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クッキーはいかが?

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1200文字以下のエッセイ集。クッキーをつまむような気軽さで、かじっているうちに終わってしまう、短めの物語たち
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2021年7月の記事一覧

満たされている、ということ

「あ、」と思う。 なくなる、と。 会社で、家で、 そういう場面に出くわす機会は、少なくない。 トイレットペーパーが、ハンドソープが、アルコール消毒が、なくなってゆく。 わたしは、静かに予備を用意したり、詰め替えたりする。 * 満たされている、というのが好きなのだと思う。 * いつからか、そうなった。 初めての同居が、きっかけだったかもしれない。 食料品は相手が、生活用品はわたしが買うようになって。 そのときのわたしは怪我でずたぼろで、やることもなければできること

夏の風はやさしく

家に帰ると、まず玄関の電気を点ける。 それから、扇風機。 そして、エアコンの電源を入れるようになった。 このあいだまで窓を開けていたのだけれど、毎日を覆う雨雲が行き去ったあと、エアコンのリモコンに手を伸ばした。 今日は、それから数日経った朝。 わたしは早起きをして、エアコンを点けることにした。 暑くて目が覚めるような絶望的な感じではない、と思って一度窓を開けてみたけれど ぜんぜん涼しくならなくて、驚いてしまった。 これじゃあダメだ、と諦めたところ。 エアコンの、冷たい

じゃがいもと、世界の不思議

「あしたのお弁当は、ジャーマンポテトだよ」 じゃがいもを握り締めた手が、そう告げる。 「ヤッター!」 よろこぶわたしは、ジャーマンポテトが好物のわけじゃないけれど、 名前を聞いて、味を想像できるものは、ちょっと嬉しい。 「あしたはジャーマンポテトなのか」、「それなら知ってるぞ」と、納得と安堵の声を挙げる。 のんびり煙草を吸っている隣で、調理が始まった。 じゃがいもの皮が剥かれ、まな板の上にごろんと落とされる。 何かを切る前に、包丁で「トン」とまな板を叩くのは、いつもの

煙草と呼吸

急にむせ返って驚く。 言葉通り、急に、げほげほと慌てて息を吐く。 煙草のせいかなと思ったけれど、火の点いた煙草はキッチンの灰皿の上。 わたしは自室に置いてあったスマートフォンを取りに来たところだった。 しばらく立ち止まって、キッチンに戻る。そしてまた、息が詰まる。 褒められたものでないことは重々承知しているけれど、「煙草を吸う」ということは「息を吸う」ということだと思っている。 いまわたしは何よりも確実に、呼吸をしている。 自分の体にイレギュラーが生じたとき、「煙草のせい

食べることと、笑うこと

ゴトン、という音で目が覚めた。 会社の、お昼休み。 休憩用のスペースで、わたしはだいたい眠っている。 ここにはテーブルがひとつしかないけど、だいたみんな外に食べに行くし、休憩時間は決まっていないから、ここで誰かと会うことは少ない。 わたしが身体をのんびりと起こしたところで、「ぜんぜん気にしないで」と手を振られた。 「いいんです、ちょうど起きるところだったから」と、ぐいっと身体を伸ばす。 なんだか、悪くない目覚めだった。 今日のお弁当は美味しかったし、ゲームも一生懸命やって

エコバッグを畳むことでもいい

朝起きて、折り畳み傘をたたむ。 今年は、そういう日が多い気がする。 雨に濡れた折り畳み傘は、晴れているあいだに日傘になって乾いてゆくのを繰り返していたような気がするのに、最近は濡れてばっかりだ。 だから、家の中できちんと干す。 床が濡れるのは気にしない。 あとで拭けばいいだけだって、もう気づいている。 ふと、数日前のメモのことを思い出す。 前に進むって、エコバッグを畳むことでもいい ずいぶん、まぬけで前向きな言葉だな、と思う。 まぬけさと前向きさって、似ているのかもし

水槽の中を、泳いだことはないけれど

雨が降っていることに、少し焦る。 焦るわたしはまぬけだ、とも思う。 梅雨の曇天は、いつ雨を降らせてもおかしくないというのに 天気予報も見ないで、いつものスニーカーを履いてしまった。 雨に弱い靴、カバンには小さな折り畳み傘。 この日のわたしは妙に強気で、「今日は散歩をしよう」と意気込んでいた。 雨で、散歩を失ったような気持ちで、しょんぼりと歩き出す。 行き場を失った子犬みたいに。 実際、行く宛てはなかった。 持て余した時間をどうしようか考えたけれど、やっぱり散歩をすること

小さなルールを壊して

眠るのが好きだ、と思う。 「わたしって、寝るのが好きだからさ」と、友達に試しに言ってみたりすると 「知ってる」とやさしく微笑まれて、安堵する。 そのままでいいよ、と言ってもらえた気がする。 今日もわたしは、許されて眠る。 新しい枕が、すごく心地良い。 ホテルなんかほとんど言ったことがないくせに、「ホテルの枕みたい」と、毎夜うっとりする。 なんだか、包まれている、と思う。 それなのに、大好きな枕はときどきわたしの腕の中にある。 ベッドの上には「抱える用のぬいぐるみ」が3

わたしをだまして

「よし、お風呂に入ろう」とわたしは言う。 家族にそう告げることもあるし、ひとりのときもある。 聞いてくれる相手の有無は、問わないのだ。 「お風呂に入る」と吐き出された声が、空気中をぐるりとめぐり、わたしの耳元に返る。 そのたった一秒と少しのあいだで、わたしの心は騙される。 さっきまで、「面倒だけとお風呂に入らなきゃ」やだなあという気持ちだったのに 「よし、お風呂に入ろう。なんかお風呂に入らなきゃいけない気がする」と、少しだけ前向きになる。 不思議だ。 どうしてわたしってば

フライパン

ときどき、フライパンの中身を覗き込む。 それはわたしの晩ごはんだったり、お弁当のおかずだったりする。 今じゃなくても、いつかわたしが食べていいものが乗せられているわけだから、気になって覗き込む。 今日は、色とりどりの野菜が、きちんと炒められて行儀よく並べられていた。 「夏野菜炒め」とつぶやいたら、「そうだよ」と返ってくる。 ズッキーニから、夏の匂いがした。 しばらく経って、またフライパンを覗き込むと、大きなお肉の塊が、みっつ並んでいた。 さっきまで、夏野菜炒めのフライパ

あの夜、あなたに伝えたかったこと

「理想はあるよ」と、そのひとは答えた。 最近こんなことがあってね、と話を聞いているときのことだった。 思い通りにいかないこと、”困難”に見えることがある。 それでもあなたが、選べているなら大丈夫、とわたしは告げた。 あなたはかつて、「大切な3つのもの」を挙げたでしょう。 その3つを守るように選択をして、生きているのならば大丈夫だと。 「理想はあるよ」というのは、その答えだった。 「理想はあるべきだよ」と、わたしは一瞬も迷わずに答えた。 「でも、妥協しなければいけないこ

それだけのこと

足のネイルが剥げている。 不自然な剥げ方だったので触れてみたら、爪にヒビが入っていた。 何も考えずに引っ張ると、一部分だけぽろりと落ちていった。 爪はわたしの都合なんかおかまいなしで、不格好に剥がれ落ちてゆく。 妙な形の爪に残された赤いネイルが、なんだかひどく寂しそうに見えた。 そのことを、わたしは悲しく思う。 でもそれは一瞬の出来事で、思い切って爪を切ることにした。 濃い色のネイルを塗っているから、どこまで切っていいかわからないけれど、「爪が真っ直ぐになる所」までを狙

人参の皮

ザアッという音と一緒に、人参の皮が剥かれてゆく。 わたしは黙ってそれを見つめながら、「人参って不思議だな」と思う。 他の多くの野菜と違って、人参は皮と中身にあまり変化がない。 そもそも、人参のいちばん外側を「皮」と呼んで、ピーラーで剥いたりしているけれど、あれは本当に皮なんだろうか。 あんなに、中身と同じ様子なのに。 人参みたいに、薄皮いちまい剥げたらいいのに、と 今晩のわたしは、そんなことを考えている。 つるりと生まれ変わるような、そんな大きな変化じゃなくて構わない。