人と比べない〜マラソンは心の格闘技
マラソン大会に参加したときのことです。その大会には、ゲストランナーとしてあるタレントさんが招待されていました。
ゴールまで残り2km地点にある登り坂の頂上付近で、その方が周囲にいたランナー皆に向けてこう声をかけてくれたのです。
「マラソンは心の格闘技。自分の弱い心との闘いや。」
その言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥にじんわりと熱いものが広がり、心を深く揺さぶられました。
残り2km、自分と闘う時間
残り2km地点はコース内で最も見晴らしの良い登り坂の頂上。私は坂の上から目の前を走るランナーたちを見渡しながら、こう思いました。
「私はこの人たちと戦っているわけじゃない。私が戦っているのは、自分自身なんだ。」
私はアスリートではありません。誰かを抜いて1番になることが目的ではなく、ただ自分のために走っているだけ。
周囲を見れば、前後左右のランナーたちは、それぞれが自分なりの目標を胸に走っている。だから、彼らと張り合う必要も、比べる必要もないのです。
昨年のマラソン大会で気づかなかったこと
ところが、昨年マラソン大会に参加した時は、そんな心の境地には至れませんでした。
私は周りの人たちばかりを気にして、まるで競争でもしているかのように走っていたのです。
仮装ランナーを見かけては、「こんなふざけた格好の人には負けられない!」と妙に意識し、年配の方に追い抜かれると、「負けてられるか!」と無意味に張り合っていました。
結果、レース中ずっと他人と自分を比較し、周囲との小競り合いに心と体力を消耗させていました。
学び直したこと
けれど、今年のマラソン大会のこの登り坂での気づきは私の走り方を変えてくれました。
マラソンは他者との競争ではなく、自分自身との対話の場です。他人ではなく、自分に勝つことが本当の目的であると、このとき初めて心から実感しました。
走りながら浮かんだ仕事のこと
私は適応障害で休職中でした。
坂を下りながら、ふと職場の同僚たちの顔が頭に浮かびました。
「私は何と闘っていたのだろう?」
「私の中の『弱い心』とは何だったのだろう?」
気づけば、私は同僚たちに対して強い劣等感を抱いていたことに思い至りました。彼らは決して嫌な人ではありません。むしろ、とても優秀で人間的にも素晴らしい人たちです。頭の回転が早く、発する言葉は的確で、組織への影響力も大きい。そして上司からの信頼も厚い。
そんな彼らの姿を見て、私は「すごいな」と感心する一方で、羨望や嫉妬の念も抱いていました。そして、心のどこかでこう思っていたのです。
「どんなに努力しても、私は彼らのようにはなれない。彼らを超えることなどできない。だから、これ以上の昇進は期待できないのかもしれない。」
そんな絶望感を抱き、自分に蓋をしていたのだと思います。
彼らが眩しすぎたのです。
私を閉じ込めていたのは
他でもない私自身だ
振り返れば、私は「勝手に」彼らと自分を比べ、自分を卑下していました。誰からも「お前は役に立っていない」と言われたわけではないのに、自分自身にそう言い聞かせ、自分を追い詰めていたのです。
自分を人と比べて、価値を判断する。
自分を人と比べて、さらに自分を傷つける。
これこそが、私の中の「弱い心」の正体だったのです。
そのことに気づいた瞬間、自分が走りながら闘っていたものがはっきりしました。闘うべき相手は同僚でも環境でもなく、「他人との比較に囚われた自分」だったのです。
比較から解放されるということ
彼らは決して私を貶めようとはしていません。眩しく見え、羨ましく、妬ましく思うのは、私の中の問題でした。そんな彼らに勝とうとすることにどれほどの意味があるでしょう?
競争心がすべて悪いわけではありません。他者との小さな勝負が達成感を生み、それが幸せを感じさせる瞬間もあるでしょう。けれど、その先にまた次の「競争相手」が現れたとしたらどうでしょう?
他人と自分を比べ続け、劣等感を抱きながら生きることで、果たして人は本当の幸せを得られるのでしょうか?
私はようやく気づきました。
私は彼らではない。私は私だ。
この一つの気づきが、私の心を少しだけ軽くしてくれた気がします。