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美術史第82章『隋唐美術-中国美術9-』


楊堅

 華北を統一し仏教美術が繁栄した北魏は6世紀半ばに東魏と西魏に分裂、東魏の実権を握っていた高氏が皇帝になり北斉、西魏でも宇文氏が皇帝になる北周が成立、6世紀後期には北周が北斉を滅ぼし、華北を再統一、その後、新しい北周の皇帝が政務を放棄した事で、大臣の楊堅が皇帝に即位、「隋」が誕生した。

 隋は侵略してきた北方の大国、突厥を崩壊させ、南朝の陳も勢力を削り52万人の軍勢で首都建康を陥落させ、約300年ぶりに中華統一を果たし、律令の整備や科挙、三省六部の導入など中世・近代中国の基礎となる仕組みが作られた。

煬帝
李淵

 しかし、7世紀初頭、二代目皇帝の煬帝の時代に失策を重ねた結果、反乱が全土で一斉に発生、見限った家臣により煬帝は死亡し、李淵が帝位を奪って「唐」が誕生した。

李世民

 唐王朝は律令制や科挙制度による役人の登用、三省六部による政府運営など基本的に隋王朝の制度を引き継ぎ、王子の李世民により中華統一がなされ、李世民が皇帝になって以降は租庸調が整備された他、北方やチベットを支配下に入れた。

世界で最も著名な詩人の一人 李白
世界的に著名な詩人 杜甫

 また、物が安く非常に治安の良い時代となり、世界で最も大きな都市となった首都長安にはシルクロードで繋がれたアッバース朝やビザンツ帝国からイスラム教やネストリウス派キリスト教、マニ教などが伝来、また、文学が特に大きく繁栄した。

玄奘

 美術では李淵の宮廷で貴族の画家である閻立本が活躍し、仏教美術では玄奘によってインドから持ち込まれたインドの経典や仏画、彫刻、王玄策ら使節団が持ち込んだ仏教図像などは中国の仏教美術に大きな影響を与えた。

莫高窟の壁画
莫高窟の唐時代の刺繍

 長安や洛陽では数多くの寺院が建設され、その壁面には夥しい数の仏教壁画が描かれており、北朝の流れを汲む曹流と南朝の流れを汲む張流や、中央アジア出身の尉遅乙僧などが存在したとされるが、唐時代の寺院の絵画はほぼ現存せず、北魏の時代から作られた「莫高窟」では乾燥地帯の敦煌にあることにより保存状態の良い壁画や大量の仏画が見つかっている。

龍門石窟の大仏

 また、彫刻の分野では各地に石窟寺院のレリーフが残り、特に北魏から続く「龍門石窟」では17mを超える奉先寺の本尊や当時のインドの影響が見られる大仏が作られた。

武則天
李隆基

 7世紀末期、皇帝の皇后である武則天が政権を奪い皇帝に即位、周を名乗り始め、十数年にわたる安定期となるが、8世紀初頭には宰相に廃位され、唐王朝が復活、新たに皇帝となった李隆基もとい玄宗は国の安定を目指すが、周辺諸民族の統治が難しく、統治に用いるために強力な軍事力を持たせる「節度使」という制度が誕生した。

韓幹の作品
張萱の作品

 玄宗の宮廷では芸術家が保護され馬の絵で知られる韓幹、人物画で知られる張萱や周昉などが活躍した。

呉道玄の八十七神仙図巻

 非現実的な描写を捨て山水画に大きな変革をもたらしたとされる呉道玄も宮廷画家で、その力強い早書きの技法は寺院壁画でも主流となった。

李思訓の江帆楼閣図
王維の伏生授経図

 呉道玄の他にも細密な線と強い色彩を用いた「北宗画」を生み出した李思訓、詩人として世界的に有名で純粋で静寂な自然を描き「南宗画」を生み出した王維なども後世に大きな影響を与えた。

唐三彩の馬
三彩の壺
駱駝商人の焼き物
海獣葡萄鏡

 絵画や彫刻などが発展した唐王朝だったが、その工芸品は非常に国際色豊かで、陝西省の何家村で発見された大量の大甕や金銀の器などの遺物はペルシア美術にて後述する(*先に公開しています)サーサーン朝ペルシアの時代の美術の影響を受けており、墓に埋葬される器には「三彩」と呼ばれる鉛を含んだ透明な鉛釉に酸化銅を入れた緑色、酸化鉄を加えた褐色、コバルトを入れた藍色の三色を組み合わせた陶器や、駱駝を引く中東の商人らしき人や黒人の像、道鏡の模様でも宝相華や鸚鵡、海獣葡萄鏡などが誕生した。

安禄山

 しかし、8世紀中頃、軍事力を与えられた存在である節度史の安禄山が「安史の乱」を起こし、これは回鶻の援助などでどうにか鎮圧したものの、その後には国土の荒廃や軍事・行政全般を司る藩鎮の登場で土地の私有化などが起こった事で律令制は崩壊、美術も衰退した。

黄巣
李克用

 9世紀末期には宦官の台頭など政治腐敗と旱魃、蝗害で反乱が頻発し、黄巣を指導者とした大反乱が発生すると、首都の長安が占拠され、その後、黄巣の勢力は李克用に滅ぼされ、その後は多くの各地で軍を持っていた使節度の軍閥同士の争いとなり、10世紀初頭には朱全忠により長安に居た唐王家が滅ぼされ、中国は名実共に分裂、「五代十国時代」が開始した。

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