毎日更新をやめたら自分のnoteが書籍化された話
これは持論だが、
noterとして成長するには
「仮説と検証」がすべてだと思う。
私さ、前はムリして毎日更新をしてたんだよね。
閲覧数?
毎回「9人」とかだよ。
驚愕の1ケタ。いや逆にスゴイよ。
閲覧数が1ケタで止まったnoteを書いたことある人いたらコメント欄で教えてほしいくらいだよ。絶対にいないと思う。
別にね、毎日更新することは悪いことじゃない。
でも、毎日更新という執筆スタイルは私には合ってなかった。
だって私が毎日更新したところでさ、
もう誰にもとめられない地獄のスパイラルに陥ってた。
そのスパイラルから抜け出して、最初に書いたnoteがこれだ。
閲覧数は数十万に爆増。
「note創作大賞」で優秀賞を受賞。
複数の出版社からお声がけいただき、書籍化までされた。
こんな夢みたいなできごとが起きたのは、ひとえに毎日更新の地獄のスパイラルから抜け出せたおかげだ。
そのスパイラルから抜け出したきっかけとなる出来事は、とあるライブだった。
大好きな歌手のライブを見に関西に行ったんだよね。
そしたらそのお目当ての歌手が歌う前に、いわゆる「前座」となるバンドが曲を披露してくれた。
3曲ほど披露した後、ボーカルの男の子がこう言った。
って。そしてこう続けた。
その様子を見て、
「ああ、まるで私のようだな」と思った。
私が昔、毎日更新で書いていたnoteはまさにこんな感じの「自分本位」の姿勢で書かれたnoteばかりだった。
とにかく自分、自分、自分、自分。
自分のことを知ってほしい。
自分の文章を読んでほしい。
「読者に楽しんでもらおう」なんて気持ちは一切、ない。
もちろん、さっき出てきたボーカルの子の姿勢はすごく大切だ。
前座の時間が終わる最後の短い時間。
この貴重な時間を使ってしっかり自分たちを売り込んでいく。
これは絶対に必要だし、やらねばならんことだ。
ただ、それ「だけ」で終わったらもったいない。
だって「宣伝」を聞きたくてしょうがない人なんて、いないじゃない?
テレビがわかりやすい例だと思う。
テレビつけて、番組が一切やってなくてひたすら
ずっとCMだけ流れてたら、
誰も見ないじゃん?
あれと一緒。
番組っていう「他人を楽しませるコンテンツ」があるから人はテレビを見る。
そしてその「楽しいコンテンツ」の合間にCMという宣伝がある。
だから人はCMを見てくれる。
なので、「自分を知ってほしい」「自分のファンになってほしい」という思いで自分を宣伝するなら、
「相手に楽しんでもらう」
っていう姿勢がすごく大切って思うんだ。
見てよこれ。私がむかし書いてたnoteのタイトル。
あかーん!!(宮川大輔)
たとえばさ、「今月読んでよかった10冊の本」ってタイトルのnote、今あったじゃん。
って誰かに聞かれたら、私、答えられない。
だってないんだもん。メリットが。
逆にいえば、「読まれるnote」ってのは「読者にとって読むメリットがあるnote」ってことだ(当たり前すぎるけど)。
だから今の私なら「読むとこういうメリットがある」ってテーマを決めて、そのテーマに沿ってコンテンツをつくると思う。
たとえば、「今月読んでよかった10冊の本」という最悪のnoteをどう改良するかっていうとこんな感じに改良すると思う。
これをコンテンツに落とし込むとこうなる。
(こないだ実際に自分のツイッターでつぶやいたときのキャプチャ)。
これなら、「読む価値のあるコンテンツ」と言えるんじゃないかな(言えなかったらごめん)。
だってこれなら、
って思ってもらえる。
相手が読むメリットを感じてくれる。
だから、私思った。
毎日更新をしていても、誰にも読まれないのなら
「自分のnoteは、
誰に、どんなメリットを届けられるのか」
を熟考すると、一気にたくさんの人に読んでもらえるんじゃないかって。
だってそのメリットさえ決めてしまえば、そのメリットを読者に届けるためにどんな努力だってするじゃない。
そうして生まれたnoteって、読者が喜んでくれる価値あるnoteになるじゃない。
するとそういうnoteはたくさんの人に読まれるじゃない。
だからメリットを考えることって超大事だと思うんだ。
でもさ、これ難しいよね。
趣味でnote書いてる人も。
「〇〇大学の公式note」や「〇〇会社の広報note」の中の人として書いている人も。きっと、すごく悩むんじゃないかな。
私の場合「自分のnoteは、誰に、どんなメリットを届けられるのか」を考えた結果この結論に行きついた。
それは私のnoteを読んだ人が
「うわ~~~!!!!
文章書きたい~~!!!」
って書きたい欲を大爆発させること。
これが
なんだ。
だから「華さんのnoteを引用してnoteを書きました!」って通知が来ると五体投地するレベルでうれしくなる。
引用して書いてくれてる人、いつもありがとね。
こうやって「自分のnoteは、誰に、どんなメリットを届けられるのか」を考えると、一気に書きやすくなるんだよね。
だって誰に対して何をどう書けばいいのか、瞬時にわかるようになるから。
だからすごく書きやすくなる。
しかし、一つ問題がある。
書きやすいから書いた文章が、必ずしも読まれる文章だとは限らないんだだ。
って思っても全然読まれなかった、ってことない?
私はあるよ。
ってか誰よりもあるよ。
「読まれなかった回数選手権」があったら日本どころか世界で戦えるレベルだよ。
絶対に負けねぇ。
絶対に、誰にも、負けねぇ。
じゃあ、読まれる文章を
書くためには、どうすればいいか?
これね、一つしか方法はないと私は思ってる。
とにかく書いた文章を誰かに読んでもらって、その誰かからフィードバックを受けることだ。
ってなるよね。わかる。
もうnoteで文章を書いてる人なら耳ダコだよね。
ってなるよね。
わかる。みんなそんなこと、わかってるってことがわかる。
たださ、「そんなんわかってるわ」ってなるくらいフィードバックは大事なんだよね。
それくらいみんなが「わかりきってる」って言えるくらい大事なことなんだ。
でも、「実際に誰かにフィードバックしてもらう」となるといろんな問題が立ちはだかる。
私もそうだった。
そもそも私、noteって趣味で書いてたしさ。
仕事で書いた文章ならまだしも、趣味で書いた文章をプロに見てもらうのはなんとなく抵抗があった。
でも、それでもどうしても「読まれるnote」を書きたかった。
じゃあどうしたかっていうと
友達にビールをおごった。
場所は恵比寿。
恵比寿には「ヱビスビール記念博物館」って博物館があるんだけど、ここでできたての極上のビールを飲むことができるんだよね。
近くまで来たら行ってみて。マジでうまい。
このヱビスビール記念博物館で友達にビールをおごった。
もう缶とか瓶では絶対に味わえない最高にウマいビールを飲みながら、
を友達に”声で”聴いてもらうことにした。
これ、我ながら効果抜群だった。
実際の文章を見せるわけじゃないから照れくさくないし。
相手からしたら
だから引き受ける側の相手も、頼む側の私もすごく気楽だった。
でさ、友達にネタを聞いてもらってると彼女の顔が曇る瞬間があるのよ。
そこでわかる。
「あ、このネタはつまらないんだな」
って。
逆に声出して笑ってくれたり、しんみりと涙ぐんでくれたりするネタもあった。
そういう「相手が反応を返してくれた」ネタは価値がある。
だからそういう反応を返してくれたネタだけをnoteにする。
これがすごく良い方法だった。
今までたくさんnoteを書いてきた。
これは全部、居酒屋で友達に聴いてもらった結果「生き残ったネタ」を文章にしたものなんだ。
「良い書き手は、良い読者が育てる」
という言葉がある。
まさにその通りだ。
良い読者を持つことが、良い書き手になる最短の道だ。
だから、身近な人でいい。
友達とか家族とか。
社会人なら会社の同僚とか先輩とか。
大学生ならゼミの友達とかサークルの先輩とか。
なんでもいいからnoteのネタを
言葉で話すといい。
これが「読まれるnoteを書く」ための最短の方法だ(と、思う)。
ただし、
って人はいると思う。
そういう人は、「あなたのnoteにフィードバックします」って人をnoteの中で探すといい。
「フィードバックサービス」とか「ライターコンサル」って検索すると出てくるよ。
お値段は数千円くらいのことが多いかな。
私も去年とある人に自分のnoteにフィードバックしてもらった。
誰にお願いしたかはヒミツ♡
なんでかっていうと、「私には最高のコンサルタント」だったけど、今このnoteを読んでいる人にとっても最高だとは限らないから。
「うわ、この人が書くnoteめっちゃ好きだわ」
って自分が思う人に依頼するのが、やっぱり一番いいからね。
ちなみに。
私がもし誰かのnoteにフィードバックするなら
という3ステップにすると思う。
というか、今、会社やめて独立して現在「ライターや新人編集者への教育研修」やってるけどまさにこのステップでやっている。
って人のために、まずは①の「フィードバックでめっちゃ褒める」ってのがどんな感じか具体的に見せてみようと思う。
私が以前、とある人のnoteを褒めちぎった時のフィードバックがこんな感じ。
実際の怒涛のフィードバック
……と、こんな感じ。
いや、なんでこんなに褒めるん?
って思った人いると思う。
それはね、自分の文章の「どこが魅力的なのか」は自分じゃわからないと、私は思うからだ。
みんなもそうじゃない?
「イイネ」がいっぱいついた自分のnote、「えっ、どこが良かったんだろう」って思うことない?私は、ある。
おもしろいnoteを書いてる人って、とにかくみんな「自分の長所」を徹底的に磨いているんだよね。
ともがいている人は一人も、いない。
この戦略はすごく良いと思う。好きだ。
だって短所を長所に転換するには、ものすごいコストと時間と労力がかかるわけだから。
そこにリソースを費やすのはちょっともったいない。
だったら、短所を長所にするために努力するよりも、
長所をさらに磨き上げて
誰にも負けない武器にする。
そのほうがたとえどんな戦場でも、戦っていける。
そう思うんだ。
だから、私は褒める。
って心を込めて伝えている。
ただ、褒める「だけ」で終わったらよくない。
フィードバックがここで終わると、フィードバックを受けた人の文章が中途半端に磨かれて終わってしまう。
だから私は、いっぱい褒めた後に
をやっている。
これも大切なステップだよね。
だってたとえばさ、極端な話「人工知能」が「人口知能」ってなってたら意味がかわっちゃうしね。
だからフィードバックで「正しい日本語に直す」ってのはとっても大切。
具体的に、私が普段どういう風にライターの原稿に添削を入れてるか見てみよう。
なので、この方法にする。
「わざと間違った日本語を
ふんだんに盛り込んだフェイク記事」
をここに載せる。
そして、その記事に対して添削してみるね。
さて、実際そのフェイク記事をここに載せてみるね。
ライターさんもそうでない人も、
「間違った日本語に気づくか」
ゲーム感覚で楽しんでみてね。
ちなみに、間違いは21カ所もあるよ。
それでは、どうぞ。
【インタビュー】日本一のコンテンツマーケティング会社で大活躍のディレクターを直撃
……どう?
間違った日本語をふんだんに使った、フェイク記事。
これつくるのに2時間くらいかかったわ。マジで疲れた。
で、ここから答え合わせ。正解はこんな感じ。
こんな感じ。
ここまで、「私が普段やっているフィードバック」を実例つきで見てもらったワケだけど。
フィードバックってこんな感じなんだよね。
こんな風にフィードバックを受けることで、書いた文章っていうのはさらに磨かれていくんだ。
ただね、フィードバックを受けるときは「ただやみくもに書いたnote」を提出しちゃうとかなりもったいない。
「魂を込めることに成功したnote」
だけを出すのが一番だ。
なぜならば、書き手のあなたが"真剣に"文章を書いているように。
フィードバックする側の人間も、"真剣に"フィードバックしているからだ。
フィードバックって緊張するんだよね。
フィードバック「される」時じゃなくて、
フィードバック「する」時に。
私は今まで編集者・編集長としてキャリアを積み、独立した今は「新人編集者とか新人ライターへの研修」を仕事の一つにしている。
そのほか企業の広報さんが書いたリリース添削とか、大学院生が書いた論文添削とか(実は私、博士課程中退してるから論文も添削できる)、公式noteを運営している中の人のnote添削など、とにかく「他人が書いた文章へフィードバックする」仕事をしている。
未だに緊張するんだよね。
いつ、いかなる時もフィードバックを「するとき」に緊張する。
もう編集者としてのキャリアを何年も積んできてるのに。
編集長も長年務めてきたというのに。
未だに緊張する。
まさに昨日も人さまの原稿にフィードバックをした。
原稿2本見たよ。
一つは、とあるコンテンツマーケティング会社の社員さんが書いた原稿。
もう一つは、とあるWeb媒体の新人編集者が書いた原稿だった。
どちらの人も、文章を書くことを仕事にしている人だ。
前者は「クライアントから依頼をうけて、クライアントのために記事を書いて納品する仕事」。
後者は「自社のオウンドメディアに掲載するための記事を書く仕事」。
私ね、ずっと文章を書く仕事をしてきたからわかる。
文章を書くのは難しい。
書くだけなら誰にだってできるんだよね。
でも、「読まれる文章」は
誰にでも書けるわけじゃない。
だから文章を書くのは難しいと思うんだ。
「文章を書く仕事をしている人」がつむぐ言葉は、まさに計算に計算を重ねて磨き上げられたダイヤモンドのようなもの。
悩んで悩んで悩み狂うのがプロの仕事だから。
だから、文章のあちこちに悩み苦しみ抜いた痕跡がある。
同じ文章を書く仕事をしているから見ればわかる。
それこそ、一瞬で。
「泣けない原稿は原稿じゃない」
昔、そう文章の師に言われたことがあるけどまさにこれ。
表現者として悩み苦しみ抜いた痕跡があちこちにあるからこそ、原稿を読んでると泣けてくる。
本当にそうだよね。泣けない原稿は原稿じゃない。
正直、一見わかりにくいよ。
だって「書く仕事」をしている人が生み出す文章っていうのは、完璧だから。
完璧な文章って、スラスラ読める。
縷々として流れる小川のようにスイスイ読める。
だから、はた目から見るとすごく簡単な文章に見える。
「こんなの私だって書けるよ」
って思っちゃう文章に見えるんだ。
でも、極限まで磨き上げた文章ってそうなるんだよね。
「私でも書ける」って思われる文章に見える。
でもさ、完璧な文章ってのはそういうもんだ。
それでいいと思う。
そうでなければならないと思う。
そういう完璧な文章ってのは悩んで悩んで悩み狂って生まれるもんなんだよね。
読む側から見ると簡単そうに見えるのに、その簡単そうに見える文章を生み出すのは簡単じゃない。
簡単じゃないから、書くのはすごく大変だ。
大変っていうかもはや辛いよね。
前もほかのnoteで言ったことあるけど。
文章ってさ、インクで書くんじゃないんだよ。
血だよ。血で書くんだ。
自分の血をインク代わりにして書くつもりで、文章を書くんだ。
だから書くのは大変。書くのは辛い。
辛くて当然だよ。血で書いてんだから。
血ぃ出てたら絶対痛いでしょ。
だから書くのは痛いし辛い。
私「書くのが辛い」なんて新人のころ悩んだことあるけど、今考えると我ながらもうホントに意味不明。
「頭痛が痛い」みたいな感じ。「馬から落馬する」みたいな感じ。
「書くのが辛い」ってもう意味がわからん。
もはや翻訳不能なトートロジーだ。
それでは言葉が重複している。
「書く」という動詞がすでに「辛い」という意味を内包しているのだから。
でも、書くっていうのはそういうこと。
辛くて痛いもんなんだ。
でも、文章という名の自分のわが子を産むために、この産みの苦しみに耐えるのが書き手である私らの務めだ。
それが「書き手という母」の
あるべき姿だ。
そうやって痛い思いで出産した文章は、絶対に、絶対に読者に響くと思う。
失血死するんじゃないかってくらいの血の量で書いてんだから。
それくらいさらけ出して書いてんだから。そら絶対に読者に響くよ。
たまに血どころか内臓全部ぶちまけてる人いるけど、もうそれくらいやったほうがいいと思う。
だってすべてをさらけだして書いたほうが絶対に良い原稿になるから。
素っ裸になるくらいの気持ちで全部さらけだして書くんだ。
だから、緊張する。
「書くことを仕事にしている人の文章」にフィードバックをするのが。
相手が自分の血を使って書いた文章だよ?
苦しんで苦しんで苦しみ抜いて産んだ文章だよ?
それにフィードバックするってことは、つまり
魂の領分に
踏み込むことになるんだよ。
緊張しないわけが、ないじゃない。
プロの文章に肉薄することはほとんど命がけだ。
初めて部下の指導をすることになった時、
とか適当にフィードバックしていた新人編集長だったころの自分に言いたい。
チャンジャで頭洗うぞ。
書く仕事をしている人は、文章をつむぐ「プロ」だ。
新卒だろうが新人だろうが関係ない。
これまで積んできたキャリアの期間もこなしてきた原稿の量も、どうでもいい。
関係ない。
文章を書いて、それで会社から給料をもらっているならその時点で全員プロだ。
プロが行う仕事には、
すべてに意味がある。
助詞を意図的に消したり、あえて副詞を動詞から話したり、わざと表記ゆれを入れたり、流れを良くさせるために故意に主語と述語をねじれさせたり、接続詞の後に作為的に読点をなくしたり、演出として恣意的な誤謬を入れたり。
彼らが書いた文章はすさまじく巧妙な構造力学に支えられてできている。
マジで舌を巻くよ。
意図が込められてない箇所なんてただの一つもないんだから。
一文いちぶんに丹念に丹念に丹念に意図が込められている。
正直赤入れしたくないなって思う時もぶっちゃけ、ある。
でも仕事だからやる。
どれだけ緊張してもその責務は果たさなくてはいけない。
プロが書く文章には「すべてに」意図がある。
フィードバックをする以上、書き手が込めたそれらの意図を私は「すべて」くみ取らなくてはいけない。
それがフィードバックをする側の、すなわち私の、果たすべき責務だ。
なぜそれが責務なのか?
それは、書き手が込めた「すべての」意図をくみ取らずにフィードバックすると「ただの的外れな諫言」になってしまうからだ。
だってその状態でフィードバックしたところで「いやそれはこういう意図があるんです」って言われちゃうじゃん。
ただただ無意味なコミュニケーションコストを相手にかけさせただけに終わってしまう。
仕事でこんなことが許されるわけがない。
ほら、こんな笑い話があるじゃない。
知ってるかな。とある原稿で、
みたいな笑い話が。
プロが書く文章には「すべてに」意図があることを理解していないと、こういう大事故が起きる。
だからほんと、フィードバックってのは恐ろしいよ。
自分の実力のすべてが、
相手にバレるんだから。
「編集長」だの「上司」だの「メンター」だの、部下に教える立場の人はきらびやかな肩書でコーティングされているけど。
フィードバックをするとそのコーティングがすべてはがれる。
だから、ほんとに、恐ろしい。
ってかそもそもさ、フィードバックっていうのは「その文章」ひいては「作品」をさらにブラッシュアップさせるための「建設的な批判」のことを指すよね。
建設的な「批判」っていうのは、
その文章の「完璧な理解者」にならないと絶対にできない。
だって完璧な理解をしていないと、批判そのものが一切意味のない戯言になってしまうから。
この「完璧の理解者」になるには、
実力がいる。
実力がないと、相手に送ったフィードバックは「ただの感想」になってしまう。
アドバイスになりそこねた、ただの感想だ。
「素人の感想と
プロのアドバイスには価値がある」
って言葉がある。
これは逆を言えば「素人のアドバイスと、プロの感想には価値がない」ってことだ。
全くその通りだと思う。
会社に勤めていたころは、私は会社からお金をもらって部下の編集者たちへフィードバックをしていた。
会社を辞めて独立した今は、私はクライアントからお金をもらってクライアントの会社に所属する社員さんたちへフィードバックをしている。
お金をもらってフィードバックという仕事をしている以上、私は当然プロだ。
私が会社員だろうが独立した経営者だろうが関係ない。
お金もらってフィードバックしてんだから、どっちの私も「プロ」だ。
そのプロがアドバイスではなくただの感想を送るなぞ、絶対にあってはならない。
プロに求められるのはアドバイスであって、アドバイスになりそこねた「ただの感想」に価値などない。
誰かの原稿にフィードバックする時、私はできるだけ口頭で伝えるようにしている。
文章で返すフィードバックだと、ニュアンスが伝わらなかったりするから。
プロってのはとにかく読者のことを考えて考えて考えまくって文章を書く。
そうやって読者のことを考え抜ける人っていうのは、ただ一人の例外もなく感受性が豊かだ。
しかし、感受性が豊かということはそれは同時に彼らの易傷性が実に高いことを意味している。
ライターとか編集者とか、それ以外でも「文章を書いてお金をもらっている」人って、とても”繊細”(って言葉はあんまり好きじゃないけど)な人が多いじゃない。
良い悪いは全く別にして、ね。
ってか"繊細"だからこそ良質な文章が書けるから、むしろ"繊細"であることはとても重要な特質だと思う。
この特質は、
物書きがすべからく持つべき特質だ。
でもだからこそ、的外れなフィードバックをすると彼らの筆を折らせることになりかねない。
"繊細"だからこそ、的外れなフィードバックで筆が簡単にポキリと折れてしまう。
彼らの筆が滑らかに動くよう、より良質な筆になるようフィードバックをしているはずが、筆そのものを折らせることになりかねないんだ。
「筆が折れたから2本に増えたぜ!これでもっと書けるなキャッホオオオウ!」って言う人も確かにいるけど、ほとんどの人はそんなポジティブには考えない。
だから私は、そうならないようニュアンスが最も伝わりやすい「声」という媒体を使って伝えるようにしている。
そうすれば、フィードバックという贈り物を優しく穏やかな「声」という真綿で包むことができるから。
でもさ、フィードバックする際、私は一見ニコニコしながらおだやかに話しているように見えるかもしれないけど。
でも実際のところ、汗びっっっしょりだよ。
これ以上ないってくらい緊張してるんだもん。
当たり前だ。
だって相手の魂の領分に踏み込むことになるんだから。
でもさ、その「魂の領分」に踏み込まれて原稿をもみくちゃにされてこそ(そこに愛が無いとダメだけど)、良い原稿を書けるようになると思うんだ。
だから、フィードバックってのは「書く仕事」をしている人にとってはものすごく価値があると思う。
だからこそ。
書き手に「価値があるフィードバックだったな」と思ってもらえるように。
そしてその書き手が書いた記事を読んだ読者が「この記事読んでよかったな」と思ってくれるように。
今日も明日もその先も、良質なフィードバックをしていきたい。
そのために、どんな小さなことであってもまるでスポンジのようにすべてを吸収して学びたい。
これが、私が今年、学びたいことだ。
いや、違う。
正確には
「今年も、学び続けたい」ことだ。
この学びが終わることなど一生、ない。
なぜならば学びを終えた瞬間、「成長」ではなく「現状維持」にフェーズが移行するからだ。
現状維持では後退するだけだ。
キャリアは常に進化させていかねばならない。
これはどの職業でも一緒だと思う。
編集者だろうがライターだろうが大学教授だろうが美容師だろうがフォトグラファーだろうがタクシーの運転手だろうが会社役員だろうが関係ない。
どの職業でも一緒だ。
誰かが書いた文章に、良質なフィードバックをすること。
私はそれを、今年も学びたい。
プロであり続けるために学び続けたい。
そうして「良いコンテンツ」をつくる人の一助になりたい。
私のフィードバックを受けて「もっと書きたい」「書くのが楽しくて仕方がない」「筆がとまらない」と言ってもらいたい。
「書き続けたい」と言ってもらいたい。
私は今まで、表現者として何度も何度も筆を折りかけた。
表現者であり続けることは、諦観・絶望・銷魂とのたゆまぬ戦いだった。
だから、「続ける」ことがどれだけ尊いことか、私は知ってる。
だからこそ私、noteの「ミッション」が大好きだ。
noteのミッション、なんだか知ってる?
「だれもが創作をはじめ、
続けられるようにする」。
なんだって。
これすごくない?
始める、で終わるんじゃなくて「続けられるようにする」ってところ。
続けることをとても大切にしている素敵なミッションだと思う。
だから私も、プロの編集者として。
「書きたい」と思ってもらえるフィードバックがしたい。
「書き続けたい」と思ってもらえるフィードバックがしたい。
そんなフィードバックができるよう、今年も来年もずっと学び続けたい。
だから学びが終わることなど、一生、ない。
終わることがあるとすればそれは自分の命が終わったときだ。
女優アーサー・キットは言った。
そうだ。学びってのは一生続くもんだ。続けるもんなんだ。
だから私は今年も学ぶ。学び続ける。
文章のプロとして、「進化」し続けるために。
(了)
あとがき
塩むすび、うっっっっま。
このnoteさ、自分の部屋でセブンの塩むすび食べながら深夜に書き上げたんだよね。
最近のコンビニのおにぎりってやっぱレベル高いよね。
おいしいわ、これ。
今回のこのnoteは、エッセイとして書いた。
エッセイって日本語に訳すと「随筆」だ。
「随」っていうのは
「成り行きにまかせる」って意味なんだって。
つまり随筆とは、「筆がおもむくままに、筆にまかせて書く文章」ってことだ。
だからこのnoteは「もうnoteを書きたくないあなたへ」から始まり、「フィードバックってめっちゃいいよ」と話題が流れ、最終的に「プロの編集者として学びたいこと」に着地した。
まさに筆がおもむくがままに任せて書いた。
だから流れるような文章に仕上がった。
この書き方は、村上龍の「トパーズ」って小説に触発された書き方なんだよね。この小説知ってる人いるかな。
たしか大学生のころに読んだと思う。
1980年代の東京を生きている風俗嬢が、一人称で語る小説。
読んだときに「なんだこの文章!?」ってなった。
本当に不思議な文章だった。
どんな感じで不思議なのか?
ちょっと最初の二行、引用してみるから読んでみて。
いくよ。
……なんか不思議な感じしない?
たった二行なのにすごく長いよね。
でも、不思議とすいすい読めてしまう。
凡人の私だったら、この『トパーズ』という小説の冒頭はきっとこう書いてしまう。
一つの文章に、一つの意味だけ込めるのが本来あるべき「文章の基本」だ。
一つの意味が終わったら「。」をつけて一文を終わらせる。
だから、(原文ではたったの二行だったのに)この基本にのっとると七行になる。
でも、原文の二行のほうが、ずっと色気がある文章だと思わない?
風俗嬢の小説だから色気があるって意味ではもちろん、ない。
そうじゃなくて文章そのものに艶がある感じ。
この艶を出すためには、文章の基本なぞ全部無視して「二行」でスイっと書くべきなんだと思う。
この文体こそ、「筆の成り行きにまかせて」書いたまさに「随筆」だ。
私にはそう見えた。
だから、「うわ、なんかこういう書き方してみたいな~」って思ったので今回やってみた。
あーもう超楽しかった。
コレ意外といい方法かも。
ガッチガチに構成案を固めてから書くのも好きだけど、こうやって筆が流れるままに書く文章も楽しいもんだね。
これぞ随筆。まさにエッセイ。
こうやって、「楽しく書ける」方法をいっぱい見つけていっぱい試して、そうして文章を書き「続けて」いこうと思う。
「楽しく書ける方法」が一つだけだと、その方法を使えなくなった時に書けなくなっちゃうからね。
リスクは、分散する。
だから、文章を書き続けるために「楽しく書く方法」はいっぱい持ってたほうがいい。
未来の私が、筆を折らずに済むように。
【関連note】いつか本を出したいあなたへ
ここまで読んでくれてありがとう!
長かったでしょ。お疲れさま。
お茶でも飲んでゆっくりやすんでね。
さて、ここからは関連noteの紹介です。
と思ってnoteの更新を頑張っている。
でも、なかなかイイネがつかない。なかなかフォロワーが増えない。
出版なんて、夢のまた夢……。
そんなことないです。
私がnoteで書いたエッセイ「100万円貯めて、汚部屋から脱出してみた」が書籍化されました。
私はnoteのフォロワーがまだ30人程度しかいなかった時点で書籍化にこぎつけました。
また、今回書籍化されたnoteは初めて書いたnoteだったので、投稿件数はたったの1件。
noteのフォロワー30人、
投稿件数1件でも
書籍化を実現できるんです。
その書籍化を実現するためにやったことすべてを、包み隠さず1.7万文字というボリュームで徹底的に解説しました。
題して、「フォロワー30人、投稿1件なのに『noteの書籍化』を達成した方法」という有料noteです。
この有料noteはありがたいことに人気noterの方からもうれしいレビューが届きました!
※この時はnoteのコンテンツ量が今の10分の1以下だったので、はるかに安い980円で販売してました。
【このnoteはこんな人にオススメです】
» 「フォロワー30人、投稿1件なのに『noteの書籍化』を達成した方法」を読む
「いつか本を出したい」ではなく、「10か月後には近所の本屋で自分の本が並んでいる」ことを確実に目指せるnoteです。
私が書籍化するために行った「すべて」をそそいだ大傑作note。
「一生に一度、自分の本を出したい」と夢見る方はぜひ読んでみてくださいね。
もしこのnoteが面白かったら300円サポートお願いします!😭肩こりと背中の痛みがひどくて椅子にすわれないことが多くて……。整形外科で回300円の電気治療してるんだけど、いただいたサポートでもっと電気治療通いたい!!頂いた治療費、大切に使わせて頂いてます🙇