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『義』  -幼馴染との時間の回想- 長編小説



幼馴染との時間の回想

「大輔くん、大丈夫なの? バレないの?」

 貴洋は囁くような声を出し、大輔のTシャツの裾を引っ張った。

「大丈夫。貴洋くんは、本当にビビリだなあ。こんな時間に誰も来ないよ」

 大輔は淡い月の明かりを頼りに、錆び付いたフェンスを登ってゆく。フェンスを乗り越えると、ジャンプしてプールサイドに着地した。振り向くと、貴洋が俯いている。

「大丈夫だって。さあ、登ってこいよ」

 大輔は手を三度叩いた。すると、貴洋は細い指先でフェンスを掴み、木登り方法を忘れる飼い慣らされた猿のように、ゆっくりと登り始めた。

「よし、飛び降りろ」

 貴洋がフェンスの頂点に着くと、大輔は声を掛ける。

「怖いよ」

「なら、ゆっくり降りてこいよ」

 貴洋は小さく頷くと、登りと同じようにフェンスを掴んで降りてきた。

 二人は真っ裸になり、月の明かりを反射する真っ暗なプールへ飛び込んだ。宙を舞う水飛沫と、二人の張り詰めた緊張とが、一気に弾け飛んだ。水中から頭を出し、二人は見つめ合った。

「気持ちが良いね。こんなに興奮しているのは、初めてだよ」

 貴洋は屈託のない笑みを浮かべた。細い目が大きく見開いて、震えていた。

「そうだろ。一度味わってしまうと、病みつきになってしまうよ。なあ、あっちまで競争しよう」

 大輔は対面のプールサイドを指差した。

「無理だよ。大輔くんは泳ぐのが速過ぎるよ」

「ハンデで、十秒待つ」

「うん。わかった」

 貴洋は細い両腕を水面に浮かべた。

「よーい、どん」

 大輔の掛け声で、貴洋は顔を浸けて泳ぎ始めた。大輔は大声で十秒間を数える。クロールが出来ない貴洋のバタ足からは、大きな水飛沫が立っているももの、一向に進んでいるようには見えない。

 大輔は十秒間を数え終わると、水中に潜り、水底を這うように泳いだ。貴洋が立てる水飛沫の下を、悠々と潜り抜け、プールサイドまで一気に泳ぎ切った。水面に顔を出して、貴洋を見ると、未だ未だ遠くを泳いでいる。いや、踠いているようにも見える。

 大輔は貴洋の所へ向かった。

「終わり」

 貴洋の手を握った。貴洋は遊泳を止め、はあはあと子犬のような呼吸を繰り返し、息を整えた。

「俺は、あっちまで潜水で行って、戻ってきた」

 大輔は貴洋の背中を摩った。

「ありがとう。もう、大丈夫。大輔くんは、速いなあ。絶対に勝てないよ。また、泳ぎ方を教えてね」

「もちろん」

 二人は見つめ合い、静かな近隣へ遠慮せずに哄笑した。

 深閑とする水面に顔を出し、夜空を眺めた。白銀色の満月が眩しく、何光年も離れた星々の侘しい瞬きを無慈悲に消し去る。美の象徴のためには、些細な光は邪魔なのかも知れない。大輔は少しもどかしくなった。

「大輔くん。月が綺麗だね。朧げに浮かんでいるね」

「うん。綺麗だ。はっきり浮かんでいる」

「大人になったら、月へ行けるかなあ?」

 貴洋は大輔の顔を見ながら問い掛けた。

「うん。きっと行ける」

 大輔は貴洋の視線を感じながら、月に向かって言った。



続く。


花子出版  倉岡


文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。