自分軸を、しかも、ひとつじゃなく。
滅法疑り深い性分なので、大体の関係性には「if」の予防線を張り安全ネットをめぐらし機動隊を配備している。
エピソードとしては惜しげもなくペラペラと話すが、私は私の「いま」を掴ませることを相手に開示することはほとんどないといってよい。
話すのは基本的には、過去のこと。過去になった物語についてだ。
イニシアチブはどこまでも自分で取りたいという思いが強いので、大抵のことにはなにかしらのクッションを挟んでいる、と思う。
心理的なクッション、情報としてのクッション。
それはたとえば、ものごとを尋ねるときは一般化してからアドバイスを仰ぐようにしていたり、
どんな反応があっても大丈夫なように心構えをしたうえだったりする。そうすることで、生の反応をそのまま返さずに済む。
痛手を負いたくない、うろたえるところを見せたくない
バレーボールと同じで、攻め込まれるのはキツい球を受けたときではなく、受けきれないことで甘い球を返してしまった、その次のターンなのだ。
攻め込まれる、という見方はあまりに、敵視しすぎかもしれない。もちろんこれはもっとも遠い、あらゆる相手を想定した時の防衛である。単に、私の人付き合いの基準が「もっとも危険な場合を想定している」というだけのことなので、つねにこれを適用しているわけでは、もちろん、ない。
ただし、共通していることはあって、
それはうろたえるところを見せたくないというところなのだと思う。
ネット時代は24時間体制で外界と接触しているのだよ
ところで、なにも長々と自分語りをしたくてこれを書いているのではなかった。
つながるのが容易い時代に、ほんの少しのつながりのゆらぎにも敏感にならざるを得ない空気があって、そのような時間の流れの中にあって、そうでなかった時代よりもはるかに、自分軸で生きるという自覚が重要になってきているように思う。
油断すると24時間常に外界に晒され、というより、自ら晒し、切り売りし、承認欲求優位の時間が一日の大部分を占めるのがあたりまえ……。
そんな、ある種の異常事態が続いていると感じる。
その一方で、異常というのはきっとナンセンスなのだろうということも理解はしている。
現代は一億総劇場型、一億総有名人時代。
ネットのない時代から、テレビというものに人々が魅了され、スターにあこがれ、現実と虚構を混同していた時代もあった。
しかし、それだって東京が外国のように遠くて、行くことはおろか知ることすらままならなかったような時代と比べたら、じゅうぶんに「異常事態」だったはずだ。
正しさや異常さではなくて、情報の閉塞には閉塞の時代の、自由には自由の時代なりの、途方もない病みがそれぞれにあるはずで、いずれにせよこれは現代の、はっきりとした病理なのだと思う、一億総〇〇時代。
だからこその、自分軸、です。
でもきっと、基本は今も昔も同じなんだよ
情報過多・つながり過多だからこそ、私たちは自分で感じている以上に激しい濁流に揉まれていて、轟音にさえ気づきにくい。耳が慣れてしまっているから。静けさを落ち着かないと感じるほどに、ひとりを寂しいと感じるほどには、つながり至上主義的で、そして、その中で重用されなければならないという焦りの中に身を置いてしまっている。
そうでなくても(かつてのムラ社会であっても)「場」に依存してしまう習性を、ヒトは持っているらしい。
でもこれは、形を変えただけの、同じ現象。
同調圧力を叩く同調圧力とか。
権力をひとくくりに批判するあらたな権力とか。
マニュアルなど捨ててしまえ、というマニュアルとか。
どうやって保とう自分軸
自分軸を持つには、孤独とそこそこ仲良くなり、そしていくつかの場を自分の中に持っておくこと。
その都度、のびのびできると感じる場を選びながら、その感覚を場の方に持ち込んでいくこと。
場とか、特定の誰かとか、空気感にできるだけ依存しないこと、なのだけど、
自力でそれを保つのは難しいから、それを保っていきやすい環境を作っておくことが大事かなと思う。
私にとってはもちろん、noteもそういう場所のひとつです。
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