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2019年3月~5月に読んだもの(抜粋)の感想


1月に「ゆるゆる月に1回ぐらいの更新を目指します」と書いて、すぐに3か月分溜めてしまった。


ジル・ドゥルーズ,1967=2018,『ザッヘル=マゾッホ紹介――冷淡なものと残酷なもの』河出書房新社.

マゾヒズムを、サディズムの裏面としてではなく独立した価値を持つものと考えることが、ドゥルーズのマゾッホ論の何よりの特徴。

このとき、いわゆるSMはマゾヒスト主体とサディスト主体との出会いではなく、マゾヒスト主体と「マゾヒズムに本質的に帰属する加虐者」(あるいはその逆)によって行われるということになる。これは、性的主体化論を研究する自分にとって非常に重要な予感がする。


ニクラス・ルーマン,1982=2005,『情熱としての愛――親密さのコード化』木鐸社.

この本の読書会をしたら、4か月かかった。個人的に読み終えるのに22時間10分(=53.2ポモドーロ)。ページ数はそれほど多くないのだけれども、「ルーマン語」が難しい。

森山至貴『「ゲイコミュニティ」の社会学』や、大塚明子 『『主婦の友』にみる日本型恋愛結婚イデオロギー』など、最近の研究に本書の理論枠組を用いたものがちらほらあったのが、読書会の題材にこれを読んだ理由。なのだけれども、読書会参加者は割とルーマンアレルギーになってしまったのか、まだ読む気力が湧いてきていない。


宮本直美,2011,『宝塚ファンの社会学』青弓社.

東園子『宝塚・やおい、愛の読み替え』(の元になった論文)が、ホモソーシャルをホモセクシュアルとして豊かに「誤読」することから成り立つ〈女同士の絆(ホモソーシャル)〉に着目するのに対し、「宝塚の男役ファンは、実社会の男性とほとんど同様に、娘役を排除したところに絆を保つのである。これは生物学的女性の絆ではない。むしろ私が主張したいのは、女性という一つの性のなかで起こる、ジェンダー分化の好例だということだ」(Kindle No.195)と真っ向から批判する点は大変興味深く読んだ。 

が、参考文献は4冊の宝塚研究しかなく、「社会学」一般にどのような貢献があるのかという点は気になる。


Small, Mario Luis, 2009, " 'How Many Cases Do I Need?': On Science and The Logic of Case Selection in Field-based Research," Ethnography, 10(1): 5-38.

noteにレジュメを公開した


フランチェスコ・シリロ,2018=2019,『どんな仕事も「25分+5分」で結果が出る――ポモドーロ・テクニック入門』CCCメディアハウス.

25分集中し5分休む、というリズムで作業するだけでみるみる捗る、という有名なライフハック「ポモドーロ・テクニック」の提唱者が書いた解説本。

この本に批判的にポモドーロ・テクニックを解説したnoteを公開した。なかなか好評で、実践してみたという人も多く、ありがたい。


寺井広樹・豆あき,2019,『[副業]AV女優――2つの顔を持つ女神たち』彩図社.

事実性にこだわりがないところが引っかかる。「上原亜衣は引退直前には最大時にはごく短期間で数十本の撮影をこなしたと言われる」(38ページ)って、ぼんやりしすぎていてなんにも言ってないのと同じだと思うのだが。

女優が、AV男優のセックスの巧さについて語っている(部分が著者によって切り抜かれている)ことが多いのは気になる。もし今後、AV男優のキャリアをテーマに研究することがあったなら、この性技をいったいどこで身に着けるのかについてはポイントの一つになるだろうと思う。


大澤真幸,2019,『社会学史』講談社.

アリストテレスやアダム・スミスから始まる目次を読んで苦笑していたが、食わず嫌いせず読んでみたら面白かった。社会学にも当然、人文学を摂取してきた歴史があるわけで、「社会学者の歴史」に留まらない社会学史を1冊で辿れるのは助かる。

フーコーの研究者で、かつ最近ルーマンの『情熱としての愛』を読んでいた身としては、フーコーとルーマンを重ねて論じるところは興味深かった。
機能主義と意味学派の統合や、「新しい唯物論」の摂取など、どこまでうまくいっているか自分には判断できないけれども、チャレンジ精神に満ちていて刺激的。


酒井健,1996,『バタイユ入門』筑摩書房. 

エロいメディアの研究をしているのにバタイユに触れたことがないのもな、と思ってKindleでざっと読んだ。が、自分の研究に直接関係する予感はやはりまだない。

それにしても、死姦という究極的に逸脱的な性愛に執着したバタイユの、その死に彩られたエロティシズム論がこれだけ影響力を持ったのだから、「それは研究者のあなたのセクシュアリティ観に過ぎないのではないですか?」という批判は、いつでもクリティカルでありいつでも無意味であることだなと思う。


佐藤健二,2012,『ケータイ化する日本語――モバイル時代の“感じる"“伝える"“考える"』大修館書店.

電話は相手の姿が見えないからこそ特有の距離を生み出してしまうのだけれども、テレビ電話が視覚情報を提供しても人々が余計に違和感を覚えてしまう、という逆説の話が非常に面白い。

ことばが「社会的」であるということの意味を、意味の理解の次元より原初的な、(独り言ですら)複数の耳に震えとして届くという身体性、空間性として説明するあたりは本当にさすがだと思う。
それから、セクシュアリティとメディアの研究者としては、ことばは「身体的」であり「見えないもうひとつの『皮膚』」であるという序盤の比喩が、テレクラやダイヤルQ2といった電話と性愛の関係性の議論でもう一度活きてくるという構成がアツい。


湯川やよい,2018,「『ペドファイルである』という問題経験の語り」『自己語りの社会学――ライフストーリー・問題経験・当事者研究』新曜社,226-46.

米国における小児性愛者によるクレイム申し立てに、これまでの「権利のレトリック」(イバラ=キツセ)ではなく、子どもへの性犯罪加害を行った者(=CSO: child sex offender)と区別された「善良なペドファイル」の承認を求めるという新しいバリエーションが生まれている。しかし、「善良なペドファイル」が自己の欲望をコントロールする必要性を強調し、触法行為に陥らないための理解、支援が不可欠だと主張することは逆に、「善良なペドファイル」が「CSO」へと容易く越境しうる曖昧なカテゴリであることを露見させてしまう。

自己を物語化することには本源的に、別様の物語がありえたことを隠蔽することで成立するが(浅野智彦)、非触法ペドファイルの場合は過去・現在だけでなく未来まで含む複雑な自己の構成が必要。つまり、「善良なペドファイル」の語りは聞き手にとって、その正当性(善良さ)がとりわけ疑わしくなる自己語りであるという点に、社会問題化の阻まれやすさが存在する。

以上要約。ペドファイルは、興味はありつつもなかなか取り組みがたいテーマなので、大変勉強になった。


おまけ:masha・天原『異種族レビュアーズ』

バーチャルYouTuber・月ノ美兎の雑談配信で「『ダンジョン飯』の風俗版です」と紹介されていて読んだ。「エロ漫画」過ぎないところが不思議な魅力。


ほか、ブルデュー『社会学者のメチエ』、『現代思想』のジュディス・バトラー特集、ドゥルーズ『フーコー』なんかを読んだが、自分の中で消化しきれていない感じ。



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