見出し画像

『義』  -実家にて- 長編小説



実家にて

 休憩なしで走り続け、大輔の故郷に辿り着いた。大輔は変わりない景色に安堵し、細くなる道をアクセルを緩めて走る。農作業服の若い男が、畦道に座り煙草を吸っていた。男は車が通ると、訝しい目つきながら丁重に会釈した。大輔も空かさず会釈した。知り合いだろうかと記憶を探るも、分からなかった。健斗は窓ガラス頭をくっ付け、鼾を掻いている。天草に架かる大橋を渡ってすぐに寝ていた。

 青々と茂る稲の葉を縫って走り、大輔の実家へ着いた。窓を開けて、十九年過ごした平屋を眺めた。吉田の高層マンションや山岡家の洋館に比べると犬小屋のような小ささで、笑ってしまう。視覚的には小さいが、想起する淡い思い出が空間を徐々に押し広げて広大となり、帰ってきたのだと実感させた。

「おい、着いたぞ」

「悪い悪い、寝てしまった」

 健斗は瞼を擦り、眠気を吹き飛ばし、大きく背伸びをする。手が天井にぶつかった。

 二人は車を降りた。

「やっぱり自然は良いなあ。空気が美味しいなんて、野暮な学者の机上の空論だと思っていたけれど、本当に美味しいんだなあ。大輔の実家は、古風で味わいがあるなあ。本当に、良いところで育ったんだな」

「空気は綺麗だけれど、単なる田舎だぞ。BARはない、コンビニも遠く、健斗の好きな婀娜っぽい女の子もいない」

「それが良いんだよ。喧騒で搾り取られて乾ききった生命力を培えるんだ。これほど良いことはない」

「そう言ってくれると、連れて来た甲斐があった。さあ、荷物を下ろそう」

 二人はトランクを開け、大きな鞄を取り出した。健斗の鞄は大輔の二倍ほどの大きさだった。

 玄関を開けて、上がり框に荷物を置いた。大輔の五感が揺れる。希薄した線香の香りが鼻腔を通り、錆の浮き出たレール上を走る玄関扉の音が鼓膜を震わし、唇に付着する乾いた汗の味が口内で唾液を促進させ、薄暗い廊下から吹き抜けてくる風が頬を掠め、瞳に残った記憶が見える世界を鮮やかに彩る。帰郷に羞恥と喜悦を感じつつ、靴を脱いで上がった。

「上がれよ」

 大輔が言うと、健斗はよそよそしく、靴を脱ぎ上がった。

 廊下の奥から、母が顔を出した。

「あら、大輔。いつ帰ってきたと?」

 エプロンを着けた母が目を見開く。

「今朝。空港でレンタカー借りてきた。こいつは、健斗。同じ学部の友達」

 大輔は健斗の肩を叩いた。

「初めまして、大輔のお母さん。内藤健斗です。突然お邪魔してしまい、申し訳ありません」

「いえいえ。散らかっとるばってん、ゆっくりして下さいね。大輔、レンタカーば借りっとは、高くはなかと? 言うてくれたら、迎えにいってやったのに」

「アルバイトしているから、問題ない。俺の部屋、片付いている?」

「何も触ってなかよ。健斗さんが来たなら、ご馳走ば作らなあいかんばい。何か食べよごたるもんありますか?」

 健斗は母の方言の訛りを聞き、黙考している。

「何でも良いよ。健斗は好き嫌いないからな。なあ?」

 大輔が答え、健斗の肩を叩く。

「あ、はい。何でも大好きです」

「さあ、俺の部屋に行こうぜ」

 二人は鞄を持ち、廊下を進んだ。

「はいはい。ではごゆっくり」

 母は笑顔を作った。

 二人は部屋に入り、畳に座った。大輔は、上京時と変わらない部屋の景色に安堵した。ベニヤ板の壁に画鋲で貼り付けた数枚のポスターは、黒人のバスケットボールプレイヤー、白人のロックバンド、歴史の武将と共通点はなく無目的に張っていた。机も読書スタンドも、その他の家具も全て定位置だ。健斗は首を回し、室内を散策している。

「狭くて悪いな」

「いや、個性的な部屋だなあ、と思ってね」

「青春を悶々と過ごした部屋だからな。何か音楽でもかけよう」

 大輔はオーディオプレーヤーにCDを入れた。薄っすらと粉雪のような埃を被るスピーカーから、ギターの音が鳴った。

「良いじゃん。チャック・ベリーだね」

 健斗はギターに合わせて、頭を小さく揺らしてリズムを取る。

「よく知っているね。珍しいな」

「まあ、こんな身なりでも、古い音楽が好きだからね。チャック・ベリーは、俺の青春ソングだ」

 二人は乾いたギターの奏でる一曲を聴き終えた。

「そうそう、お母さんの訛りって凄いな。俺が使っている同じ言語とは思えなかった。それに比べ、大輔の訛りは殆どないな。本当に熊本出身なのか?」

「入学後に、訛りを消す努力をしたからな」

「それは勿体ない。方言は、地方のアイデンティティじゃないか。俺は熊本弁を使えるようになりたいなあ」

「それは都会人の、贅沢な悩み。飲み物とってくるな」

 大輔は立ち上がり、部屋を出た。

 キッチンが一新していた。ガスコンやシンクなどの水回り、食器棚、冷蔵庫がそれぞれ艶だっている。改築に驚きつつ、冷蔵庫を開けて麦茶を取り出す。古色を帯びた麦茶のポットは以前と変わらなかった。

「大輔。おかえり。帰ってきたって、母さんから聞いたぞ」

 父がキッチンに顔を出す。肌が小麦色に焼けていた。

「父さん、久しぶり。仕事は休みなの?」

「今日は土曜日だぞ。仕事が休みだけん、野良仕事の一日や」

「そうか、そうか。曜日の感覚がなくなってしまった。友達の健斗が来ているから、宜しく」

「それも、聞いたばい。何日間、こっちにおっとや?」

「そうだね。特に決めていない。ゆっくりするよ」

 大輔は食器棚から、コップを三つ取り出し、麦茶を注いだ。一つを父に渡して、部屋に戻った。

 健斗は立ち上がり、本棚を眺めていた。大輔は卓袱台に露が現れたコップを置いた。

「古い本がたくさんあるなあ。漱石、鴎外、川端康成、三島由紀夫・・・。近代日本文学の名著ばかり」

 健斗は一冊を取り出し、パラパラとページを捲った。

「母さんが読書家だったから、捨てるのが勿体無くて、この部屋に置いているんだ。俺は殆ど読んだことはない。そういえば、健斗は読書家だったね。面白い?」

「面白い。読まないと勿体ないぞ。『義』についての洞察も深まるかも知れない。享楽に入り浸った現代の作家と違い、人間についての洞察が鋭く、そして明瞭に記載されている。それも綺麗な日本語でな。言葉が生きていた時代だよ。ほんと。大輔も、読んでみなよ。後悔はさせないからさ」

 健斗は熱弁する。

「ああ、気が向いたらなあ」

 大輔は麦茶を一口飲む。

「今、四時だけれど、少し出掛けようか?」

「天気が良いから、散策したい。この村を知りたい」

 健斗は麦茶を飲み干した。卓袱台にはコップから垂れた露が、綺麗な正円を描いていた。


続く。

長編小説です。

花子出版   倉岡



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。