学びは何を上昇させる?

知識の量。
知識って量を計測できるのかな?

幸福感。
何かを達成することによる?

学ぶことによって達成されるものとは?
何を学ぶか?にも影響されるだろう。

ってゆーか。。。

”上昇”したり、何かを得なきゃならないものなんだろうか???

先日息子の入学式で、来賓のお一方が「仕事って何でしょう?」と問うておられた。

その方の説明では「誰かの役に立つこと(をすること)」であった。

それが唯一の正解とは思わないけれど、小学校に上がる子どもたちに話しかけるというコンテキストで、これから学校で何を学ぶのでしょうか?勉強するってどういうことでしょうか?ということの説明へとつなげる方法としてはありだろうと思った。

ただ、誰か、何かの役に立つってのは、ただぼんやり生きていてもできないことではないと私は考えている。なぜならば、私たちは誰しもが既に出来上がっている社会というものの中で、他者、他物と何らかの関係をもちつつ生きているから。

私が育った20世紀終盤から21世紀序盤を振り返るに、この個人と社会との関係については、「個人が社会を支えている。支えていく(べき)。」というニュアンスが強かったように思う。

私が2010年以降、世間一般で言われる”お仕事”を中断して勉学し始めてから注目するようになったことは、「個人個人はなんとなく生きていても社会なるものは形作られ、なんとなくでも維持される」という事実。

勉強していた分野がマネジメントであったこともあり、論文を書くにあたって、常に悩まされていたことが、「それがどういう風に(例えば現実の会社組織などの)役に立つのか?」という問い。

私が今も細々と続けている研究の方法というのは、”分散分析(Variance Analysis)”に対して”プロセス分析”という名前がついているので、それなりに必要性は認められている(でなければ名前はつかないだろう)。

”分散”と日本語で言ってしまうとイメージが湧きにくいと思うのだけれど、varianceというのは多変数間の様々な関係性のこと。変数xの変化に従って、別の変数yがどのように変化するか?ということの検証・分析。これは例えば因果関係を”推定してみる”上で便利な方法。

「個人が社会を支えている」というイメージも、”分散分析(Variance Analysis)”的考え方の影響を強く受けていると考えられる。

個人(x)が状態x1からx2に変化すると、社会(y)の状態もy1からy2へと変化する。

”プロセス分析”というのは、そもそも変数(xやyやz)が何らかの関係性をもっているように見える状態に至るまでのプロセスを見てみたい、見てみた方がいいんじゃないか?という要請に応えようとするもの。適切な変数が選定されているか?などなど。

個人の変化を学力で計測してみることとして、学力が上がると社会はどう変化するか?

シンプルに見えて、なかなか複雑。

計測される学力って、読み書き?計算力?

それらが選ばれる根拠は?また、実際は誰が決めてる?

もう一方の変数(社会)にしたって、何で計測する?蓄積された資産の量?生産性?

今ではもう分かり切ったことだけど、”プロセス分析”は、個人と社会の関係では、個人から社会へ、社会から個人へ、双方向のフィードバック・プロセスがループしていて、相互にフィードバックの度合いを強め合ったり、弱め合ったりしていることなどを明らかにしてきている。

やっぱり”プロセス分析”も役には立つのである。

とはいえ立場が強いとはいえない。

結局、様々な計算方法の洗練を図って、ダブル・フィードバック・ループ上をデータがどう動くかを示せる方がインパクトがある。

しかし、私自身はあまり計算に興味がない。

主に計算が弱いからなんだけど。

学びは計算だけじゃないし、計算ってかえって学びを学びじゃなくすんじゃないか?という疑いを持っている。

「誰かの役に立てるように」勉強するとする。

先述の来賓の方のお話には「役に立つ」の中に、「お友だち(他者)に対する思いやり」も含まれていた。いい話だ。

ってことは、勉強って、”プロセス”なんじゃないか?と。大事なのは。

足し算引き算ができるようになることと、思いやりは関係あるか?学校という環境なら、先生やお友だちとそれを学ぶということ自体に意味があるのでは???

計算は補助にはなるかもしれないけれど、「信用できる計算方法が編み出されるまでは何も判断しない」とかになると、社会にも個人にも悪影響が及ぶように思われる。

「思いやり」とかは、それを発動させる何らかの刺激がある。

何かを感じるから思いやろうとする。

なんとなく生きていたって社会なるものは形成され維持されると言ったとおり、「なんとなく」ってバカにできない。

「なんとなく」は明らかに曖昧過ぎるから、その中身を明かしたいと思うのも自然なことだろう。

それでも、”明かし方”って考えた方がいいと思う。

「変数見つけて計算」だけではないだろうと。

”プロセス分析”が役に立つというのも、別に変数見つけるためだけではないはず。

そもそもプロセスだから。

ちょん切っちゃったらプロセスではなくなってしまう。

「なんとなく」が事実なんだから、「なんとなく」は「なんとなく」として取り扱わなきゃ。

学びが役に立つというのも、学びそのものの中にあるんじゃあないだろうか。

何かを学べば学んでいない時よりは注意力は増すだろうし、周囲の環境や人々の様子の変化にだって気付きやすくなるかもしれない。

それでも社会のようなおっきな何かを成している個人個人のレベルでは「なんとなく」だろう。

勉強して注意力が上がって個々人の”思いやりレベル”が上がる、、、なんてことが常にどの個人にも起こる保証はないし、そうであってもそれなりに社会なるものは成立しつづける。

学びの意義が、学ぶという行為自体にある、という考え方も、あくまでもプロセスのことを話している、という範囲を逸脱してしまうと、結局現代を席巻しているVarianceの考え方を超えることはできないだろう。

計算しやすい変数を見つけ、分散分析にかけ、その結果を根拠にそれらしい予言をしようとする。

って、、、。

現代どころか、、、古代から進歩ないやん。。。

という話はともかく。

もしも”思いやり”なるものをプロセスとしてとらえるならば、大事なことは心理面や意識のお話に入り込まないこと。

”思いやり”とはとりあえずスペースの領域にとどめておいた方がよいのではないか?

などということを考えている。

私たちの日々の生活ってあくまでも「なんとなく」だからさ。

あんまり厳しく律しようとしたって無理。

でも、密集して生活するなら、お互いの窮屈感とか、十分なスペースとかは直観的にでも感じさせられるだろうし、、、。

そういった「なんとなく」の中でも、「これは!」と思われるものを頼りに、それらをあくまでも「なんとなく」なもの(プロセス)として分析し続けたいなと考えております。

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