自慢と誇り~続・音の匂い
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【注意】
今日の日記は一般の人の言葉をそのまま引用した都合上、軽く悪意とか攻撃性を感じさせるような文章表現を一箇所含んでいます。
その発言の引用箇所で不快感を持つ可能性があります。
敏感な方はご注意ください。
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読もうと思っていた本を読んだり、ぼんやり変性意識に入って意図せず過去世を見たりして、色んな事を思いながらある意味ダラダラ過ごした休日。
そう、久しぶりの休日らしい休日。
自分で土日は休業日と決めているのに、やるべきことがあるのをやらないのはこんなに罪悪感をちらつかせるんだと驚かされる。
でも休養の重要性を学んだのだ。
やるべきことをやった達成感があっても、仕事が楽しくて幸せでも、自分が社員でたった一人の従業員でもある全責任が個人にのしかかる個人事業主(フリーランス)だったとしても、それでも仕事ではなく自分自身の為だけに使う時間は必要なのだ。
絶対に。
生産性とか理屈抜きに。
そうして久しぶりに家族と「音楽の日」なんか見ながら夕食を食べていたのです。娘が好きなアーティストをピンポイントで録画するためにスタンバっている。その横で適度に消音機能を使いながら珍しく色んな人にあった気分でいました。
本当は人混みみたいで苦手なタイプの番組。
「音楽」というキーワードで集められた雑多なエネルギー。昔のわたしなら「音楽」として認めていなかったものもたくさんあったと思う。
でも思いのほか楽しめました。
色んな視点で、色んな素晴らしさに触れて。娘と「キャーキャー」言った時間ももちろんあって。
きっと1週間前のわたしは違ったかもしれない。
そう、いまの瞬間のそのあとはもう変化した自分でいるかもしれないのだ。
いまこの瞬間にスパークが起きて、わたしは違う現実の捉え方を選択しているかもしれないのだから。
さて、そんな思いがけない時間を過ごす中、あるアーティストのステージを見ていて感じるまま思いを巡らせていた時のこと。
ふと疑問が沸き起こりました。
「自慢」と「誇り」ってどう違うんだろう。と。
ちなみにgoogle先生はこうおっしゃっています。
昔ならこんなこと迷わなかったんですが、なんだか匂いがよくわからなくなったことに気づいたのです。
よく「自慢が鼻につく」という表現をされると思います。
自慢はひけらかすこと、と上記にありますがその意図が自分を認めさせようとするところにあるから故なのでしょうか。
とすると、「鼻につく」かどうかは「受け手次第」でもあるということにもなると思います。
親は我が子がなにか自慢ばかりしてきても可愛いと思うと思います・・・と書きながらそうじゃない人もいると感じられてきました。なんとなく。
自分自身が承認の問題を強く抱えていると、我が子の自慢でも、もしかしたらただの幸せそうな悩みのない笑顔でさえも疎ましく思うものかもしれません・・・
とにかくまぁ、発しているものの質が自慢か誇りかということと共に、受け手次第の部分もあると思ったわけです。
そして、発している本人も自分が抱いているものが「自慢」なのか「誇り」なのか、またはその両方混在しているのかどれだけ正確に自覚しているんだろうとも思いました。
ことばと態度では謙遜していても自慢の匂いしかしない人がいます。
口では「自慢」と言いながら、ただ喜びとか幸せしか放射していない人もたくさんいます。
そして自慢とか誇りの感情が現れそうになると、その領域が禁域に当たるみたいに不思議なベールで境界を引く人がいるのを感じます。
「自慢とも誇りともなんとも思っていないです。わたしはまだまだ勉強中の身です」
ほんとうにそう感じているのかもしれません。
でもそう(言外で)言っている人はどこか硬直した感じがします。そういうべきだから言わされているかのようです。
自慢って悪いことなのでしょうか
こどもは自慢して認められて、また自分を発見して伸びていきます。
こどものようだったらいけないのでしょうか。
わたしは・・・ひとの自慢のコレクションをしているわけじゃないから、そんなにたくさん自慢話を聞かされたわけじゃないからわかりません・・・
ただ儒教的な思想も影響を受ける昔ながらの日本の親の元で育って、「おごり高ぶることは徳がないこと」「滅びの道」みたいな仕込みが時代によって一定数あるのだろうなぁとは感じます。人間の意識の流れとしては辿るべき道筋というかそれだけ歴史的によく見られたパターンなのでしょうね。
でも、当人が自慢する意図じゃないのに「自慢ばかりする」と攻撃的な発言を周囲に拡散するタイプの方がいるのは知っています。
多分いつの時代でも、どこにでもいるのです。
だったら、やっぱり受け手の問題なんじゃないかな?って。
きっと「はぁ?別にそいつの親でもなんでもねぇし!」みたいな発言になると思うのですが、「おとな」じゃないから、傷を抱えたまま成長を止めてしまった部分があるから反応してしまうのではないかななんて、そんなことも思うのです。
だから。
言いたいのは。
相手に感じている匂いを自慢だから「ウザイ」とか、誇りだから「いい」とかそんなジャッジに使うんじゃなくて、自分のこころに向き合ってあげるきっかけにしてほしいってこと。
ないものは視えないんだから。
外になにか見えたと思ったら、ぐるーんと視点を変えてそれを見ているじぶんのこころの声を聴いてあげて。
「あの人って・・・」ということばを「わたしは・・・」に変換して、どんな言葉になっても聴いてあげて。
「そうだったんだね」
って。
わたしからの小さな提案です。
わたしはやさしい世界が好きだから。そういう世界を願うことを許してください。このnoteでだけは。
おなじ、優しくて繊細で、柔らかな世界が好きな人にだけは・・・
今日も癒しがある一日でした。感謝します。
皆さまありがとうございます。
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