美術史第83章『五代十国・北宋・遼美術-中国美術10-』
五胡十六国時代には華北から中原では後梁、後唐、後晋、後漢、後周の五代と呼ばれる国々、華南や華中では前蜀、後蜀、唐、呉越、閩、楚、南漢、北漢などの十国と呼ばれる国々が割拠、五代十国時代は中心地である中原地方での戦乱から唐の文化人の多くが地方で権力を握った諸侯の元に逃れて活躍した時代であった。
この時代には画院が作られていた南唐王朝でその後の筆画の標準となる優雅な作風を築き上げた巨匠画家である董源とその弟子である巨然などの山水画家が活躍した。
他にも南唐の画院では周文矩や顧閎中などの人物画家、徐煕などの花鳥画家も活躍している。
他の国で活動した有名な画家としては前蜀・後蜀王朝で活動していた花鳥画を得意とする黄筌などがおり、黄筌の「黄氏体」と徐熙の「徐氏体」の流派はその後の花鳥画の二大流派となった。
また、後梁では荊浩が唐の巨匠呉道玄の筆線と江南の水墨画技法を統合してその後の時代に栄える「華北山」の技法の始祖となっている。
また、中国北東部では唐王朝の支配が終わった北方異民族の契丹族が遼王朝を建国して華北、モンゴル高原、渤海を征服し巨大国家を作り上げており、ここでは中国仏教が繁栄し、高さ23mを誇る中国最古の木造建築「独楽寺観音閣」や、多くの塑像が安置される「上華厳寺」などが作られた。
また、北魏の時代から作られてきた仏教石窟である莫高窟のある敦煌あたりは「帰義軍」という勢力が支配し曹家による仏教美術活動なども行われたが11世紀中頃にはタングート族(現チャン族)による西夏王国に征服された。
一方、中国の大部分は後周の武将、趙匡胤が幼帝が即位し危機となった国を守るために部下による強制で皇帝に即位し「宋」王朝が誕生、次々と諸国家を征服していき呉越以外の全てを統一、趙匡胤は軍は武官ではなく科挙で選ばれた行政を行う文官が取り持つとし、多くの国家機関を皇帝の直属において中央集権化を進めた。
これ以降、中国は貴族ではなく知識のある士大夫が収める事となり、大きな経済発展を遂げた事で文化において木版による印刷技術と書籍の普及が起こり、思想面でも愛や社会について考えた朱熹を始祖とした新しい儒教「朱子学」の誕生など社会の変革が大きかった。
宋代の絵画には宮廷の画院で行われる細密さと形式を重んじる写実様式と、文人による自由に水墨で絵を描く「水墨画」の二種類があった。
11世紀後期、著名な文学者の王安石などの左翼と著名な歴史家の司馬光などの右翼が政治闘争を繰り広げた事で国が混乱し12世紀初頭に即位した皇帝の徽宗は両派閥の融和を試みたが結局は左翼化した。
その一方で徽宗は自ら画院で創作や指導を行い宋王朝の画院は発展を見せ、宋代の画院では山水画家の巨匠でダイナミックな「李郭派」の始祖となった郭熙、関同、そして巨匠山水画家の一人である范寛、早世の宮廷画家王希孟、南唐から来た董源や巨然などが活躍した。
花鳥画の分野でも先述した色彩を用い輪郭と暈染で描くという「黄氏体」と暈染で描く「徐氏体」の二大流派があり、崔白などが花鳥画の分野で著名であった。
画院以外では郭熙の画風の源流となった巨匠画家の李成、文学者や書画専門家として著名な米芾、文人画の巨匠である文同、政治家、文学者、書家、画家などとして世界的に知られる蘇軾、李公麟なども活躍し、中国美術において重要な時代であったと言える。
また、彫刻の分野ではより繊細で写実的な木彫りなどが作られ、陶芸の分野では河北省の「定窯」で白磁、浙江省の「越窯」や河南省の「汝窯」と「鈞窯」で青磁が主に生産された。
徽宗は過激な弾圧や芸術のための出費とそれを補うための増税を行うといった有様で、これにより反乱が頻発、一方、華北を支配し仏教が繁栄した遼王朝では阿骨打という人物により女真族という北方民族が結集して「金」王朝を建国し勢力を拡大した。
徽宗は金と同盟して遼を挟撃、遼は瓦解するがその残存軍が宋を攻撃、これを金が助けるが、宋は金に歯向かい金は宋に侵攻、無理な条約を押しつけ、それに反抗しようとした宋は首都である開封を陥落させられ皇帝が捕らえられ戻らなかった。
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