打たれるとか打たれないとか。杭にまつわるアンチテーゼ。
打つ人の心理的メカニズム
よく聞く「出る杭は打たれる」という言葉。意外と、自分としてはそんなに嫌いじゃない笑
たしかに集団とか組織内の動きとかで輪を乱す人っているし、そういう人をなんとかして静かにさせたいもの。
でも、そういう人に限ってタフで周囲の目とか全然気にしてないし、周りにどう思われようが「我が道を行く!」ってな感じで突き進んでいる。
そういう人を目の当たりにした時、
あぁ、そういうふうな生き方すごいなぁ
って正直、思ったりもする。なぜなら、自分は周りの目とか気にしてしまうし、特に偉い人とかの前だと急に自己主張できなくなっちゃうし、、、
まぁ今のは打たれ強い杭の話みたいになってしまったけど、人は誰もが周りの目を気にして生きているということは一つ言えると思う。
そんなときに、自分にはできないことをしていたり、自分とは違って目立っていたりすると少し羨ましい感情なんかも出てきちゃったりして。
だけど、それを認めたときに自分が負けた感じになっちゃうから、それもすごく嫌で、結局は「あいつは出る杭だ!」みたいに気付けば批判している。
こうやって記事に書き纏めているとなおさらに思うけど、自分の世界観がいかに小さいか思い知らされる。
「出る杭は打たれる」というのは言葉でしかないけど、実際そういう心情が起きてくるメカニズムの一つには、嫉妬とか羨ましさみたいなのが見え隠れするのかなと。
打たれる人の心理的メカニズム
さっきのは自分が「出てる杭を打とう!」としている打つ人側の心理みたいなものを自覚的に書いてみた。
今度は、打たれる側として。
全然、自分としては「出てるつもりない」のだけれど、気付けば「あれ?いま俺打たれ中??」となるときがある笑
この無自覚的に「打たれる」というのは、そんなに痛くないのだが、自分が信念もって取り組んでいることに対して打たれたときは、正直かなりきつい。
兄弟間のコンプレックスにも当てはまると思うのだけれど、割と兄弟間は仲良さそうに見えて一番競い合っていたりするもの。
兄は弟がどれだけ立派になっても弟は弟で、弟はどれだけ成長しても兄にはなかなか認めてもらえない。その“認めてもらいたい”という一心で頑張っているのだが「よくやったな」とは簡単には言ってもらえない。
逆に、すごく否定されたりするときもある。この「打たれてる」感が実はめちゃくちゃキツイ。。。
良くも悪くも人間の行動原理には、“競争”とか“優劣”とかがすごく重要な役割を持っていて、兄弟間のコンプレックスにしても「兄より優れたい」とか「弟には負けたくない」とか、それぞれの立場的感情がある。
「誰かに認めてもらいたい」という承認欲求も行動原理の一つで、そのために何かをしようとしたり、それが自分自身のエネルギーになったりする。
ゆえに、そう思って行動した先がガンガン打たれちゃうことになってしまうと、かなりダメージがでかい。
出過ぎた杭は打たれない!?
これもよく聞く言葉。「出る杭は打たれる」の続きとして、よく使われる。これも自分としてはそんなに嫌いじゃない笑
意味としては、なんとなくわかるし「まぁそんなもんだよな」と変に納得させられてしまうから。
また、杭を打つとか打たないとか個人や組織によって全く違う様相になるもので、同じように組織の中で「出過ぎた杭は打たれない」状態になってしまうと、悪い言い方をすれば“省かれる”ことかもしれないし、“相手にしてもらえない”ことかもしれない。
それが良いことなのか悪いことなのかは、そのときの状態によって違うと思うから、なんでもかんでも「出過ぎてしまえばいい!」ということでもない。
意外と一番やっかいなのが、“出過ぎた杭”になっている自分に酔いしれている人。これも結構いると思う。
もちろん人と違うことは素敵だし、オリジナリティーを持っている人は魅力的だ。ただ「人の意見を聞く」ということはすごく大切で、それを踏まえたオリジナリティーを創作していくべきだと思う。
言い換えるなら、踏襲と変革。
これについては、明日にでも書きたい。
杭は誰かのため自分のために打ち込むもの
杭って何?
建物とかの支えになるもの、目印になるもの。
建物にとって杭はすごく重要で、これがしっかりしてなかったら崩れてしまう。あと、目印がなければ建物は順序立てて建築できない。
そういう意味では、揃ってなければならないし、きちんと打ち込んでおく必要がある。
でも、人はそれぞれ違うことが当たり前。
それが集団であっても組織であっても、人間は人間としてみんな違う。誰1人として同じように並んでいるわけではないし、誰かに支配されて打たれるものでもないということ。
自分が“杭になる”という考えであれば、すごく素敵だと思う。
誰かの支えとなったり、誰かの目標となったり、そんなふうに誰かのための“杭”になることは素敵すぎる。
その杭は誰かに打たれるものではなくて、“自分自身で打ち込むもの”だと思う。
そして、もう一つは自分自身のために打ち込む杭があるということ。
何もかも目標や支えなくして進んでは行けないし、我が道を行くにせよ、何にせよ、自分の人生を構築して行くためには明確な杭が必要。
その杭は誰かに打ち込まれたものではあるかもしれないけど、自分で打ち込むことはできるし、誰かのための杭ではなく“自分自身のため”の杭である。
人の意見を聞くことは何より大切なこと。けど、それだけで自分の人生は構築できないし、最終的には自分が主体となって選択していかなければならない。
そのために杭というものは必要なのであって、誰かの人生に自分が邪魔な杭になっているかどうかなんて、そんなに重要なことじゃない。
「出る杭は打たれる」
嫌いじゃないけど、僕はこれをテーゼとはしない。
「出過ぎた杭は打たれない」
嫌いじゃないけど、僕はこれもテーゼとはしない。
それらに対するアンチテーゼとして、
「杭は誰かのため自分自身のために打ち込むものである」
こう主張してみることとした。
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