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はじめに

 とある経済学者が、
「今の日本人は忍耐がない」
とボヤいていました。すかさず、
「そういう社会を作ったのはあなたの世代ですよね?」
とツッコミたくなりました。

 物事には”因果”があります。はっきり原因が判るものもあれば、なかなか判らないものもありますよね。
 忍耐がないとは、我慢ができないことです。我慢ができない = 我慢する必要がないようにするにはどうするか? 答えはいろんなことを”早く(速く)”するのです。なんでもかんでも欲しいと思った瞬間、やりたいと思った瞬間、すぐに手に入る、すぐにやれる世界であれば我慢は必要ありません。

 しかし、そんな世界で育つと理性を司る脳の前頭葉が発達しづらくなるのです。だから、理性が働かない分、我慢ができないのでもっと早さ(速さ)を求めることになる… そして、もっと理性のない脳になり、もっともっと早さ(速さ)を求める… 以下、無限ループ発動!! こうなることはすぐに判りますね。小学生でも判るレベルの”因果”です。
 忍耐を身につけてほしいなら、早く(速く)することをやめればいいのに、現実にはどんどん早さばかり求める社会にしてきたのです。それを後になって忍耐がないと文句を言われても「知るかよ」で終わりです。悪くなっていった”原因は自分”だったってことですね。

 経済なんて大きなものを考える前に、小学生レベルの因果が判るようになることが先じゃないですかね? って話です。

 ちなみに前頭葉は物事を深く考える場合にも重要な役割を果たしますので、そこが育っていない人は当然、物事を深く考えることはできません。結果、拙速な結論ばかりに目がいき、真因を見逃してしまうことも多々あるでしょう。だから、同じ問題が繰り返し起こるのですよ。

 会社の売上にしても、中長期ではなく短期的な売上ばかり求めてしまうのは、前頭葉が育っていないからかもしれません。ちなみにその脳は石器時代の脳と言えますね。石器時代は”その日だけ”の食糧を獲っていましたから。その後、農耕時代が始まるので、前頭葉が育っていない脳は農耕時代にすら達していない脳なのです。

 短期的な売上 = 石器時代の脳

 さて、繰り返し… 無限ループの罠から逃れる方法はあるのか。因果を断ち切るには外側から『構造』を見てみるといいかもしれません。
 では見ていきましょう。





【因果応報】
善悪の因縁に応じて吉凶禍福の果報を受けること。
善因には富楽などの善果を受け、悪因には貧苦などの悪果を受けること。

Ralph MacDonald - Just The Two Of Us


教育とは良いものである。しかし、いつも忘れてはならない。
知る価値のあるものはすべて、教えられないものだ ということを。

詩人 オスカー・ワイルド


資本主義 ≒ 共産主義

 資本主義… 資本・法律で支配する
 共産主義… 権力・暴力で支配する

 国際ジャーナリストのモーリー・ロバートソンさんがある雑誌で、現代の資本主義は失敗していると言っていました。私は前から、
「資本主義と共産主義って似てるよな〜…」
と、漠然と思っていたところ、ふと、この2つは『構造』が似ていることに気づいたんですね。資本主義はどうしても資本を持っている人に”力”が集まるので、やりようによっては共産主義と同じことができるのですよ。自分だけの独裁国家を作ることができるのです。
 2つの思想は犬猿の仲ですが、人間は”同族嫌悪”をしてしまうことがあるので、もしかしたら似た者同士が故に嫌っているのかもしれません。

 哲学者パウル・ファイヤアーベントが、
「Anything goes !!(なんでもかまわない!!)」
と言ったのは、こういうことだったのでしょう。名称はどうでもよく、『構造』が同じであればあらゆることが同じになってしまうと言いたかったのですよ。私のような素人が言っているだけならまだしも、ファイヤアーベントのような人が何十年も前に言っていたのに、なぜ、聞かなかったのか? その時にちゃんと聞いていれば、解決は難しいにしても、少なくともいろんな対処法を考えられたはずです。

 政府が富んで、国民が貧する。

 これって今の日本ですけど、共産主義の国もこうなりますよね。日本のすぐ近くにそんな国があるのでよく判るでしょう。こうなってしまった場合、どうなるのかが。
 ちなみに社会を上層と下層の2つに分ける、上下の分断を起こす『パレートの法則(80:20の法則)』は、貧富の差を大きくしていくことがあるのです。まぁこれも小学生レベルの因果ですね。自明です。
 以前の記事で、カルト宗教とブラック企業は構造が同じだとも言いましたね。

 このように俯瞰して『構造』を見てみると、いろんなことが判ってきます。解決策も思いつけるかもしれません。

 問題が起こる時は
 ・構造に欠陥がある
 ・育成が足りていない
と、2つの場合があるので、どちらも見ないといけません。日本人はすぐにどちらか一方に”偏る癖”があるので、見極めてバランスをとることが大事です。

 そんな時に役立つのが『基礎』なのです。


型 ∞ 基

 仕事に限らず『型』を習うことがあります。武道にもありますし、議論(弁証法)や、なんなら”お笑い”にもありますね。「型に嵌める」なんて言葉もあります。ただ、私は型を習うときにいつも”違和感”を感じていました。
「な〜んか違うよな〜…」
と、理由は判らないけど違う気がしていたのですが、この前、理学博士の端山好和さんの著書『自然科学の歴史』に、その答えが書いてありました。

化学

 化学には2つの概念があります。
d. 型
q. 基
 この2つです。
 先ず、『基』の概念が確立されたのは、こんな表記はしませんが2つの化合物を比べてみて、
 1. ABC
 2. ABD
となっていたら、共通する”AB”の部分を『基』としました。
『型』の方は、ヴュルツという人が、
 1. アンモニアの水素をメチルに置換 → メチルアミン
 2. アンモニアの水素をエチルに置換 → エチルアミン
と、両者はアンモニアを『型』としていることから、「アンモニア”型”化合物」と呼んだことが始まりです。

 なにやら同じことを”逆”から言っているだけな気もしますが、そこは置いておいて、私の「なんか違う気がする」というのは『基』のことだったのです。主観ですが型は「外側を固める」みたいなイメージになります。しかし、基なら「内側に立てる」みたいなイメージになります。ちょうど、昆虫類の外骨格と哺乳類の内骨格みたいな感じですね。
 d. 型… 外側 - 昆虫類(外骨格)
 q. 基… 内側 - 哺乳類(内骨格)
ってことです。

 言いたいことは「型を教えるだけでは不十分だ」ってことです。型はほとんどが”出来上がっているもの”です。しかし、その型をさらに小さく分割していくと必ず『基』が出てくるはずです。基まで戻すと、今度は新しい組み合わせの型を作れる可能性が出てくるのです。

 型を教えても上手くできないのに、自分で考えてやってみろと言ったら、途端に上手い具合にやってしまう人に出会ったことはありませんか? そういう人は型よりも基の方が合っている人だったのかもしれません。基を知ればあとは自分で勝手にやってしまうのです。だから、型を教えるときには基も教えた方が良い、基の方がいい人がいることを知っておくことが大事です。
 自分で考えて自分で型を作る方が向いている人がいるのですよ。

 現代は「これまでの方法が通用しない」と言われていますので、そんな時は一度『基』まで戻して考えてみたらいいのではないでしょうか。

【抽象】 型と基
         ↓
【具体】    化学

音楽

 音楽のコード進行には型があります。一番使われる型は『II - V - I』です。「ツー・ファイブ・ワン」と読みます。key of C では、
 Dm7 - G7 - Cmaj7
となります。

 コードには”ファンクション(機能)”があり、分類すると、
α. トニック… Cmaj7 Em7 Am7
β. ドミナント… G7 (Bm7(-5))
γ. サブドミナント… Dm7 Fmaj7 
 この3種類ですね。これが『基』です。だからツー・ファイブ・ワンが飽きたな〜と思ったら、同じ分類のコードと変えればいいのです。たとえば、
 ・Fmaj7 - G7 - Cmaj7
 ・Fmaj7 - G7 - Am7
 
・Dm7 - D♭7 - Cmaj7
などですね。これで型が変わりました。『D♭7』だけ基の中にはないコードで、これは『裏コード』と呼ばれるコードです。G7と同じ”トライトーン”を含んでいるので変えることができるのです。Bm7(-5)が扱いがちょっと難しいというかクセが強いので、ドミナントとしてはあんまり使わないですかね〜。マイナー進行で、
 Bm7(-5) - E7 - Am7
とか… まぁ私は、
 Fmaj7 - E7 - Am7
の方が好きですかね。このコード進行はグローヴァー・ワシントンJr の『Just The Two Of Us』で出てきます。かっこいいですよ。ラルフ・マクドナルドのカバーバージョンを最初に載せていますので、記事を読みながらもう聴いているかもしれませんね。

『型』
 Dm7 - G7 - Cmaj7
『基』
 α. トニック… Cmaj7 Em7 Am7
 β. ドミナント… G7 (Bm7(-5))
 
γ. サブドミナント… Dm7 Fmaj7 

 そういえば、マイナースケール(短音階)も型と基がありますね。

『型』
 ・ナチュラルマイナースケール
 ・ハーモニックマイナースケール
 ・メロディックマイナースケール
『基』
 ナチュラルマイナースケール

 ハーモニックとメロディックは基のナチュラルマイナースケールを変形したものですから、化学での”アンモニア型化合物”みたいなイメージですね。ナチュラルマイナースケールは型と基の両者を担っていますので、次に紹介するダンスの”フレズノ”みたいなもんです。
 ハーモニックマイナーの曲といえば、うろ覚えですが葉加瀬太郎さんの情熱大陸とか、嘉門達夫さんの「ちゃらり〜鼻から牛乳〜🎵」とかですかね〜… まぁ記憶が確かじゃないので興味のある人は調べてみてください。

 音楽と化学。
 まったく違うものなのに、同じ概念がありました。

【抽象】  型と基  
     ↙︎ ↘︎
【具体】   化学  音楽

ダンス

 ストリートダンスにはいろんなジャンルがあります。判りやすく言い換えると、
 Breakin' … 床でくるくる
 Lockin' … ジャニーズ
 Popin' … ロボットダンス
ですかね。ダンスにももちろん型と基があります。たとえばPopin' は『フレズノ』と呼ばれる動きが基礎になります。フレズノを基にいろんな動きに派生していくんですね。これはもう見てもらった方が早いので、YouTubeを検索して、

 講師のMADOKAさんによれば、Popin' は他のダンスと比べて『横』の動きが強く出るダンスみたいです。これを応用してフレズノウォークやサックウォークなどの型ができます。

 化学は的な学問ですから、文章で説明した方が判りやすいところがありますが、音楽やダンスみたいな的なものは、聴いたり見たりした方が早いですから、ここではフレズノウォークの動画も載せておきますね。

『型』
 ・フレズノウォーク
 ・サックウォーク
 ・ウォークアウト
『基』
 フレズノ

です。
 音楽とダンスは関連性が高いので判りますが、学問の化学とこれらに”共通項”があることは、あんまり知られていないのではないでしょうか。化学のところで昆虫類と哺乳類(生物)が出てきたのでそれも併せて書くと、

【抽象】     型と基      
     ↙︎  ↙︎ ↘︎  ↘︎
【具体】 化学 生物 音楽 ダンス 

と、なります。具体を2つに分類すると、
 的な学問… 化学、生物
 的な実践… 音楽、ダンス
ですね。
 静と動は一見、相反していて違うもののように見えるのに、実は1つ階層が高いところでは同じものでつながっているのです。

 仕事でもフレズノウォークをしながらやれば、脳の動回路 = 身体を動かす回路を使うことになるので、座ってばかりの日本人にはいいかもしれません。

 そのためと言ってはなんですが、椅子を”ハイチェアー”にして仕事をすると、常に動くことを前提とした働き方になります。ずっと座っているのは腰にもよくないですし、神経が刺激されないので身体も脳も衰えてしまいますからね。
 一応言っておきますけど、ハイチェアーにしたら当然、机もその高さににするんですよ。ハイチェアーなのに机はそのままの高さではないですからね。念のために言っておきます。



昼 ∞ 夜

 昼と夜は、昼 → 夜 → 昼 → 夜 → 昼 → … と、交互に移り変わっていきます。外だと簡単に感じられるのですが、会社の中のライトの下ではちょっと感じにくくなるのです。”影”の位置が外と比べてほとんど変化しないので、まるで時間が止まったかのように感じてしまうこともあるでしょう。

 昼と夜が交互にくる『回転』は、他の物事にも応用の効く動きです。
「そんなことは判っている」
ですか? … ん〜… ホントに判っているのでしょうか。小学生レベルの基礎が抜け落ちているだけで、解決が難しい難問に発展してしまうこともあります。

 身近なもので『回転』の復習をしてみましょう。

後片付け ⇄ 後片付け

 飲食店ではシフトが昼と夜に分かれていることが多いです。それぞれの時間帯で使った物はその時間帯の人が片付ければ問題ないのですが、ここでなんらかの理由で片付けられなかった時のことを考えてみましょう。昼でも夜でもどっちから始めてもいいのですが、たとえば昼の人が片付けを終わらせずに帰ったとします。

 すると、夜の人は昼の片付けのために作業が遅れるのです。だから、夜の片付けを終わらせることができずに帰ってしまうこともあり得ますね。そうすると次の昼の人が、前日の夜の片付けから仕事を始めることになります。当然、作業が遅れるので、昼の片付けができずに夜の人にバトンタッチすることもあるでしょう。

 そんなことがずっと続くと、
「片付けは他の人(次の人)がするものだ」
という考え方がスタッフ全員に浸透していきます。こうなってしまうと厄介で、それぞれになんで片付けないのかと聞くと、
 昼の人… 「夜の人が片付けないからです。」
 夜の人… 「昼の人が片付けないからです。」
と、互いに自分が片付けない”原因”は「相手がしないからだ」と主張し始めるのです。まぁこの時点ですでに小学生レベルなのですが、両者は自分では当然だと思っているんですね。でも、ここで起こっていることは、

 自分が片付けないから、他人も片付けなくて、自分に跳ね返ってきているだけ。

ってことです。
 俯瞰して見ると一発で判るようなことなのに、当事者はそれが見えない、もしくは見えているのに気づかないフリをし始めるのです。小学生です。

 私の少ない経験からですので一般化はできないと思いますが、こういう店は必ず荒れてますね。要は、お互いに”他人のケツを拭いている”ので、連携 = チームプレーがしにくい環境/構造になってしまっているのです。
 ここでどちらか一方を、片付けないことを責めるなんてことをしたらもう最悪です。だって、自分が片付けない、片付けられない”原因”はお互いに相手のせいだと思い込んでいるので、一方だけを責めることはできないはずだからです。

 早いとこ気づかせてあげた方がいいですよ。

いちゃもんマネジメント = いちゃもんクレーム

 『マイクロマネジメント』って言うんですかね、いちいちいちいち細か〜いことを指摘して教育するやり方です。これがお客さんからのいちゃもんのようなクレームの”原因”です。これも跳ね返ってきているだけなんですよ。

 どういうことかと言うと、マイクロマネジメントをされた部下は、細かいことにも気を使うようになります。それはいいのですが、その一方で、お客さんに言われた細かいことにも敏感に反応するようになっていきます。その中で反応はできても他の仕事に気を取られてできないこともあるでしょう。現場を経験している人は
「それはもう、物理的に不可能だな」
ってことが判っているのですが、紙の上(= 数字)ばかり見ていて現場も経験したことがないような人は、それが判らないのです。
 そして、他の仕事に気を取られてできなかった場合、本社にクレームがいきますよね。いちゃもんのようなクレームです。

 では、そのいちゃもんのようなクレームの発生源を遡ってみると、なんとマイクロマネジメントをした自分なんですね〜。自分が部下にしたいちゃもんマネジメントが、いちゃもんクレームとして跳ね返ってきているのです。

 物理的に無理なら、
「それは無理ですね」
と言えば終わるのです。しかし、断れば終わるのに、いちゃもんマネジメントをされているが故に、どんな状況でも答えなきゃいけないと思い込んでいるので、断るという選択肢がないんですよ。その考え方ができないのです。だから、いちゃもんがいちゃもんのまま本社に跳ね返っていくことになるのです。

 会社にいちゃもんをつけているのは自分だった… ってことです。



アインシュタイン的逆説

 この言葉は『コペルニクス的転回』に倣って作った私の造語です。定義は、

【ある事柄を肯定(否定)するための方法・法則・論理を作ったら、
それらが示す解は事柄を否定(肯定)するものであった。】

 要は求めていた答えとは”逆”の答えが出てしまうことです。これは実際にアインシュタインがやったことで、宇宙は膨張も収縮もしない『静止宇宙』を想定して方程式を作ったのに、式から出てくる答えは『膨張宇宙』を示していた… ということから、この言葉を作りました。
 他にも日本の物理学者・朝永振一郎さんが『科学と文明』という講演の中で、
「…逆説的な状況が現在の社会の構造のなかに存在する…」
と述べていますので、アインシュタイン的逆説という言葉は使っていないにしても、社会にはこの概念が根づいていると考えられますね。政府がやる政策を見ていると、国民を救いたいのか苦しめたいのか判らないところがありますから。

 自分で作っといて言うのもなんですけど、コペルニクス的転回は元々、哲学者のカントが最初に使った言葉ですので、同じように哲学で使っても問題ない言葉かもしれません。
 善意を装った贖罪なんかはアインシュタイン的逆説ですかね。他人に親切にするのは善意からではなく、罪を償っているだけ… ってことです。他にも、仕事に限らず”良い人がいなくなってダメな方が残る”とかもですね。

 では、これからさらに発展させていきましょう。



Duality Thinking(双対思考)

 日本人に二元論を教えると、どうしても0か100かという極端な思考になってしまい、二元論ではなく『二極論』になりがちです。2つの違いを端的に表すと、
 a. 二元論… 2つの概念は分断できないので、つながっている
 α. 二極論… 2つの概念は分断されていて、つながっていない
って感じです。a だと議論ができるのですが、α だとまったく議論になりません。これだと物事を改善しようとしても無理ですので、思考の練習として提案するのが、『Duality Thinking(デュアリティ シンキング) - 双対思考』です。

 これは今まで『因果の逆転』と言ってきたものや、先ほどの『アインシュタイン的逆説』などを使った思考法です。たとえば、
 ★因果の逆転
   p. 他人に売れないから、身内に売る
   q. 身内に売るから、他人に売れない
 ★視点の逆転
   b. 言われた通りにしているのに、上手くいかない
   p. 言われた通りにしているから、上手くいかない
 ★アインシュタイン的逆説
   ・正しいことを証明しようとしたら、間違いが証明された
   ・他人のためにしていたら、自分のためにしていた
などですね。
 思考では”逆にして考える”ことは重要ですが、具体的にどうすれば判らないことも多いでしょうから、説明できる範囲でしていきましょう。因果の逆転は散々説明してきましたから飛ばしますね。

『のに』 と 『から』

 先ほどの『視点の逆転』の例をもう一度、
  b. 言われた通りにしているのに、上手くいかない
  p. 言われた通りにしているから、上手くいかない
 前者では『前提』がおかしいのです。この言い方だと、その方法を行えば上手くいくことが最初から決まっているのです。
 【物事の結果が、最初から決まっている】
 こんなことはあり得ません。でも、そう信じて疑わない人はどれだけ上手くいかなくてもやり続けるのです。これが良くない。どんな物事でも結果が先に決まるなんてことはあり得ないので、習った方法で上手くいかないなら、他の方法も考えてみなければなりません。
 「…….〜のに、なんで上手くいかないんだろ…?」
と思った時は、”のに”を”から”に変えて考えてみてください。これにより『視野が広がる』のです。というのも、”のに”の人は1つの方向/可能性しか見ていない状態だからです。視野狭窄なんですね。やるべきことはやっているのだからそれ以外の選択肢が見えなくなっているのですよ。そこを”から”に変えると、ブォン!と、視界が開ける感覚が頭の中に広がることがあります。その感覚が”逆転”なのです。

 【”収束された一点”を見る状態から、翻って、”発散された全点”を見る。】

みたいなイメージです。後ろを振り返るとも言えます。
 他にも、仕事でミスが起きてルールを追加して、またミスが起きてまたルールを追加して… と、ルールがどんどん増えていくことがあります。そんな時に考えてほしいのが、
 b. ルールを増やしたのに、ミスが起きる
 p. ルールを増やしたから、ミスが起きる
と、2つのどちらが現実に起こっていることでしょうか? ってことですね。というのも、人間はルールが増えるほど”自然な動き”ができなくなるからです。いろんなことに制限がかかるので、自分が思うような動きができなくなって、余計なところに力が入ってしまい、ミスにつながるのです。
 この場合は、
 ・構造に欠陥がある のではなく、
 ・育成が足りていない のです。
 ”見極め”が大事ですよ。

 過剰にルールで縛ると”逆効果”になる… ほどほどにするべきですね。

『ために』 と 『せいに』

「あなたのために言っている(やっている)」

 この言葉はよく目にしますね。こう言っても相手は受け止めてくれなかったり、自分が言われても受け入れがたい思いをしたことがあると思います。それは、
「”ために”じゃなくて、”せいに”しているだけですよね?」
ってことです。だから、相手は受け入れてくれないし、自分でも受け入れられないのです。
 d. 相手のために ではなく、
 q. 相手のせいに している。
ってことです。本当に前者の意味であれば良いのですが、現実には後者の意味になってしまうので、相手は拒否したり、自分でも拒絶したりするのですよ。まぁそりゃそうですよね。誰でも”せいに”なんかされたくありませんから。
 後者では相手のせいにしているだけなので、相手のためではなく自分のためってことになります。これが”逆説”です。

 自分と相手が入れ替わっているので、『自他の逆転』とも言えますね。

胡蝶の夢

 中国の荘子が蝶になった夢を見て、目覚めた時、
 p. 自分が、蝶になる夢
 q. 蝶が、自分になる夢
「いったい、どちらが”現実”なのか… ?」といった説話があります。現実の自分が蝶になった夢を見たのか、夢の中の蝶が現実で今の自分は蝶の見ている夢の中にいるのか、ってことです。

 Я. 相手のために、言っているのに、判ってもらえない。
 R. 相手のせいにして、言っているから、判ってもらえない。

 夢を見ているままでは、現実の世界は永遠に見れません。
 ここで大事になっていくるのが『他人の意見』なのですよ。身内でも知り合いでもなく赤の他人の意見が”道標”になり得るのです。一応言っておきますが、身内の意見は聞かなくていいとは言っていませんからね。日本人はすぐに0か100かで考えるので、他人の意見が重要だと聞けば、身内の意見は一切聞かないなんてことをするかもしれないので、一応言っておきます。

 単純に、身内3人に意見をもらったら、他人3人にも意見を聞く。と、できるだけバランスを取って聞けば良いのではないでしょうか。まぁ現実には同じ人数だけ聞くことは難しいと思いますが、少なくともその”姿勢”は大事だと思いますよ。

 当たり前ですけど、夢の世界にいる限り、現実の世界は一歩も進むことはありませんし、もし夢の世界を現実の世界に押し付けていくと、どんどん”退化”していくでしょう。夢を見ることは、過去の記憶を見ている = 時が逆行している… と捉えることもできるからです。

 自分が見ているものは夢か現実か… ですね。



命令依存症候群

 これは心理学的にある言葉ではなく、私が勝手に命名しました。命令に依存する人のことです。人間のめんどくさい特性の1つに、
【規律を守ったり守らせることで、”正しい人間”だと思い込む・思い込ませる】
というものがあります。めんどくさいでしょ? これには2つあって、
 p. 命令する人
 q. 命令される人
と、命令を出す側と受ける側の2つです。
 この症候群になっているのが、昭和世代なのです。

命令する人

 この命令依存は”支配欲”と言い換えてもいいですね。とにかく自分の思い通りにすべてを支配したい、自分を”王様”だと思い込みたいのです。北の将軍様なんかはこれですね。外から見ているとサムいだけなんですけどね。

命令される人

 自己判断ができないので、命令がないと動けない人です。未だ自我が育ちきっていないのですよ。一見、命令がないと動けない人は”弱い”ようなイメージになりますが、この状況で”遊ぶ”人もいますね。本当の自分は隠して命令に従う”フリ”だけしている人です。少し趣は異なりますが、漫画のハンターハンター に出てくるパリストンなんかは”遊ぶ”人ですね。パリストンと同じタイプの人って現実に結構いますよ。

バカの1つ覚え

 昭和時代に命令系統が上手く機能し、戦後の復興から高度経済成長までを支えました。でもそれは目指すべき目標がハッキリと決まっていたからです。明確な目標がある場合は命令はその威力を発揮しますが、そうでないなら命令にこだわる必要はありません。
 それなのに、命令に慣れてしまった日本人は、自分で目標を決めなければならない状況でも”命令待ち”をしているのです。主体性・自発性がないんですね。

 なにより気になるのは、命令というものに依存したままでは昭和と同じことを繰り返すだけになることです。まさに『バカの1つ覚え』です。単細胞生物と言ってもいいでしょう。人間は多細胞生物なんですけどね。

 昭和時代を繰り返して満足するのは、その世代の人だけです。下の世代にただの自己満足を押し付けてはいけません。



メビウスの眼

Classic × Jazz

 仕事を進めていくときには『命令』と『自己判断』の2つを使います。これを
音楽でいうなら、
 命令… クラシック
 自己判断… ジャズ
となります。
 クラシックは”譜面通り”に演奏することが求められますね。演奏者の正確無比な演奏はいつ聴いても驚嘆します。
 反対にジャズでは”即興演奏”が求められます。アドリブと言いますね。その場で瞬間的に弾いた演奏には驚愕します。

 それぞれ音楽へのアプローチの仕方はまったく違うのに、どちらも同じ素晴らしさを持っていることは誰もが知っているでしょう。
 音楽で違いがあるなら、それを聴く人にももちろん違いがあります。命令が
欲しい人もいれば、自己判断で進めたい人もいて当然です。

 命令通りにしてほしい人からすれば、自己判断でやりたい人は悩みの種かもしれませんが、命令を出す時に気にしてほしいことが、
 p. 遅いから、命令を出す
 q. 命令を出すから、遅い
 この2つのうち、どちらが現実に起こっているのか? ってことです。早く動いてほしいから命令を出しているのに、命令を出すこと”そのもの”が、早く動くことを阻害していることがあるのです。

 これも『因果の逆転』『アインシュタイン的逆説』ですね。
 命令を”受け取る人”の性質を見極めてください。

交視点

 これは拙著『ホワイト企業創生論』にも書いたことなのですが、『視点』に関して双方向の見え方があります。これはアメリカの哲学の1つである『プラグマティズム』にも通じています。プラグマティズムは”神の視点”と”行為者の視点”のうち、”行為者の視点”を重視しようとチャールズ・S・パースによって生み出されました。

 私の本では”男性脳”と”女性脳”に分け、視点の違いが思考や役割にどんな変化をもたらすのかを書いています。その部分をちょっと省略して書くと、

男性脳 - 順番・集中・大人・頑固… 一部分を集注的に見る …部下・選手・子供
女性脳 - 同時・散漫・子供・柔軟… 全体像を俯瞰的に見る …上司・監督・大人

拙著『ホワイト企業創生論』

 これの特徴は、視点を中心に両者が入れ替わっていること、メビウスの輪のように交叉(クロス)していることです。男性脳にも女性脳にも”大人”と”子供”の両方がいます。

 視点を変えると、違うものになる が成り立つなら、
 視点を変えても、同じものになる も成り立つ。

 大人と子供、全体と部分、彼方を立てれば此方が立たずです。

 この本は当初、ブラック企業の原因を追及しようとして書いたのですが、どうやら私が解決しようとしていたのは、発達障害・愛着障害・パーソナリティ障害の問題だったようです。というのも、これらの障害に関する書籍に拙著と”まったく同じ記述”が見られたからです。
 特に『愛着障害』に関しては、ほぼほぼ確定でいいんじゃないかなと考えていますね。

 視点の特徴で分類すると、
 b. 一点集注… スペシャリスト… ASD(自閉スペクトラム症)
 p. 全面分散… ジェネラリスト… ADHD(注意欠如・多動性障害)
となります。




Interlude

Borsalino Theme

(便利になればなるほど脳が進化しなくなる。
言った通り、彼方を立てれば此方が立たず… やね。)

”表面”しか見ないからですよ。
日報やデータなどの”まとめられた”ものしか
確認しないでしょう。

(それやといろんなものが”抜け落ちて”しまうのにね。)

『視点』には、
 p. 神の視点
 q. 行為者(人間)の視点
の2つがあります。
現代は”神の視点”を重視しすぎなんですよ。

(この2つは社会では、
上層 - 知 - 静 .p
現場 - 行 - 動 .q
ともできるのや。だから、
一方に偏るとバランスが崩れてしまう。)

そこで『中間』が大事なんですよね。
記事中のここは”Interlude = 間奏”なんで、
メディアの話でもしますかね〜。

メディア = medium(中間)

(メディアの語源はmedium(中間)やからな。
今はジャニーズ問題もあるし、
どうしたらええか判らんなっとるやろ、どうせ。)

テレビで、
「メディアはどうすればいいのでしょうか」
とか言ってましたけど、単純に、
「自分の仕事をしろよ」
としか思いませんでしたね。

(ジャニーズの被害者の会も怪しいみたいやし、
こんな時こそまさにメディアの出番なんやけどな。でも、
ジャニーズに加担してたならどうしようもないわな。
ジャニーズ、被害者の会、メディア。
3つともアウトってすごいけどな。)

被害者の真相や加担に関しては精査するべきですが、
どうしたらいいか判らない時は”基本に返る”ことが鉄則です。
「メディアの役目って何ですか?」ってことですよ。

(だから『中間』やろ。
本来はいろんなことに対して”中立の立場”やのに、
偏ってもうとる。それはメディアとは言わんわな。)

それこそ YouTuber ですね。
だったらそっちでやればいいのに。
メディアの基本は”中立”ですよ。

(だからそこに返ればええのや。
まぁ、返れるなら やけどね)

ペンは剣よりも強し

この言葉は作家エドワード・リットンの歴史劇の中の
「自分のペンによる許可証への署名は、どんな武器にも勝る」
というセリフが由来です。
ここだけ聞くとなんか”権力”っぽいんですよね。

(まさに今のメディアやがな。
権力を振りかざしてどんな犯罪も
覆い隠しとるがな。)

こういうところは”基本に忠実”なんでしょうかね。
この言葉は”権力に抗う”意味で広まったはずなんですけどね。

(権力の『自分に都合の良いことは見逃す』ってのを
糾弾するためにメディアはあったはずやのに、
自分がそうなっとったら救いようがないのや。)

権力に弾圧される弱者の味方が、
弾圧する側に回ってしまうと独裁国家の始まりですね〜。

(組織には『自浄作用』ってのが大事なのよ。
そのためには組織の大多数が”大人”やないとあかん。
でも、大人になれなくする方法がある。)

それが身内で売買とか外部発注とかですね。
人間は楽な方にいけばいくほど”子どものまま”になるのです。
子どもが権力なんて強大なものを扱えると思いますか?

(子どもに飛行機の操縦をさせるようなもんやな。
確実に墜落する。)

テレビで英会話

話は逸れますが、
「テレビで英語の練習ができないかな?」
と考えました。
これは番組を作るわけじゃないんです。

(AIを使って”翻訳機能”をつける。
文章(字幕)のはもうあるみたいやけど、
ここで言うとるのは『会話』やで。)

技術的に相当難しいかもしれませんが、
テレビで話している会話を英語の吹き替えにしていく
ってことです。
テレビの機能にそのボタンが付いているってことですね。

(ものすごい”無茶”を言うとるかもしれんし、
”権利”的にNGなのかもしらんけどね。)

というのも、日本人の英語力が上がらないのは、
『発話(音)』の練習をしないで英文(文章)ばかりしているから
だと思ったからです。

(日常生活で使わんのやから、
学校でやっただけやと根付かんやろ。
テレビの機能に”英語の吹き替え”があれば、
子ども用のアニメでも英語の練習ができることになる。)

これから英語が話せることは必須になっていく
かもしれないので、だったら幼少期からやらせた方が
良いですしね。そしてそれがテレビの”ポチッ”でできると
親にとっても良いと考えます。

(まぁこの話はテレビ局より
メーカーに話すことやけどな。)

英語の母音(20音)は日本語の母音(5音)より遥かに多いので、
幼少期からやらないと”聞き分け”ができないんじゃないか
とも思いますしね。

(母音の聞き分けができんことが、
英語の上達を妨げとるのかもしらんし。)

アンパンマンやドラえもんで英語の練習ができたら
覚えも良いと思いますよ。

(こういうAIの使い方をすれば、
子どもが成長していって
「英語を教えてくれたのはAIだったのか」と
気づくことがある。そしたらその子は”科学”に
興味を持つかもしらんやん。
科学系の子どもを増やしたいんやろ?)

そのテレビが売れるようなことがあれば、
経済を活性化させることにもなりますしね。
 ・英会話の練習(子どものため)
 ・科学への興味(子どものため + 大人のため)
 ・経済の活性化(大人のため + 子どものため)
と、一石三鳥ですね。
ものすごくハードルは高いかもしれませんが。

(まぁ考えてみたらええんやないの。
じゃあそろそろ後半いくで〜)

はい、どうぞ〜。




【Paradigm Shift】
それまで当たり前だと考えられていたものの見方や考え方、
価値観が劇的に変化すること。

Maroon 5 - Girls Like You ft. Cardi B


お笑いに限らず、常識をバカにする奴に、常識を超えたことは絶対にできない。
会社でも、当たり前のことをコツコツやることって、いちばん大事じゃないのかなぁ。

『志村流』 志村けん


『基』のない日本

 現代の日本には『基』がないんやないかと思うで。上っ面の基(?)ばかりで本質の基がすっぽり抜け落ちとる感じがする。上っ面の基ってのは、
 ・誤魔化し
 ・その場しのぎ
 ・短期的な売上
とかやね。
 これらは”詐欺師”が得意なんよな。今の日本は詐欺師にとって天国かもね。その場だけ誤魔化せばええんやから、楽勝やろ。

 『基』で連想するものといえば、家の”基盤”やね。ときどき新しい家を建てとるのを見かけることもあるやん。細かいとこは違うやろけど、どの家も”同じ基盤”に見えるよな。素人が見たらコンクリートで固めとるだけにしか見えんやん。でも、出来上がった家を見てみると全然違う外見をしとる。
 p. 同じ基盤
 q. 違う外見
となる。これって『人間』みたいよね。どんな人間も”骨”はほとんど同じになっとるやろ。でも見た目はまったく違うんや。

 基礎は性質上”簡単”なものやから、それに対して「誰でもできる」って聞くことがあるけど、ときどきそれはどっちの意味で言っとるのか気になることがあるんよな。”どっち”とは、
 1. 基礎
 2. 蔑み
 この2つね。前者なら判るけど後者は判らんな。誰でもできるから基礎になっとるのに、基礎だから蔑んでいいわけやないんやで。会社の問題は、基礎が抜けとるから起こっとるように見えることがあるしな。

 会社みたいな”組織”は外見が大きくなればなるほどなにが『基』なのか判らんなることがあるやん。そんな時は全体像を俯瞰して捉えて、”流れ”を見ることも大事やで。
 『型』を持たないことを”無形”と言ったりする。無形とは『流』のこと。世代によっては北斗の拳に出てくる南斗五車星の1人、”雲のジュウザ”って言えばイメージしやすいかな〜。

 さて、ではでは歴史の振り子、『流』を見ていきましょうかね。



静 ∞ 動

 YouTubeで養老さんが、平安は文書が多くて鎌倉になると比較的少なくなる みたいなことを言うとって、
「歴史の流れってどうなっとるのかな〜?」
と思って、ざっくりと調べてみたけど、

自作

と、なっとるのや。静と動の時代を”振り子”みたいに行ったり来たりしとって、静の時代は海外と関係が薄くなって、動の時代は国内外問わず戦争しとる。
 静… 引き籠る
 動… 暴れ回る
と、”極端”に振れるんよな。令和に『?』をつけとるのは、まだ令和は始まったばかりやからや。でも、このままいくとどうなるかは推察できるやろ。現に海外では戦争(とテロ)が始まっとるんやから。あと、

【静】
平安時代の最後... 源平合戦、壇ノ浦の戦い → 次の時代が到来
江戸時代の最初... 大坂冬の陣、大坂夏の陣 → 前の時代に決着

【動】
前の時代に決着 ← 戊辰戦争(鳥羽•伏見の戦い)...明治時代の最初

となる。
 時代の変わり目に大きな戦争があったんや。第二次世界大戦は昭和にあって、終わった後に年号は変わってないけど、世の中のあらゆることが変わったやろ。近代化という名の”欧米化”が始まった。平成にはインターネットもできたし、これにより引き籠ることはできんなったよな。良くも悪くも外からどんどん情報が入ってくるからな。
 ってことは静の時代をやるわけにはいかんのやけど、がっつり動の時代をやると戦争になってしまうかもしらん。
 「”動く”選択肢はなし、かといって”静か”にするわけにはいかん!」
と、まるでハンターハンター のレイザーのようなセリフを言うことになるんや。

(「捕る」選択肢はなし!! かといって
「逃げる」わけにはいかん!!)
17巻参照

 そこで、静と動を合わせること、知行合一が大事になってくる。

自作

 音楽の『II - V - I』でもええで。
 昭和と平成のちょうど”真ん中”に持ってくればええのや。



蟻と蜘蛛と、蜜蜂と

 本来、日本では職人と呼ばれる人たちに敬意を持つ文化やった。手や身体を使っていろんなものを作る”現場”の人たちよね。だから、知行合一なんかは十八番やったはずやのに、現代はそれができてない気がするのや。んで、欧米ではどうやったのかを見てみると、おもしろいことが判ってきたのや。

ともだ知"n"行 〜古代ギリシャ〜

知と行は、静と動にも分けれるし、学問と実践にも分けれる。古代ギリシャでも似たように分かれとって、
 学問… 自由学芸(liberal arts)… 支配階級
 実践… 機械技術(mechanical arts)… 奴隷階級
と、なっとった。自由学芸の”リベラル・アーツ”は今は人文学のことを指すことが多いけど、この頃はそんな分け方はしてなくて、7科目の総称やったんよな。その7科目は、
 理系… 算術、幾何学、天文学、音楽理論
 文系… 文法学、修辞学、論理学(弁証法)
になる。これらの”総称”としてリベラル・アーツがあって、分けることなく学ぶべきものやったのや。文と理は同格/同位やった。将棋の金将と銀将… やね。

 んで、実践である機械技術は奴隷のやることやと見做されとって、有名な哲学者プラトンは「職人の仕事はやってはいけない」とまで言うとる。それくらい学問と実践には大きな隔たりがあったのや。シェイクスピアの『ヘンリー四世 第二部』にも、機械技術を侮蔑するセリフが出てくるみたいやで。

 日本に当て嵌めると、解体新書の杉田玄白が判りやすいかな〜。実際に人間の死体を解体したのは”非人”やったやんか。
 杉田玄白… 解体新書を書いた人… 学問… 自由学芸
 名も無き非人… 死体を解体した人… 実践… 機械技術
ってことよね。

 ヨーロッパに話を戻して、この”流れ”が大きく変わるのが17•18世紀あたりになる。

ともだ知"n"行 〜17・18世紀〜

 イギリスの哲学者フランシス・ベーコンが、自由学芸は何の役にも立たないって批判したり、著作の中で機械技術を称賛することを述べとるのや。以前は自由学芸と比べて軽蔑されとった機械技術を、自由学芸と同列に扱う思想が広がっていって、『百科全書』っていう本ができた。この本は、それまでの価値観を覆すものになったのや。序文を要約すると、

「学問を発展させた人たちだけではなく、創作(=機械技術)に携わった人たちも同じように尊敬に値する人たちだ」

ってことを主張しとる。創作する人たちに対して”稀有の天才”とか、その人たちの名前が忘れ去られるのは惜しいとも言うとるで。学問(自由学芸)ではたくさんの名前が歴史に残っとるのに、機械技術では残らんのはおかしいってことよ。
 日本で言えば「実際に死体を解体した非人の名前を残そう」ってことになるね。

 それからだんだん、技術者を育てるための学校ができたり、大学に学部ができたりしていって、自由学芸と機械技術の融合が進んでいったのや。

論理学の融合

 論理では帰納と演繹がある。その復習からね。
 帰納は複数の事柄から1つの法則を見つけることで、演繹は法則にしたがって過去や未来を予測する。たとえば、蟻・蜘蛛・蜜蜂の3匹がいて、観察してみると2種類に分かれることが判った。
 a. 蟻・蜜蜂… 6本足 - 節足動物六脚亜門昆虫網… 昆虫である
 b. 蜘蛛… 8本足 - 節足動物鋏角亜門クモガタ綱… 昆虫でない
となる。2種類では身体の作りも違うけど、それは省略するで。
 こうやって”分類”して、共通項があるものを1つに”収束”してまとめることを、帰納というのや。
 帰納 = 分類 + 収束
やで。
 【昆虫は足が6本である】
という”法則”ができた。
 んで、演繹は、ここに『蝶』が飛んできたとき、その法則を使って、どっちに分類するべきかを考えてみると、
 1. 昆虫は足が6本ある… 前提
 2. 蝶は足が6本ある… 観察・根拠
 3. よって、蝶は昆虫である… 結論
となって、蝶は昆虫であることが演繹によって導き出されたのや。これはアリストテレスの『三段論法』ってやつや。まぁ要は、
 1. A = B
 2. B = C
 3. よって、A = C
ってやつやな。三段論法なんて”大仰”な名前がついとるけど、当たり前のことを当たり前に言うとるだけなんや。

 この帰納と演繹が合わさって『仮説演繹法』ってのができた。これも大層な名前がついとるけど、要はコナンの推理と思っとけばええで。名探偵コナンでは犯人を見つけるためにいろんな推理をするやろ。
 p. 帰納は、法則を見つけるまではできるけど、そこからは判らない。
 q. 演繹は、法則を見つけてからはできるけど、そこからは判らない。
 この相反する2つの思考法を融合させたのが、仮説演繹法 = 推理 やで。

 さっき出てきたベーコンが、これらの思考法を指して、

経験派は蟻の流儀でただ集めては使用する。
合理派は蜘蛛のやり方で、自らのうちから出して網を作る。
しかるに蜜蜂のやり方は中間で、庭や野の花から材料を吸い集めるが、それを自分の力で変形し、消化する。

『ノヴム・オルガヌム』 フランシス・ベーコン

 経験派 - 蟻… 帰納
 合理派 - 蜘蛛… 演繹
 中間派 - 蜜蜂… 仮説演繹法
ってことや。これは論理やき学問の中の話やけど、
 経験派… 実践
 合理派… 学問
としてもええかな〜と考えるね。

 いずれにしても、2つのものを融合させることは、すごいものを生み出すことがあるってことよね。
 現代の日本みたいに学問(知)の方が実践(行)より上の立場ってのがおかしいのや。少なくとも対等でないと、変に権力が偏ったりするやん。社会が発展しないのは変な偏りのせいやろ。

知識の全体論(Holism)

 こうやって”融合”させることは論理だけやなくて、『真理』でも見られることやで。今も昔もいろんな主義があって、当時は”論理実証主義”ってものがあった。それが主張する真理には、
 1. 分析的真理… 経験なしで正しさを立証できる… 論理学・数学(知/静)
 2. 総合的真理… 経験して正しさを確認できる… 観察・実験(行/動)
の2つがある。んで、W・V・クワインって哲学者がこれらを、”種類の差”やなくて”程度の差”しかないから、両者は連続的になっていて明確に線引きはできないって批判したのや。
 つまり、1と2、知と行、静と動は境界線のない全体的なネットワークを形成しとることになる。これを『知識の全体論(Holism)』っていうのや。今までの記事で言ってきた『万華鏡』や『IA(Intelligence Aggregator)』に通じる考え方よね。

 人間が認識できる『真理』は、どちらか一方ではダメで、両者を結合させることで本当の真理が見えてくる… ってことやな。

デカルトの分割と結合

 デカルトは「困難は分割せよ」と言った。でも、先述してきたように何でもかんでも分割したらええってもんでもないことが判ったやろ。クワインの主張するように”連続的”になっとることがあるなら、下手に分割するとそれは”分断”になってしまうからな。

 ここで1つ、デカルトがやった『結合』の話をしとく。デカルトの”座標”が、なぜ、すごいと言われとるのか。それは、代数学と幾何学を『結合』したからなんやで。当時は代数学と幾何学は”別々”やと考えられとったけど、座標のおかげでその2つをイコールで結ぶことができたのや。
 代数学… xyz などを使った
 幾何学… 直線や曲線を使った図形
と、2つは全然違うものを扱っとるのに、座標のおかげで、
 式 = 図形
ってことができるようになった。

 困難であれば分割することも大事やけど、異質のものを結合することで新しいものが生まれることも大事やし、デカルトもやっとるのやで。

魔を退けた蝶

 論理も真理も、実践の経験があって初めて成り立つことがあるのや。やき、紙の上で計算だけして出した結論をそのままやろうとすると、上手くいかんことがあるやろ。
「計画通り」
「ああすれば、こうなる」
 こういう考え方のもとに今の社会はできとる。でもこれってあり得ないことなのよね。未来が来る前にすでに決まっているって、そんなことあるわけないやん。
 でも、未来がすでに決まっているって考え方は昔からあって、一般には”運命”とか言うけど、学問の世界では『ラプラスの魔』と呼ばれとる。とんでもなく計算能力の高い魔がいたら、あらゆる未来が予言できるって考え方や。

 けど実は、この魔はとっくの昔に退治されとるのや。
 魔を退治したのは”複雑系”って学問の中に出てくる『バタフライ・エフェクト』なんや。ものすごく小さな”誤差”が、時間が経つとものすごく大きな”変異”を生み出す。柿と柿くらいの違いや。
 ・柿(かき)
 ・柿(こけら)
 漢字だけ見たらほとんど違いは判らんやろ。数値で言えば”小数点以下”の値やけど、小数点以下って無限に続くから値を定めることができんし、物理学の『量子』なんてものはもうどうしようもないわな。観測対象が粒子だったり波だったり、観測するたびに変わるのであれば決定できんなる。だから、ラプラスの魔は存在できんことになる。
 小さな”誤差”ってものを消すことができない以上、必ず、大きな”変異”が現れることになるからな。

 計画通りの世界やと、”機械”みたいに絶対にそうなることが求められるやん。でも、小さくとも誤差があるのであれば、それは正確さを要求される機械とは言えんわな。そして、それの方が正しいと考えるで。
「自然は機械ではない」
 人間を含めて、自然は機械”みたいなこと”はすることがあるけど、機械ではないのや。



歴史の相似性

 古代ギリシャの制度と現代の日本は似てるやろ。貴族階級と奴隷階級に分かれとる感じよね。外国人労働者は”現代版奴隷制度”とも言われとるしな。でも、これから未来にかけて現場で働く人たちの地位が上がれば、17世紀に起きたことと重なってくるやん。

 仲良しか!

ってことよ。同じ間違いをして同じ修正をするとか、

 仲良しか!!

って言いたくなるやん。
 中国の不動産がヤバいことになっとるのも、まるで日本のバブル崩壊を踏襲するかのように見えるやん。

 仲良しか!!!

 な〜んか仲悪いように見せかけておきながら、実は同じことをしとるってことは仲良しなんやろな、おまいらわ。

ってなるよな。
 同じ轍を踏むなよな。

自然の斉一性

 哲学者J・S・ミルが『自然の斉一性』ってものを提唱した。これは元々は論理学での演繹や帰納についてのものやけど、因果応報や「歴史は繰り返す」ってことにも通じる考え方で、

【ひとたび生じたことは、十分に類似した状況のもとでは再び生じ、
再びどころか同じ状況が繰り返されるたびごとに生じる

ってことや。
 これを”逆”に利用して、同じことを起こすには同じ状況を”意図的”に作り出すこともできるよな。
 歴史に意思はあるのか?
なんてことを言うたらまた「神が〜」とかって話になるから、そっちには行かんようにして、少なくとも一般には「歴史は繰り返す」と言われとる。戦争になるのも、資本主義でも共産主義でもどっちでもええけど、人間が作る体制の『構造』には、必ず”澱”が溜まるようになってしまうところがあるんやろな。じゃないと何度も何度も同じ間違いを繰り返すことが説明できんやろ。

 宇宙にまで行けるようになった人類が、未だ解決できない問題なんや。

 人間の悪意は”無意識”の中におる。そこが最も見つかりにくい場所やからな。
 悪意くん… 魔… かくれんぼは、終わりにしようかね。



駄々 ≠ ROCK = 反駁

 人に逆らうことをロックと言ったりする。権力に反抗するのがロックだと。でも、そういう人を見るとただの”駄々”にしか見えんこともある。3歳児が駄々を捏ねとるだけにしか見えんのや。

 コペルニクスが教会に逆らって地動説を出版したのはロックやと思うで。当時はそんなことをすれば極刑になる可能性もあったんやし。実際、ジョルダーノ・ブルーノって人は火炙りの刑に処せられたしな。
 ロックってのは元々、キリスト教の作った社会体制に反発するものやったんや。アンチ・クリストやね。ロックの元になった黒人奴隷が生み出したブルースは教会音楽のコード進行を”逆”にやったことが始まりや。
 教会音楽… F → C
 ブルース… C → F
と、進行を逆にした。その後、ジャズ、ファンク、R&B などが生まれていった。
 地動説にしろブルースやジャズにしろ、その後の成功を見ればどっちが正しかったかは論を俟たんやろ。権力や権威ってものは使い方を間違えると『弾圧』にしかならんからな。

 んで、天文学でコペルニクスが教会に反駁したように、医学の世界でも反駁した人がおったんや。
 医学は古代ギリシャのヒポクラテスを祖にして発展していって、2世紀にガレノスって人が現れて中世まで医学の権威はその人やったんや。そこにオランダのヴェサリウスが出てきて、ガレノスの権威との決別を示す解剖学書『人体構造論』を書いた。この本は、それまでの粗雑な外科手術から脱却して、科学的根拠を持った外科手術に発展する”基礎”にもなったのや。でも、天文学と同じように当時は権威に逆らうことは禁忌やったから、出版した後、猛烈な批判の嵐が起こって異端審問にかけられたりしとる。1543年に出した本やから、日本では種子島に鉄砲が伝来した年やな。

 んで、実はヴェサリウスは、ある人の仕事を引き継いで解剖学書を書いたんや。自分だけで書いたわけやなくて、”先駆者”がいてその人の残した800枚にもおよぶ解剖図を引き継いで本を書いた。

 その先駆者こそ、誰もが知っとるレオナルド・ダ・ヴィンチなんや。

 先駆者(師)の残したものを、後継者(弟子)が完成させる。
 この流れは天文学にもあって、ティコ・ブラーエの観測データからヨハネス・ケプラーが法則を見つけたのに似とるよな。
 解剖学… ダ・ヴィンチ「解剖図」→ ヴェサリウス『人体構造論』
 天文学… ブラーエ「観測データ」→ ケプラー『ケプラーの法則』

 ダ・ヴィンチの絵の特徴の1つに『関節』がある。骨と骨の間にある関節をよく書いとるんや。だから、必然的に”2つの骨”を書くことになる。ここから類推すると、
 関節 = 結合 = 真ん中
ってなるね。
 ダ・ヴィンチ以前の骨の絵は”全身”で、以後は”1つの骨”なんや。だから、ダ・ヴィンチは絵においても歴史の流れにおいても、まさに『中間』の人やったんや。

 どれだけ駄々を捏ねたところで意味はない。現代は「ブレない」とか言ってただの駄々を容認するところがある。いやいや、駄々は駄々であってそれ以上でもそれ以下でもないわ。赤ちゃんが駄々を捏ねてるのを見て「ブレない人やな〜」とは言わんやろ、アホですか? って話よ。

 逆らうなら『反駁』せんとあかんってことやで。



百聞は一見に如かず

彼ら(知識人)は現実を、生の現実を、自分の目と自分の耳で捉えないからです。
紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとするのです。

物理学者 アルベルト・アインシュタイン

どうして君は他人の報告を信じるばかりで、自分の眼で観察したり見たりしなかったのですか。

天文学者 ガリレオ・ガリレイ

盲人に語るのでなければ言葉で伝えようとはするな、言葉は自明で本質的なことを語るのみにせよ。
文筆家よ、ここの画像が示すほどに完全な姿を、言葉で言い表すことができるというのか。

画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ

 現代は言葉や文章を使って仕事をすることが多い。簡単なところでは”日報”とかね。でも、この状況って実践(機械技術)の人にはものすごく不利なのよね。なぜなら”行動”ってものは言語化が難しいから。一番判りやすい例は、
「自転車の乗り方を文章で説明しろ」
って言われたらかなり困るやろ。まぁ頑張って文章にしてもええけど、ほとんどの人が説明の文章を書いとる途中で、「見せた方が早いわ!!」ってなるやん。
 だから、言葉や文章で仕事をせないかん現代の状況そのものが、実践の人に不利なようにできとるんや。”構造的に不利”と言ってもええ。

 日報は大事やからこそ、それを受け取る人は「全体の1%くらいしか書かれていない」ってことを、常に頭の中に置いとかんとあかんで。ここで正確さが欲しいからといって100%書けなんて言ったら膨大な量になるし、さっきも言ったように行動は言語化が難しいから、もし100%書いたとしても必ずどこかがおかしいことになるからな。
 これは役所なんかの”規則(文章)”にも言えることや。児童相談所かなんかで、相談はあったけど、規則のために子どもが守れなくて死んだりするやん。

a. 現場(実践)を補佐するために本社(文章)があるのに、本社(文章)を補佐するために現場(実践)が疲弊して死ぬ。
α. 子ども(行動)を守るために規則(文章)があるのに、規則(文章)を守るために子ども(行動)を助けられなくて死ぬ。

 a と α はまったく同じ構造になっとるやん。早いとこ気づいた方がええで。ばんばん死ぬで。

 受け取る人こそ、実践の場数を踏んで経験をしとる人やないとあかんのや。1%の文章を見て、経験のない人は1%のままやけど、経験のある人は10~20%くらいまでは想像できるからや。まぁそれでも足りんけど、1%のままよりは遥かにマシやろ。
 これがパーソナリティ障害の1つの『自己愛性人格障害』の人やと厄介なのよ。この障害は自分のことが好きすぎて”相手の立場に立って考える”ってことができんからな。普通なら5歳くらいで相手の立場に立つことを覚え出すのに、それが起きなかったのや。厄介なのは、
 送る側が障害… 内容が判りにくく、伝わらない
 受け取る側が障害… 内容から他のことを想像できない
ってことや。どっちが悪いか判らんやろ。だから、ようく見ないと判断を誤ることになるで。

 経験の有る無しで、受け取る情報量が全然違うからな。



大器晩成 = 創発

 天才と呼ばれる人はたくさんおるけど、天才には”早熟”と”大器晩成”の2つあるやろ。んで、早熟ってのを”早く”見つけるためにギフテッド教育なんてものも始まったんやろね。それだけ”早く”優秀な人材がほしいんやろな。
 その一方で、大器晩成の人はそもそも”早く”見つけることが困難なんや。能力が実るのが遅いから、当然見つけるのも遅くなる。何より”本人が気づかない”ことも多いやろね。ここでふと、
「大器晩成の人って、創発が起こってんじゃないのかな〜?」
と思った。創発ってのはバタフライ・エフェクトのとこで言ったように『小さな誤差が大きな変異を生む』ってやつや。こんな言葉はないけどこれを”小差大異”と呼ぶことにする。
 ただ、小差大異には時間がかかるのや。蝶の羽ばたきが嵐にまで成長するには時間がかかるのと同じやな。

 んで、バタフライ・エフェクトにはもう一つ考えられることがあって、『小さなものが集まることで、大きな成果を生み出す』ことや。羽ばたきで起こった渦が、他のいろんな小さな影響を受けて大きな成果になるのや。これを”小集大果”と呼ぶことにする。小差大異と小集大果の2つあるき、ハンターハンターのキルアの神速(カンムル)みたいなもんやな。

【神速(カンムル)】 【バタフライ・エフェクト】
 ・電光石火(自発)      ・小差大異(自発)  
 ・疾風迅雷(他発)      ・小集大果(他発) 

って感じや。
 んで、小集大果は自分だけやなくて他人の影響も含めると捉えることもできるし、自分のいろんな能力をまんべんなく育てると捉えることもできる。これがまさに大器晩成のことなんやと考えるで。いろんな能力をまんべんなく伸ばしていった結果、それらの能力が”収束”されて大きな実を結ぶのや。仕事ではジェネラリストのことやな。

 ダイの大冒険のアバンストラッシュやメドローアでもええな。
 アバンストラッシュは大地斬・海波斬・空裂斬の3つを合わせる技やし、メドローアはメラ・ヒャドの2つを合わせる魔法よね。アバンもマトリフも異質なものを合わせる(融合)ことの天才なんやろな。(よぉ… 元気そうじゃねぇか… 三流魔王!)

 いろんな能力をまんべんなく育てるといえば”小学校の授業”やな。でも、小学生ではなかなか創発は起きん。なんでかっていうとそれぞれの能力が低すぎるからなんや。まんべんなく育てるだけじゃダメで、それぞれの力がある一定の値を超えんことには創発は起きんのや。だから、時間のかかる創発よりも1つだけに長けた者をすくい上げるギフテッド教育の方を選んだのやろな。とにかく現代は”早さ”がもっとも重要視されるからな。”自己中”な大人たちよね。
 ともあれ、だから子どもは”蛹”と言える。蝶になる前の蛹。まだまだ型も基もできていない”無形”の姿をしとる。

 p. 1つの力に長けた者… 早熟…. スペシャリスト
 q. すべての力を合わせる者… 大器晩成…. ジェネラリスト

 こうやって見てみると、凡人こそ天才なんじゃないかとも思えてくるね。



言葉の真意

同じ間違いを2度するな = 原因を解決しろ

 同じ間違いを2度するなって教えることがある。でも、これは”初心者”には不可能なんや。何度も失敗してやっと間違えんようになるんやから、間違いを2度するなってことは練習さえできんことになるやろ。

 だからこれは言葉通りに捉えるんやなくて、間違いの原因を解決しろって捉えんとあかんのや。原因を解決すれば、その問題”そのもの”が起きなくなる/起きにくくなるやん。

 何度も失敗していく中で、失敗の原因を自分の頭で考えて解決していけってことなんやで。
「なんで上手くいかないのかな〜?」
「なにが原因なのかな〜?」
と、自分で考えるのや。

1つのことをやり続ける ≠ 1つの方法でやり続ける

 1つのことをやり続ける時に2つのやり方がある。

 a. 1つのことに対して1つの方法でやり続ける
 α. 1つのことに対していろんな方法を試してみる

 1つのことってのは『目的』なわけよね。目的を変えるのは”ブレる”みたいになるからイヤなんやろうけど、目的を変えずに『手段』を変えるっていうのが、まさに”α”なんや。1つの目的に対して、辿り着く方法(手段)は1つとは限らない、ってことやな。

 そこで大事になってくるのが他人の意見なわけですよ、ワトソンくん。他人から見てどう見えるのかを知ることやな。他人の意見が役に立つか立たないかは聞いてみなきゃ判らんやろ。それどころか聞いても言ってくれんこともあるしな。でも、聞く姿勢だけは持っとかんと、どこに役立つ意見があるか判らんのやから。

皿洗いからやり直せ(行) = 算数からやり直せ(知)

 知の人は、実践が足りない → 皿洗いからやり直せ
 行の人は、勉強が足りない → 算数からやり直せ

 社会は”極端”に能力を振りすぎて、それぞれが知行のどっちかしかやってなくて、もう一方が抜けとるのや。知行の『基礎』さえ知らんみたいになっとるから、意思の疎通さえできんなっとる感じよね。主観では基礎をやれば問題の9割は解決する、と考えとる。

 いろんな問題があるけど、その原因は単に”基礎が抜けてるだけ”やと思うけどね。だからそれさえやり直せば、ほとんどの問題は起きなくなるんやないのかな〜とね。問題の解決法には2つある。
 1. 問題が起こってから解決する。
 2. 問題が起きないようにする。(← 同じ間違いを〜…)
 今の社会は前者ばかりやっとって、後者のことを考えてないのや。前者は余計な仕事が増えることになるし、”対応者”の考え方なんよな。
 反対に後者は”先駆者”の考え方が必要になる。仕事の『構造』を考えたり、人を『育成』したりせなあかん。構造と育成は”両輪”になっとるから、どちらかだけではあかんのや。後者の方が難易度は高いけど、最終的にはこっちの方が恒常的な安定をもたらすことになると考えるで。

 政府が数学を推しとるのも「基礎からやり直せ」ってことよね。社会人になってから数学をやり直すとき、”算数”から始める場合がある。これはその人のレベルがどうとかいう話やなくて、基礎(= 算数)を間違えとることがあるからなんや。だからそこをやることによって、先の数学まで解るようになるってことやな。んで、
これは”実践”にも言えること。実践の基礎をすっ飛ばして応用ばっかりやっとるやろ? 飲食店やと”皿洗い”を経験せんままで、次の作業をしとる。だから、店中がぐちゃぐちゃになるんやって。
 音楽でも”ぐちゃぐちゃの早弾き”より、”キレイなミドルテンポ”の方が聴く人は多い = お客さんが多い んやで。

 実践が大事なことは知っとるけど、だったらそれと同じように勉強も大事なんやから、実践ができることは勉強をしなくていい理由にはならないってことよ。



逆流

 勉強して学んだことを実践とつなげることが大事や。この時、
 p. 勉強してから、実践をする
 q. 実践をしてから、勉強する
と、逆の流れがある。これはどっちでもええ。社会では前者ばかり教えとるけど、本来はどっちでもええのや。
 大学だって元々は大学に行けなかった人のために作られたんやからな。社会人になって仕事をして、ある程度年齢がいってから「もう一回勉強したいな〜」って考える人のために作られたんやで。それやのに”先”に終わらせるんよね。まるでめんどいことは”先”に終わらせとけとでも言わんばかりの体制やろ。経験がないのに知識ばっか詰め込むことは”逆効果”になることがあると思うけどね。
 ここでも順番が”逆”なんよな〜。日本のダメなとこや。

 p. 大学に行ってから、社会に出る が成り立つなら、
 q. 社会に出てから、大学に行く も成り立つ。

 どっちでもええ社会が、良い社会なんじゃないのかな〜。
 大事なことは知と行を合わせる(融合)させることやろ。それならどっちが先でどっちが後でも問題ないやん。かけ算の数字の順番を変えても答えは同じってことよ。

 大事なことは、ともだ知”n”行やで。




Ending.

Harem Scarem - Mandy

おわりに

ともだ知”n”行は気に入ったんですか?

(なかなかええ命名やと思うてな。
ひ〜こらひ〜こらばひんばひん🎶)

私たち世代には通じますけどね。
命名はともかく”合わせる”ことは大事です。

(動と静に挟まれたら「動! 静! ゆうね〜ん!!」
って言ったらええのや。
「どうせいゆうねん!?」ってことやで。)

なんか西川貴教さんの「YO! SAY.」が
浮かびますね。HOT LIMITか〜、懐かしい。

(現実の時間は止まってくれんからな〜。)

時間を止めることは誰にもできません。
夢や理想を追うことはいいですが、現実を見た上で
やるべきですよ。

(現実を見ないで夢だけ見るのは
ただの”妄想癖”やで。)

夢を叶える人ってちゃんと現実を見て
夢と現実の”距離”を測っているんですよ。
だから、叶えることができるのです。

(まぁ距離が判っても実力が
足りんこともあるけどね。)

実力もですが現実を”逆”に捉えてしまうことも
原因の一つだと思いますよ。逆といえば、
ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんを連想しますね。

(「押すなよ〜押すなよ〜!」ってね。
アインシュタイン的逆説や。)

それを伝えようとしていたのかもしれませんね、
主観ですが… 。

(キルアの神速の電光石火と疾風迅雷が『阿吽』なら、
バラフライ・エフェクトの小差大異と小集大果は『吽仔』でも
ええな。)

なんで子どもは下品な方にいくんでしょうね〜。

(下品やと思うてないからな、あいつら。
ただ単におもしろいからやろな。
”純粋”なんや。)

”無邪気”とも言えますね。
そして、だからこそ悪意 = 魔 に取り憑かれることがある。

(欧米の魔もなかなかやるけど、まだまだやな。
日本の”鬼”に勝負を挑むのは無謀ってやつや。)

鬼を相手にかくれんぼで勝負しようなど、
1000年は早いんじゃないですか? って話です。

(欧米の魔と日本の鬼。
いつまでも遊んでいたいけど、
そうはいかんのや。)

今は時代が変わる、歴史の分水嶺ですから… 。
さて、今回は最後にダンス動画を載せました。
Rock Steady Crewは、ナイティナインの
岡村さんなら知ってるかもしれません。

(その世代やしな。
本文でダンスの説明もあったし、
ええんやない。)

私が直接知っているのは上下の赤白のユニフォームの
チームにいる女性の方だけですけどね。
この時代は女性が1人で世界に出て戦っていたというのに、
現代の男性たちときたら… 。

(この女はバケモンやからな。
今も世界のどっかでBreakin' な
人生を送っとるやろな〜。)

本当に◯されますよ。
まぁでも確かに今の日本の男性は
全員しばかれるでしょうね。

(「しばき回すぞ! コラー!!」
女の言葉とは思えんからな。
完全にその”筋”の人やで。)

この時は高校生〜20歳くらいだったと思います。
日本の男性ももっと世界に出て活躍してほしいもんですね。
それではまた〜。

(Check It Out🎶)


《開始30秒くらいから3分50秒くらいまで》

Mr. Wiggles w/Rock Steady Crew on Dancing with the Stars


*参考書籍*
 ・科学哲学への招待 野家啓一 ちくま学芸文庫
 ・自然科学の歴史 端山好和 講談社学術文庫
 ・形を読む 養老孟司 講談社学術文庫
 ・世界は「e」でできている 金重明 講談社ブルーバックス
 ・志村流 志村けん 王様文庫
 ・物理学とは何だろうか(下) 朝永振一郎 岩波新書

 拙著
 ・ホワイト企業創生論 〜陽気発する処、金石も亦透る〜


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