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【感想】ケムリクサ、何と素晴らしい。

「ケムリクサ」を見て、久々に「いいものを見せてもらった」と感じた。3つほどそう思った理由があるので、それぞれ文面にしておこう。私はアニメ作品に対して基本的に見たままを馬鹿正直に受け入れるので、作品外であれこれ考えるようなことは滅多になく、何かしらひっかかって考察してみようと思わせてくれた稀有な作品は2010年代では以下のものだけだった。

2013年:「ゆゆ式
2017年:「小林さんちのメイドラゴン」「メイドインアビス
2019年:「ケムリクサ」

ちなみに、ここから書くのは私の勝手な見方(偏見)であって、これらを押し付ける気は全くなく、飽くまで一個人の感想に過ぎない。論理的な批判記事があれば、気づかなかったことにも気づけるのでそれらと併せて巨視的な目線で作品を眺めてみたい気持ちもある。ネタバレOKで、興味のある方はこの先までどうぞ。

1.独特の舞台設定

2019年現在、作られているアニメは現実や既存のゲームを投影した世界を舞台にした作品の割合が多くなってきている印象がある。その理由は、そのまま流用することができるうえ、視聴者も感覚的・経験的に理解できる手軽さがあるからだろう。しかし、「ケムリクサ」のどんよりとした廃墟のような世界はその主流とはまるっきり違っていた。今まで見た作品の中での類例がなく、最初からどう捉えていいのかずっと分からなかった。

物語の折り返しくらい(7話)まで来た頃、「あー・・・ゆゆゆ(結城友奈は勇者である)の神樹様っぽいな」と察するまでは、ずっと雲を掴まされているような気分だった。また、序盤でのわかばの執拗な絡みに対しては声がヤケに大きくて話から浮いていてうざったくも感じてはいた。でも不思議なことに、回が進んでいくとそれらは段々と心地良いとさえ感じるようになっていった。

そして、最後まで飽き性の自分が飽きを感じることなく、集中力を切らすことも無かったのは本当に驚異的だ。まばたきする時間も惜しいと思わされた。一話一話の終わり方、情報を出すさじ加減、OP/EDも「ケムリクサ」の不思議な世界を引き立てる曲調は作品全体の完成度を高めるうえで効果的だった。EDの歌詞を改めて見直したときにそのエモみで頭が炸裂してしまったのは言うまでもない。

私が作品を見るときに重要視しているポイントの一つは、(作品のジャンルにもよるが)舞台設定、いわゆる世界観の作り込みの度合いだ。視聴する時に集中力・緊張感を切らせない進行になっていたり、作中で重要ではないところにまでスタッフの熱量が行き届いていることが感じられればとても嬉しくなる。答えはもちろんイエスだ。

そういう風に作品を見るようになったのは、階層ごとの原生生物やその生態、過去の遺物を「これでもかっ!」と言わんばかりに丁寧に描写している「メイドインアビス」を見てからだろうか。その土地での暮らしや動力源、機械、文明などの整合性が取れていないとどうしても違和感を覚えるし、作品自体に嘘臭さが漂ってその世界への没入から離れてしまう原因にもなる。その芽を一つ一つ潰していくには、地道に世界観の練度を高めていく以外に方法はなく、ひたすらに面倒くさい。(私のまだ見たことがなかった)世界観創りにチャレンジした「ケムリクサ」には万雷の拍手を贈りたい。

余談ではあるが、少し前まで私は二次創作でショートショートを書いていたので、舞台設定がいかに難しいことなのかを思い知った。既存作品(一次創作)の舞台やキャラクターを流用すれば、頭の中でキャラクター同士を喋らせるだけで誰でも思い通りの二次創作をインスタントに作り出せる。でも、舞台とキャラクターを一からすべて自分で設定するとなったとき、私には全く手も足も出なかった。そういう背景があるので、毎度作品を見るときには「この世界はどうなっているのか?」というところをとても楽しみにしている。

2.「この世界は残酷だ、でも美しい」という描写

非日常系の作品は、基本的に主人公らを不幸に突き落とすところから始まり、最終的に精神浄化(カタルシス)される流れになっている。敵として相対するのは言葉が通じるキャラクターと、言葉の通じない人外/または大自然に大別される。前者は主人公が敵をバッタバッタと倒し続ける気分爽快なストーリーなのだが、そればかりが続く単調さに偏りやすく、見る前からある程度主人公が勝つと分かっているのでそれほどワクワクすることがない。一方で、後者は敵自体の動きも結末も全く読めない(勝敗以外の要素がある)ので、個人的にはこちらの方が面白いと思っている。「ケムリクサ」は、どちらかと言えば後者のタイプだ。

暗い道中に敵に襲われ、消耗していく姿を見続けていると、次第に気分が重くなったり、絶望へと追いやられていく。だから、その世界での希望となるものが必要となる。「ケムリクサ」におけてはが大きな役割を担った。第一話の冒頭と中盤、そして最終話で探していた水のもとへとたどり着く。

素晴らしかったのは物語のラスト80秒だ。表向きは王道とも言えるおふたりさんめでたしめでたしエンドになっているものの、私はここにりりの贖罪を重ねずにはいられない(EDラストでぼんやりと映るシルエットが第11話との対比になっていて粋な演出だった)。

良かれと思ってやったことで、りりはワカバを失うという残酷な結果を招いてしまった。りりは自らを大人の体に再構成してワカバの防御壁を越えるべく、自分で生み出した赤い木に追われるケムリクサになるという大博打に打って出る。なぜなら、ワカバに会って助けることがりりのしたいことだったから。でも、自身が消滅する直前にワカバが木の苗床になっていることを目の当たりにしてしまう(が、ミドリの木に同化したことを見た目で勘違いしたのかもしれない)。全ての目的を失い、計り知れない絶望に打ちのめされながら、りりはダイダイの葉に「好きにいきて」とケムリクサに向けて短く書き記して霧散する――。

しかし、この行いは徒花として儚く散ることはなく、ラストで感動の実を結ぶ。りりが絶望しながら去っていった世界には、今こんなにも美しい景色を2つ同時に存在させている。その1つが大自然の美しさだ。作中で、明るい光が水を輝かせている表現は唯一ここだけであり、湖がこの世界を象徴するものとして美しく描写されている。そしてもう1つは言うまでもなく、ワカバとりり(実際には、わかばとりん)2人という時を超えての邂逅だ。一視聴者としては思わずりりにこのことを伝えてあげたい気持ちに駆られるわけだが、それを物語の余白の美として想像にとどめておけば、これほど素晴らしい余韻はないだろう。

・・・で、あの後どうなったのかな?( 'ω' )

3.個人的な趣向ーエモみ重視ー

「ケムリクサ」は深夜アニメでありながら、エロ描写を断っていることを個人的に評価したい。この手法は視聴者を引き留めておく/飽きさせない材料としては有効だし、一部の視聴者が求めているのも確かだ。でもそれは美味しい猛毒のようなもので、その世界観への没入から現実へと引き戻されるから作品としての一連の流れが自分の中でこんがらがってしまう。そういう意味では、エロ描写は出すタイミングとさじ加減が難しく、安易に手を出して欲しくないと考えている。

このような直接的な表現とは違って、私はキャラクターが言いたいことを飲み込んだり、一人で苦悩したり、独白するような表現の方が遥かに強烈に精神的に訴えられると思っている。こういうエモみで心をタコ殴りにしてくれる(琴線に触れる)描写を取り入れた作品の方が私は好きなのだ。

4.よく分からないところ

その時代の地球の文化財を保存する空飛ぶ舟上の街の建造中だったわかばが、りりの事故以来、第一話の水場落下に至るまでの空白時間がぽっかり空いていて未だによく分からない。りりのように一旦死んで転写されたというなら納得がいくかもしれない。赤い木の存在が2つの時間軸を束ねているので、世界はつながっていると考えるのが自然だろうか。

あとは、めちゃくちゃ強いお姉ちゃんズがどうしていないことになっていたのか、それがよく分からない(    'ω'  ; )


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