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自分だけが分かる価値

ハンチバックを始め、最近の文学界は政治的な色を感じさせるものがおおいなあとモヤモヤしていたところ、刺さる記事を見つけた。

特に心に刺さった場面を抜粋します。

文学とか芸術とかいうのは、馬鹿みたいものである。しかしその馬鹿みたいなものに自分の全てを賭ける事に、芸術家とか作家としての矜持が現れてくる。しかしそれは、健常で真っ当な人々には語り難い誇りであり、言っても無駄なものでしかない。

文学の脱・当事者性/ヤマダヒフミ


芸術というのは本来ならば人に見せられるものではない。

理解されないからだ。

現代アートというジャンルがある。僕には良さが分からないし、大抵の人間にも良さは分からないと思う。

しかしアーティスト本人たちは、人に評価されると思って作っているのかもしれない。展示しているからだ。

しかしどう頑張っても作品の意図は理解できないことが多い。
世間の人から見るとバカみたいで、子供の工作のように見えると思う。


文学作品の自立性とはそういう阿呆らしいものであり、その阿呆らしさに自分を賭けるものが「作家」となるのだろう。これは愚かしい事だと、繰り返し言っておきたい。彼は、現実世界に背を向けて、作品世界の構築に夢中になっている。彼は言う。「この世界よりも、私の作品の方が、私の頭の中の方が遥かに面白い」。 

彼は世界の果てに座り込んで、砂浜で一人で、ひたすら地面に線を書いている。木切れを拾って線を書いている。あるいは砂の城を作って遊んでいる。世界にはもっと大切な事、現実の政治事件や、社会的な様々な事柄が起こっているのに、彼は自分の世界の方を面白いと思っているらしい。 

文学の脱・当事者性/ヤマダヒフミ


何かに没頭する人は資本主義と相性が悪いことが多い。
周りに合わせられないからだ。

周りは流行りのゲームで遊んでいるのに1人だけ虫の図鑑を読んでいる。

周りは受験勉強をしているのに、1人だけ虫の標本を作っている。

周りは就職活動をしているのに、1人だけ虫の解剖をしている…。

没頭する対象が虫の場合であれば、虫界のさかなクンのような感じで、研究職に就けて、資本主義社会に溶け込める。そうでない場合、特に需要が無い分野に没頭していた場合などは、世の中では評価されない。それどころか依存性だの変人だの気狂いだの障害者だのと呼ばれることさえ少なくない。

もしかしたらその評価は、資本主義社会で成果を出しても変わらないのかもしれない。

世紀の大変人、研究への狂気等…。

「人に評価されるから」
「金になりそうだから」
という理由で取り組むことはよこしまだ。

そういう意味で、確かに今市場に出回っている文学作品は、たとえ《芥川賞受賞!》という文字が書いてある帯が巻きついていても《純》文学ではないのだろう。

倒錯した世界観からしてはじめて、文学は世界から独立したものとなる。それは人を楽しませる為でもなく、世界に何かを訴えかけるものでもなく、ただ世界そのものがそうであるように、それ自体を作り上げ、存在する事自体が目的であるような何ものかだ。 文学の面白さとは、そうした世界を越える瞬間にある。だから、世界の只中にあって、世界との関係を終始気にしている、「大人」な人間はそもそも文学に向いていない。

文学は、大人になっても子供の精神を持つ者に開かれている。大人の合理的な論理を越えていくのは子供の非合理的な精神だろう。しかし、普通はそんな成長曲線は辿らない。

文学の脱・当事者性/ヤマダヒフミ

純文学は高貴には見えない。人の目を気にしないで書いた文章だからだ。
ガロ系漫画や女子のポエムノート。あとは子供が書くイマジナリーストーリーが本当の純文学なのではないか。

純粋な文。それは決して読者には媚びないものだ。

意図もない、オチもない。
ただ存在しているだけ。
アートにもならない…というか造り手はアートを創作しているつもりもない。

現代アートというのは、作り手が自称しているものだ。 

意図や意思、意味が伝わるか(そもそも意図や意味があるのか分からないが)は別として、現代アーティストはあくまで見た人を楽しませるものとして作品を作っていると思う。

しかしそれは純粋な創作ではないと思う。
作者本人の究極的な自己満足。

ゴミ屋敷────

これも純粋なアートなのかもしれない。
ゴミ屋敷になる理由は「役に立ちそうだから捨てられない」という理由だろう。
創作的な意欲かと言われると…少し違うかもしれないが、その世界はただ存在しているだけだ。
たとえ異臭がして近隣住民の迷惑になろうが知ったことではない。
それは世界を楽しませる目的ではなく、もちろん人を楽しませるものでもない。
ただ成り行きでそうなっただけ。

赤ん坊の積み木は完全に純粋なアートだ。
自らの世界に没頭し、創造し、破壊し、自己完結している。大人たちの評価なんて知ったことではない。共感にも金にも承認にも繋がらないが、本人も別に見返りは求めていない。

受け取り手にとって都合のいいものは純粋なアートとは言わない。

言うなれば不自然だからだ。

魚はありのまま海で泳いでいるから魚なのだ。
それを、骨があって食べにくいというような理由で品種改良し、骨を無くしたとして、それは魚と言えるのだろうか。
確かに魚なのだろうが、不自然ではある。そして《海の生き物》というより《人間にとっての食べ物》だ。


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