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花子出版 hanaco shuppan
2021年10月9日 10:36
始まり 年代物の赤ワインが、透き通るほど磨かれたワイングラスに注がれていた。ワイングラスは高層ビルから溢れる光を受け、薄い縁が刃物のように輝く。二つのうち、片方のグラスの縁には、薄い桃色の口づけが付いていた。グラスの間に置かれたキャンドルは、親指くらいの炎を上げ、時の経過を穏やかに奏でつつ、テーブルを挟む若い男女を眺めていた。どこか、覚束ない炎だ。空調が効き過ぎているわけではなく、紺色の蝶ネク
2021年10月31日 07:33
帰郷 風光明媚な情景に両翼の影を加えつつ、大輔と健斗が搭乗している鶴のマークが輝く飛行機は、阿蘇くまもと空港へ降下する。大学の夏休みを迎えたこの時期の機内は、大学生の若い団体客が草臥れたスーツを着る社会人に混じって搭乗し、搭乗率は満席に近い。「もうすぐ、九州の地に初めて足をつけることになる。なんだか感慨深いなあ」 窓側に座る健斗は、目を丸くして喜びの声を漏らす。「単なる、田舎さ」
2021年11月1日 07:39
実家にて 休憩なしで走り続け、大輔の故郷に辿り着いた。大輔は変わりない景色に安堵し、細くなる道をアクセルを緩めて走る。農作業服の若い男が、畦道に座り煙草を吸っていた。男は車が通ると、訝しい目つきながら丁重に会釈した。大輔も空かさず会釈した。知り合いだろうかと記憶を探るも、分からなかった。健斗は窓ガラス頭をくっ付け、鼾を掻いている。天草に架かる大橋を渡ってすぐに寝ていた。 青々と茂る稲の葉を
2021年11月3日 08:13
海水浴 大輔が車のハンドルを握り、水平線が輝く海岸線を走る。助手席には健斗が座り、後部座席の真ん中には、咲子が座った。休日の道路は、天草市外からの車も多く、幾分混雑している。もちろん、東京の首都高とは比較にならないほどだ。排気ガスの匂いがなく、窓を開け、三人は海風を堪能した。 海水浴場に着き、車窓から、派手なビーチパラソルが犇めき合う浜辺を見渡した。「この海水浴場も混んでいるなあ」
2021年11月4日 07:00
幼馴染との時間の回想「大輔くん、大丈夫なの? バレないの?」 貴洋は囁くような声を出し、大輔のTシャツの裾を引っ張った。「大丈夫。貴洋くんは、本当にビビリだなあ。こんな時間に誰も来ないよ」 大輔は淡い月の明かりを頼りに、錆び付いたフェンスを登ってゆく。フェンスを乗り越えると、ジャンプしてプールサイドに着地した。振り向くと、貴洋が俯いている。「大丈夫だって。さあ、登ってこいよ」
2021年11月6日 07:46
大輔と幼馴染の再会。秘密基地にて 大輔は、気が付くと暗闇にて体育座りをしていた。尻に畳の感触が感じられない。自宅ではなさそうだ。土の香り、夏草の香り、木の香りが漂っている。膝を抱えていた手を離し、地面を撫でると、木の板が触れた。目を凝らして辺りを見渡すも、酔いが醒めておらず、鬱蒼と茂る木々や笹薮に焦点を合わせるが出来ない。 突然、手の甲に何かが触れた。冷水のように冷たく、弾力がある。「
2021年11月7日 06:27
上京し、変わった気持ち 実家へ帰省し、二週間ほど経った。大輔と健斗はレンタカーで海や温泉へ出掛けたり、昼間からお酒を飲み耽ったりと、悠々自適に過ごしていた。大輔は貴洋に会いたいと思ったももの、貴洋の家のチャイムを押す気になれずに、家の前を通るたびに横目で眺めた。貴洋の家は、どの日も静まり返り空き家のようだった。 とある雨の日の午後、大輔は畳に寝転がり、数日前にコンビニで買ってきた格闘技の雑
2021年11月21日 08:36
天草への憧憬 自宅に着き、健斗の肩を揺すって起こす。浅い眠りを彷徨っていた健斗は、すぐに瞼を開けて、背伸びをした。「もう自宅か。悪いな、起こさずに運んでくれて」「気にするなよ。しかし、よく寝ていたな。暫く、海沿いをドライブしていたけれど、全く起きなかったぞ」「いや、深い眠りではなかった。夢の中で、さっちゃんと、潮騒を聞きながらドライブしていたからな。現実と夢の世界が混じり合って、心