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記された「事実」、噛み締める「真実」/連載エッセイ vol.128

※初出:知事認可・岩手県カイロプラクティック協同組合発行、「姿勢ッコくらぶ通信 vol.130(2022年・第3号)」掲載(原文ママ)。

某月某日、私は二戸市にある九戸城跡にいた。
初めての訪問である。
きっかけは、その1週間ほど前、経営者の集まるセミナーで、講演をしたことにあった。

その講演で私は、なぜに『みちのく郷土を姿勢科学の先進地域へ』と思い活動するに至ったかを熱く語り、その中で、中学時代に出会った、恐らく自分の人格形成に多大なる影響を与えたであろう、ある大好きなエピソードを披露した。

時は西暦1051年から1062年、世に言う『前九年の合戦』まで遡る。

これは、当時関東に基盤を築き、東北地方まで影響力を拡大しようとした源氏と、今で言う岩手県に位置する陸奥国の奥六郡を支配する豪族・安倍氏の戦である。

ここで押さえておきたいポイントは、『源氏側に戦を起こす理由が存在した』と言うこと。

当時の陸奥国は、より北方に位置する蝦夷地との交易拠点であり、後の平泉文化に代表される金の産出もある。
そして何より、当時勃興してきた武士にとっては喉から手が出るくらい欲しい良馬の産出地でもあった。

だからこそ安倍氏側は、戦を起こさせまいと帝や朝廷への貢物を絶やさず、その過程で中央の先進的な文化を取り入れていたし、だからこそ源氏側は、都の世論を『安倍氏脅威論』へ懸命に操作し、策略によって強引に小競り合いを起こして、戦の火種を作ったのである。

合戦自体は、源氏側の圧倒的戦局不利な中、今で言う秋田県に位置する出羽国の豪族・清原氏の介入で劇的に流れは反転し、安倍氏は敗れることとなった。

安倍氏頭領・安倍貞任は厨川柵(現盛岡市)で討死、平泉の始祖・藤原清衡の父である経清は打首、そして安倍氏の2番手である宗任は都へと連行された。

そして都での春の日の出来事。
囚われた宗任に対して、ある貴族が梅の花を手に尋ねた。

『これは何か?』

つまり、北の外れの野蛮な無骨者には、雅な文化の象徴である梅など理解する教養など持ち合わせていないのであろうと嘲笑したのである。

しかし宗任は、それに対し即興で歌を詠んで返した。

『わが国の
 梅の花とは
 見たれども
 大宮人は何というらん

(私の故郷における梅の花とお見受けしますが
 都の貴族であるあなたは
 それを何とお呼びになるのでしょう)』……(平家物語・剣巻)。

如何であろう? 

みちのくに脈々と息づく気概と素養を感じはしないだろうか? 

歴史は常に敗れた側に残酷で、勝った側の都合のいいように塗り替えられていく。

せめて地元の人間として、その塗り潰された誇りを胸に、今という時代を生きていきたい……そんな話をしたところ、錚々たる経営者の方々も、このエピソードをご存じなかったようで、興奮気味に大きく頷かれていた。

その様子を見るにつけ、やはり地元の人間として、地元の歴史に眠る『矜持』は理解しておきたいなぁ……と改めて思った次第である。

そしてそんな訳で……九戸城跡の訪問となった。

ご存じない方も多いかもしれないが、この地は、『豊臣秀吉による天下統一完了の場所』であった。
つまり、『九戸政実の乱』の舞台なのである。

実は南部氏、後三年の合戦で前述の清原氏を倒した源義家の弟の末裔である。

現在放映中の大河ドラマでも扱われた『石橋山の戦い』で手柄を上げ、甲斐国南部牧を与えられたことから南部氏を名乗るようになった始祖・光行は、頼朝の平泉征服にも同行し、その褒美に青森県南部町付近を与えられ三戸城を築く。

以後、その6人の息子たちが一戸、四戸、七戸、八戸、九戸などを領地として治め、血族による大きな勢力圏を形成した。

九戸政実は始祖・行光の六男・行連の末裔で、数多くの戦を経験するも1度の負けの記録がないほどの武者。
南部氏の勢力維持拡大に貢献するも、『暗殺説あり』な『お家騒動』の末、第26代当主となった信直との不仲は決定的という状況にあった。

1590年、秀吉は小田原城を制圧し、関東一円を支配下に置く。

それにあたり奥羽諸勢力に参陣を命じ、駆けつけなかったものの領地を没収するという『奥州仕置』を断行。
その際、小田原へ向かった信直は、北奥州の大半を領地として認められる代わりに、税を納める目安となる『検地』を受け入れた。

この太閤検地は、『納得しない者はことごとくなで切りにしてしまえ』と秀吉自身が文に記したように過酷なものであり、領地を奪われた大名の勢力や代々受け継いできた農地を好き勝手される領民の不満は募り、その受け皿となったのが政実であった。

1591年の正月、政実は南部本家に永の暇乞いを告げた。
南部氏へ謀反を起こすためでなく、中央権力の横暴へ対抗するためである。

九戸城は、南部氏のお家騒動を経て、五千人の兵が1年間、楽に籠れるように改修されていた。
そこに秀吉へ不満を抱える勢力が集結した。

そしてその勢いを信直が阻止できるはずもなく、援軍を要請された秀吉は、見せしめとして大軍を派遣。
ここに五千の兵が籠城する九戸城を、六万の大軍が取り囲むという異常な陣容が形成された。

これはこの『奥州再仕置』で天下統一を完了させようという秀吉の強い意図が感じられるものであった。

しかしそこは戦上手の政実、一歩も譲らず、むしろ優位な戦況が続く。
ここで秀吉からの叱責を恐れる豊臣軍は謀略をめぐらす。
それは、九戸氏の菩提寺の和尚を仲介に立て、政実と主だった武将の投降を条件に、それ以外の者の助命を約束する……というものである。

謀略とは知らぬ和尚と、一人でも多くの一族郎党を救おうと和睦に応じた政実。
しかし開門された城内にはすぐさま火が放たれ、女子どもに至るまですべて『なで斬り』されたという。

以上が歴史上、『本家と秀吉に謀反を起こした』と一行で片付けられてしまう『九戸政実の乱』の概要である。

南部本家に徴収された城はその後、『福岡城』と改称され、その本丸には権威の象徴である『石垣』が築かれた。
しかし領民は九戸氏と政実の大義を偲んで、その後も『九戸城』と呼び続けたのだとか……。

現在改修工事中の九戸城跡を散策する。
『事実』は1つである。
この地で政実は敗れた。

しかし、『真実』は解釈の数だけ存在する。
この地に埋もれる『みちのく人としての真実』を噛み締め、これからも歩いて行こう……城跡を後にして、いわて短角牛を噛み締めながら思った夏日の正午であった。


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