も悪くしがちだった。だが、世界に絶望していた私に過去の多くの人々が手記を残してくれていた。その手記はこの世界の各地に散らばっていて、私はそれらを書物として読むことができた。それによって私は自分の義務を思い出し、再び動くことができていた。やがて、未来の私が大切なことを忘れてしまったとき、それを思い出せるように、そして、私によく似た人々が現れたとき、その人々を救うことができるように、私は古い言葉で書かれた手記を集め、それを私の言葉で書き直し、覚書を作り始めた。私は過去の人々と同じように、様々な時代や地域にいる私に似た人々を助けようとし始めたのだ。
 そうすると、残された仕事は2つ。手記を後世に残すことと、手記を届けるための手立てを用意することだった。

4. 技術への関心

 哲学は世界を変えるようなものではなかった。哲学は人を守るだけで、世界を変えるのはあくまで人だった。手記を残すためには人の力が必要だった。
 人々は時代とともに入れ替わっていき、それに応じてその理想とする世界も変わっていっていた。そして、機会に応じた技術の行使によって、世界はより良くなっていくと、私は思うようになっていっていた。私は自分には限界があることと、世界には限界があることを知っていた。だから、私はそれらを技術の使用という実践によって乗り越えていかなければならなかった。世界が変わっていくこと、人々が自らの善さを発揮できること、技術が用いられること、これらはすべて繋がっていたのだ。
 ところが、力のある一部の人々は、自分たちが有能であると考えていて、その他の無能な人々を見下していた。そして、世界は彼らのような有能な者によって支配されるべきであり、無能な者は有能な者によって飼育されるべきであると考えていた。強者が強者であり続け、弱者が強者になるために戦い続ける混沌とした世界よりも、調和のとれた世界は、可能であるとともに、私が作らなければならないものでもあったのだ。

 こうして私は最高傑作を準備しながら、それを残すための取り組みをもするようになった。
 ところで、私にも大学に残ろうという考えがなかったわけではなかった。大学で仲間を見つけようと考えたことがあるにはあった。だが、それは結局不可能だった。
 もう4年も前のことになるが、私は大学に論文を提出した。この作品は論文の文体を採っておらず、それが不評で、あるところでは論文の書き方を教ったか否かを問われ、またあるところでは母語の勉強をしたほうがいいと諭された。
 確かに私は他人に何かを説明したり、説得したりするのは得意ではない。だが、私が論文を書かなかったのにはある理由があって、それは私の作品の内容と関係していた。私の作品の趣旨はそもそも、「誰かに何かを説明するような文体、すなわち「論文の文体」では、もはや哲学を為すことはできない」というものだったのだ。だから、その点への反発は私の作品の全否定といってよかった。
 哲学は私にとって本質的に重要なものだった。だから、私はそこで譲歩することができなかった。私が苦境に陥ったときの最後のよりどころも、すべて探究の結果の中にあった。だから、私はそれを取り下げてまで大学院に進学することを選ばなかった。
 私の考えは、大学で従来の「哲学」に関心を持っている人々には認められなかった。といって、従来の「哲学」に全く関心を持っていない人々にも認められなかった。その葛藤の中で、私は、私がかつて哲学史を学ぼうとして読んだ、ある教科書のカントの項にこう書いてあったのを思い出した。「それまでの哲学者が貴族に認められ、概して貴族の召使いとして哲学者になったのに対し、カントは市民に認められ、大学教授として哲学者になった。彼の哲学の受容は、新たなキャリアパスを築き上げた彼のサクセスストーリーと言ってもよいのだ」。そして、そのとき、私についてもまた、もしもいつか完成した私の著作に独自性があるとすれば、それは私のこの生き方と不可分ではいられないだろうと思って、この文章を書いてみようと考えた。


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