芸術は歪みから、裂け目から
金継ぎ、という技術がある。
欠けたり、割れたりしてしまった器の、割れたところをつなぎ直し、美しい模様に変えて蘇らせる。
日本古来のこのわざは、茶道の精神とともに長く受け継がれてきたそうだ。
こわれたものを継ぎ、そのかたちをありのままに受け入れる。
そんなふうに、瑕疵を継いで芸術を生み出してきた先人たちのことを思う。
ここ一年くらいのゆるいブームなのだが、なんとなく、ゴッホが好きだ。
星と月の絵を追求してひたすら描き続けた作品の軌跡、テオへの手紙、アブサン酒を飲んで自分の耳を切り落としたエピソード……、断片的でミーハーな知識しかないけれど、作品もめちゃくちゃたくさん知っている訳でもないのだけれど。妙に心が惹かれてしまう。
最も心にくるのは、「死ぬまで売れなかった」というところかもしれない。
……否、ちがう。「売れなくても、死ぬまで、描き続けた」ことだ。
その筆致や色使いについて、専門的なことはなにも言えない。なにしろ私の美術の成績はずつと2か3、絵画展にも興味があったわけでもなく西洋史にも詳しくない。音楽ですら、西洋音楽史だけはギリギリの可で単位を頂戴した。
だから、流派だとか、誰の眷属であるとか、時代とか派とかはからきしわからないし、わからないことをこの記事で繕うために調べたところで、今日伝えたいことの助けになるとも思えない。
専門的なことはなにもいえない、けれど、ゴッホの自画像と目が合うたび、このひとは自分自身のなかに、自分の顔を造り上げてきた人生のなかに、なにを見てこれを描いたのだろう、と思う。
そうして、これだけの時を経てこの私に訴えかけてくる、この眼が伝えようとしていることは何なのか。
何を思って生きたのか。生きている間に、自分という存在をどう捉え、どう意味づけて筆をとりつづけたのか。
もうひとりの画家の話をする。これはさらに聞きかじりでしかなく、知識が間違っている可能性も否めない。ただ、その絵を何枚か見せられたことがあった。子どもながらに、その白い壁の白さに、いいようのないものを感じたのも事実だった。
ユトリロという、白い壁を描き続けた画家は、精神を病んだ人だったのよ。そう聞いた。
思えば、人の心を打つのは人の心の欠けた部分から生まれたものなのかもしれない。
完全なるものは尊ばれる。完全なる美。そのいっぽうで、人ゆえのいびつさ、偏り、どうしようもなく堕落した姿や、悪意、恨み、怒り、虚無。そして、虚無の中で足掻くひとすじの真っ赤な命の軌跡が、ひとの何かに呼応して共鳴する。
その不可解な作用は「原罪」のなせるわざのひとつなのかもしれない、とさえ思う。
そして、ゴッホの筆致をみて思う、私はそれまで、いびつなものをいびつなまま出すのはみっともなく、聴く人をいたたまれなくさせるどうしようもないことだと感じていたけれど、それこそが生きざまではないのか、そのように歌うこと、書くこと、遺すことこそが「道」なのではないかと。
その啓示はまぎれもなく、私にとっての「光」だ。
人間の心は本来、左右非対称で、いびつで、私たちは壊れて欠けた場所を金色(こんじき)に輝かせようとしてもがいているだけなのかもしれない。
不完全を美しいといえる日がくるならば、そこにひとつの答えが示されるのだろうか。
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