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クッキーはいかが?

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1200文字以下のエッセイ集。クッキーをつまむような気軽さで、かじっているうちに終わってしまう、短めの物語たち
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2020年11月の記事一覧

催花雨に導かれて

霧雨が降ると、思い出す。 上京して、憧れたライブハウスでの仕事に、まだ不慣れな頃だった。 眼鏡に帽子姿の彼は、わたしよりずいぶん年上に見えた。 ステージの上では力強い歌を、孤独そうに奏でるひとだった。 群れから外れた、一匹のライオンを思い出させる。 霧雨、というのは彼が歌っていた曲だった。 霧雨って、なんだかやさしいようなイメージなのに 声を張って、張り上げて、ずいぶんと暴力的な曲だった。 孤独が叫んでいた。 彼はもう、霧雨を歌わない。 彼はもう、孤独に許されたのだ

冬のあたたかさ

ぐんと、寒くなったと思う。 「寒くなったね」と言ったら、 「ずっと秋ではいられないからね」と、当たり前のことを言われた。 当たり前のこと、というのは どうしてこんなに腑に落ちて なぜかほんの少しだけ、寂しい。 もうすぐ、部屋の中で過ごすのも苦しいような、そんな季節がやってくる。 いまは、「あたたかい格好をしよう」と意識さえしていれば、比較的快適に過ごせるのだけれど そんな意識を越えて、底冷えするような季節は、必ず来る。 思うだけで気が滅入ってしまうような、絶望的な寒さ。

朝の魔法使い

朝の部屋が、しんと冷えるようになった。 わたしはお湯を、たっぷり沸かす。 きりんの笛吹ケトルとは、 もう、10年以上同居している。 18歳で、上京するときに従姉に買ってもらった。 あゆ、という名前の従姉が買ってくれたので、「あゆ」と名付けたケトル。 元気の良い笛の音で、今日もわたしを後押ししてくれる。 今日は、ハーブティーだと思う。 いつものカモミールのティーバッグは、残りひとつ。 耐熱ガラスに取っ手がついただけの、大きなビーカーみたいなティーポットには ティーバッグ

おとなのかばん

昔の恋人は、 「高価なものを、長く、きれいに使う」というような わたしとは真逆の信条の人だった。 初めての恋人で、 その発想そのものが、わたしには眩しかった。 彼が、割の良い家庭教師のアルバイトをしていた時期には たくさんのものを買ってもらった。 レッドウィングのブーツ zuccaの腕時計 A.P.Cのコート ぜんぶ、彼に買ってもらったもので どきどきするような値段のものだった。 もちろん、いまのわたしだって手が届かない。 当時わたしは、きらきらのイチゴのネックレス

深夜の独り言

「うん」 わたしは声に出して、ひとり頷いた。 「それがいいと思いますね〜」と続けた。 そしてひとり、にんまりとしている。 * ひとりの時間。 わたしは部屋で、noteを書いたり、ピアノを弾いたりしていた。 ふだんは同居人がいることも多いので、 夜、ひとりの時間って、ちょっと特別。 いつまで経っても、「作業を始める」ことには勇気がいる。 「あとでいいや」って思っちゃう。 うまく進むこともあるけど、 小さな石にもつまづくと、「またか〜〜〜」とか、「もうやだ〜〜〜」と

飛ぶ鳥と、飛べない鳥

白い羽を美しくはばたかせながら、 飛んでゆく白鳥を見送る。 * 強い輝きに出会うと、そんな錯覚に陥る。 白鳥は、気高く美しい。 そして、白鳥になれないわたしは、 地面から、恨めしそうに空を見つめる。 恨めしい、と思ってしまう自分すら はしたない、と嫌悪する。 わたしには、 はばたける白い羽は、ないのだと知る。 * ひとしきり嫌悪したあと、わたしはふいに気づく。 (わたしは、白鳥になりたかったんだっけ…?) 気高く、空を飛びたかったのだろうか。 いや、たぶん違

毎日の、スプーン1杯で

コーヒーをペーパードリップするようになって、もう何年経つだろうか。 ガラスのサーバーは、定期的に割ってしまっているので、もう3代目とか4代目だと思う。 まったく同じものを買うこともあるけど、 近所に売ってない、とか せっかくだから違うのを使ってみよう、とか 別のものを買うこともある。 わたしはいつも、サーバーの限界までコーヒーを落としたい。 だから、サーバーの大きさに合わせて、豆の量を調整する。 今のサーバーでは、豆は「6杯分」だった。 なんでそうしたか覚えてないけど、

救いのような目眩

なんだって、”ずっと”はしんどい。 ずっと頑張ることは苦しい。 ずっと休み続けて、何もしないことは、罪悪感になることもある。 ずっと一緒にいれば、ひとりになりたくなるし ずっとひとりでいると、誰かに会いたくなる。 “ずっと”というのは、 幸福の匂いを漂わせたまま、とても過酷なことだと気づいたら、目眩がした。 どれほど楽しい時間も、 ずっと続けば飽きてしまう自分に 疲れてしまう自分に 億劫になってしまう自分に うんざりしてしまう。 抱えている幸福の大きさが、ときどきわ

眠れない夜が、訪れても

眠れなくてもいい ある夜のわたしのメモには、それだけ残されていた。 その夜、本当にそう思っていた。 夜の、「眠らなくちゃいけない」というプレッシャーが、どうしても苦手だった。 昼間に寝ているから夜寝れない、とか、そういうこともあるのはわかっているんだけど そうじゃなくて 昼寝の怠惰さと違って、夜に部屋の電気を消したら、「寝ることを優先しなくちゃいけない」という その空気が、少し苦しい。 わたしはその空気から逃げ出すために、その夜はソファーに転がっていた。 ソファーはわ

元気がないときの、スプーン

ごはんを食べることが、あんまり得意じゃない、と思う。 たぶん、そうなのだと思う。 食べないと死ぬから食べるのだけれど 食べれば美味しい、と思えることのほうが多いし 大好きな友だちと食べるごはんは、いつでも最高に美味しいと思う。 でも、ちょっとバランスを崩すと 食べるより眠りたいなあ、と思うし 食べることが面倒だなあ、と思ってしまう。 一生、こんにゃくゼリーだけでいい、と定期的に思う。 それでも、我が家では食べることが推奨されている。 食べることは、生きることで わたしを

生まれたての記憶

あなたは、気づいていないでしょう。 ここ数週間で、わたしがいちばん”気にしていたこと”を こっそりと、こぼしていたことを。 * 数ヶ月振りの友達に会ってきた。 前回会ったのは8月で、「まつながさんとおしゃべりしたいので、うちに来ませんか?」と声をかけてもらった。 とってもうれしい。 ひとつ年下のこの友達は、いつもまっすぐ、一生懸命に話を聞いてくれる。 わたしのことを、「やさしい」と言ってくれて、「心理的安全性が高いってやつですね」と笑ってくれる。 そんな彼女を前にし

心に浮かぶ、風船を見つめている

「そんなことないよ」と 言われることは、わかっている。 * わかっている。 だいたいわたしの、杞憂なんだ。 ほんとにもう、びっくりしちゃうくらい、「杞憂」って言葉が、ぴったりだ。 でもほんとうは、 杞憂の奥底に、こびりつくような感情があるのだと思う。 なにかしらの、真実の色をしている。 でもわたしは、その色を言語化することができない。 だから、「杞憂」という名前しかもらえなかったわたしの感情は 誰かに届くことなく、「そんなことないよ」に打ち砕かれることもなく、 わたし

正義のあたたかさ

あたたかいものが、美味しい季節になって嬉しい。 基本的に飲むことが好きなので、 水でも麦茶でもカルピスでも、なんでも飲む。 コーヒーはたっぷり淹れて冷蔵庫に押し込まれるので、だいたい冷たい。 それでも、ひんやりした季節の「あたたかさ」ってたまらない。 同じ温度でも、夏は「暑い」になってしまう。 「あたたかい」は、涼しい季節の特権のような気がしている。 * あたたかさ、というと思い出す話がある。 友達の家が、浸水したときの話だ。 それはもう、浸水というのだろうか…

下北沢駅の、ホームにて

小田急線の下北沢駅が、地上だったときのことを、まだ覚えている。 大きな楽器を背負って歩かなければいけないのに、エスカレーターがなくて、エレベーターも潜んでいるみたいな位置にあって、大変だった。 あれから10年以上経って、下北沢の駅もかなり整ってきた。 小田急線から井の頭線に乗り換えるには、一度改札を出なければいけなくなったのが、ほんの少し不便だけど 井の頭線のホームまでくれば、あの頃となにも変わらない。 渋谷駅の改札側、先頭車両を目指して、わたしは歩く。 下北沢も、