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山頭火に遊ぶーリフレイン/ 安か安か寒か寒か雪雪

▢ 詩のリフレイン

文学においてリフレインは詩の代表的な技法である。一般的には、ある言葉やフレーズを繰り返すことで、強調したりリズムをつけたりする表現法と説明されている。まあ、それはそうだが実際の作品ではそれだけにとどまるものではない。詩人たちはこれまで言語限界の突破とその拡張を様々に企んできた。だから、リフレインがそうなるのはおかしくない話だ。そのことを2つの詩で確認してみよう。

この詩は「私は不思議でたまらない」というフレーズが各連の冒頭で繰り返されている。しかしもっとよく観るなら、倒置形からできている連も4回繰り返されている。つまり、フレーズのリフレインであると同時に連のリフレインにもなっているのである。

また、論理は具象、具象、具象そして抽象というふうに帰納法になっているが、表現は末連も他の3連と同じ形が繰り返されている。このことによって、「あたりまえ」の現象が実は「不思議」でとても興味深いことなのだという詩人の思念が、具体事例と一体となって音楽のように読み手の心に入ってくる。シンプルにみえるが、高度なリフレインの技法が用いられている詩である。

リフレインと言えば次の詩がよく例にあげられる。


ひらがなの「いちめんのなのはな」を繰り返すことで、春の穏やかな菜の花畑の風景が浮かび上がってくる。そして、一行一行が菜の花のように見える錯覚さえ起こる。同一フレーズの行が並ぶことで、言葉がなぜか映像化し、ぼくにはその文字の並びが壁に掛けられたタペストリーのように見える。リフレインの可能性を探る実験詩だと思う。

このようにリフレインは、詩の領域では可能性に満ちており、いろいろと試してみたくなる技法である。しかし、短詩の形で使いこなすのは、字数制限の関係上、かなり難しい。しかし、不可能ではない。

▢ 短歌のリフレイン

まず、短歌の例で3首。

ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり
                              永井陽子
恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死            穂村弘
えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力をください  笹井宏之

この3人の歌人は、なにか冒険者たちという感じがする。どれも崖っぷちの表現である。鑑賞文を書きたくなるけど、こわいのでやめて、俳句へと逃げ込むことにする。

▢ 俳句(定型)のリフレイン

西国の畦曼珠沙華曼珠沙華      森澄雄
きんかんの苗木きんかん十ばかり   高野素十

蜂谷一人さんがリフレインの秀句として紹介されていた2句である。

森澄雄の句は山村暮鳥の詩と同じ趣向である。高野素十の句は、できるだけ視覚に忠実であろうとし、その結果、リフレインになった感じがする。もちろん、俳句におけるリフレインの使用は、形式を守る限り、短歌よりも難しい。現に森の句は定型ではない。リフレインを使った場合は、定型である素十の句がむしろ例外なのである。

(上記の森澄雄の句について「としべえ@ぷち作家」さんより〈西国の/畦曼珠沙華/曼珠沙華〉となり、定型ではないでしょうかとの指摘がありました。確かに定型でした。森先生、並びに読者の皆様、<(_ _)>。それから「としべえ」さん、ご指摘ありがとうございました。自分の戒めのために、本文はそのままにしておきます)


▢ 自由律俳句のリフレイン(荻原井泉水)

俳句におけるリフレインは、よっぽどのひらめきと技量が必要で、基本的には御法度である。その点からすると、自由律は融通が利くのでリフレインはかなり使いやすくなる。山頭火に入る前に、その師匠である荻原井泉水のリフレイン俳句を見てみよう。

  たんぽぽたんぽぽ 砂浜に春が 目を開く

「たんぽぽ」という心地よい響きの語を重ねて弾みを持たせ、同時にそれが複数咲いていることを示し、砂浜の春の到来を視覚化している。さらに「春が目を開く」という擬人化はもはや俳句というより、詩の表現である。

  咲きいづるや 桜さくらと 咲きつらなり

これは、感慨がそのまま情景へとつながっている句である。「咲き」と「桜(さくら)」のリフレインをセットにして、遠くまで続いている桜の風景を表している。また、「さくら」には「咲く」が含まれているため、リフレインも重層的で、それが咲き重なる桜のイメージをも喚起している。

  みどりゆらゆらゆらめきて動く暁 

「みどり」とはなんだろう。暁の頃の光線か。または葉の色か。よくわからないが「ゆれている」のはよく分かる。「ゆらゆら」は揺れている状態だから「ゆらめく」は表現重複で俳句では悪手だが、ひらがなで続く「ゆら」の3回リフレインで揺れている状態を実によく感じることできる。窓外の「暁」の感覚的写生、なのかもしれない。好きな句である。

   われ一口犬一口のパンがおしまい

「一口づつの」とやれば7音。それをこのようにやると、「われ」と「犬」が平等の単体として生活の地平に立ち現れてくる。そして分け合ってなくなる「パン」の実在性も。「おしまい」の軽さが絶品。

▢ 山頭火のリフレイン

こんな面白いことを師匠がやっているのに山頭火がやらないわけがない。事実、山頭火はリフレインの句を多く詠んでいる。今回はそれらの句を6つに分類して、小見出しを付けてみた。われながら統一一貫性に著しく欠けたものになったが、そこは気にせず、山頭火先生のリフレインに酔って頂ければ、ぼくとしては満足である。

【リフレインによる写生】
 
いちりん挿しの椿いちりん
 雪へ雪ふるしづけさにをる
 ぽきりと折れて竹が竹のなか
 かるかやへかるかやのゆれてゐる
 山から山がのぞいて梅雨晴れ
 しみじみ食べる飯ばかりの飯である (「飯ばかりの飯」ー梅干しもない)
 うららかにボタ山がボタ山に
 涸れて涸れきつて石ころごろごろ
 風がほどよく春めいた藪と藪
 日の光ちよろちよろとかげとかげ
 雪もよひ雪にならない工場地帯のけむり
 くづれる家のひそかにくづれるひぐらし
 しぐるるやしぐるる山へ歩み入る

【人為と自然】
 
分け入つても分け入つても青い山
 ぬいてもぬいても草の執着をぬく
 働らいても働らいてもすすきツ穂
 あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ
 あるけば草の実すわれば草の実
 あるけばかつこういそげばかつこう
 歩きつづける彼岸花咲きつづける
 けふは蕗をつみ蕗をたべ
 木の芽草の芽あるきつづける

【当たり前のことを当たり前として】
 
つくつくぼうし鳴いてつくつくぼうし
 柳があつて柳屋といふ涼しい風
 お彼岸のお彼岸花をみほとけに
 旅は笹山の笹のそよぐのも
 窓あけて窓いつぱいの春 (好きな句!)
 吹きぬける秋風の吹きぬけるままに
 落葉ふんで豆腐やさんが来たので豆腐を
 けふの暑さはたばこやにたばこがない
 雪ふる一人一人ゆく
 わたしと生れたことが秋ふかうなるわたし

【掛詞のあそび】
 
雪がふるふる雪見てをれば
 雨ふるふるさとははだしであるく
 いそいでもどるかなかなかなかな(なんだこれ!)
 つくつくぼうしあまりにちかくつくつくぼうし

【事象の連動性】
 
松かぜ松かげ寝ころんで
 若葉のしづくで笠のしづくで
 日かげいつか月かげとなり木のかげ

【酔っぱらって詠んだかも】
 
ほうたるこいこいふるさとにきた
 大橋小橋ほうたるほたる

▢ 安か安か寒か寒か雪雪

最後に1句。

 安か安か寒か寒か雪雪

昭和6年(1931年)1月10日に詠まれた句で、日記によるとその日は熊本市にある金比羅さんの初縁日である。日記には次のように記されている。

 ヤスかヤスかサムかサムか雪雪 (ふれ売一句)

「ふれうり」というのは、行商人のことである。「安か安か」はその行商人の声。そして「寒か寒か」は通行人の声で、どうも買い物どころではないようだ。もちろん、どっちも熊本弁。そして「雪」はどちらにも等しく降りかかる。「雪が積んでゐる、まだ降つてゐる、風がふく、寒く強く。」そんな日の縁日の情景である。寒さと雪と声がどストレートに迫ってくる。この句は山頭火の人気の句である。ぼくも大好きである。

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