「呼ばれる名前」・・・ちょっと嫌なホラーです。心臓の悪い方、妊娠中の方は読まないでください。
勤務中に急にお腹が苦しくなった志門(しもん)紀子は、同時職場に勤める夫の雄一に付き添われて会社近くの産婦人科に向かった。
「打ち合わせが終わったらすぐに迎えに来るよ」
「大丈夫よ。ちょっと息苦しくなっただけだし、
お医者さんになんか来なくても大丈夫よ。少し休めばよくなるから」
もう安定期に入り、会社の仕事も難なくこなしているのに、
何かというと雄一は心配し過ぎている。
「いいやダメだ。気を付けなきゃいけない。念には念を入れてだ」
「いいから。仕事に戻って」
自分を思いやってくれるのはありがたいが、ちょっとお腹が差し込んだだけで、職場で大げさに騒いでは病院に行こうと言うのに紀子は辟易していた。
上司は優しくて、「行ってこい」と送り出してくれるが、
中小企業は、マンパワーが頼りだから、二人同時に会社を空けると、必然的に他の人の負担が増える。
「みんなに迷惑をかけたくないから、二人同時に抜けるのは止めようよ」
と、何度言っても雄一は頑ななため、最近ではとりあえず病院には行き、夫を早く職場に戻らせるようにしている。
何度も振り返る雄一に職場に戻るよう促してから、
紀子は病院の受付に保険証を出し、待合室の長椅子に腰を下ろした。
初めての訪れたその産婦人科は、中庭に面した大きな窓が特徴的な明るい建物で、差し込む光が強すぎるのか、光の当たらない壁に大きな影が出来ていた。
「田中ティアラちゃ~ん」
産婦人科の他に小児科もあるのだろう。
廊下のスピーカーが男性の声で子供の名前を呼んでいる。
「ティアラか、キラキラネームを考えたこともあったな・・・」
紀子は少し懐かしい気持ちになった。
紀子は自分の旧姓が好きでは無かった。「山本」はあまりにもありふれていて、日本人っぽいところが嫌だった。
だから幼い頃から、子供には外国でも通用するキラキラネームにしようと考えていた。
ところが結婚して「志門(シモン)」という外国人のような姓に変わった途端、お腹の子には、「ハナコ」や「マユミ」といった日本人らしい名前を付けたいと考えるようになった。
親や友人たちは、その心変わりに戸惑ったが、一番驚いているのは、紀子自身だった。
「やっぱり日本人だから」
と、もっともらしい事を周りには話していたが、結局は天邪鬼。我儘なだけなのだ。
「お母さんたら、全く勝手なもんでちゅね~」
紀子はお腹をさすった。
「田中きららちゃ~ん」
田中、という姓が二人続いて呼び出された。
よくある姓だから、珍しいことではないが、紀子は少し気になった。
紀子は夫と付き合う前に、一時「田中」という男と付き合っていたことがある。
取引先の会社の御曹司で、強引とも言える積極的なアプローチに流されるように付き合い始めたのだが、ひと月ほどで別れを決めた。
その元カレは、思い込みが激しく、デートをしていても結婚するのが当然、という感じで話をした。
付き合って二日目には紀子の実家に挨拶しに行くとか、子供は絶対3人は欲しいとか。それだけではなく、子供に着せる服のデザインや保育園のパンフレットまで持ってきて、未来の家庭の話をするのである。
まだまだ遊びたい年頃だった紀子は、
「子供のいる家庭」を共有するには幼すぎたのだろう。
未来を確定させたいという思い込みの強さについていけなくなって、
紀子は姿を消すようにして別れた。
スピーカーから、次の子を呼ぶ声が聞こえてきた。
「田中ハートちゃ~ん」
紀子はゾッとした。
田中が三人続いたのもそうだが、それらの名前に覚えがあったからだ。
「まさか・・・」
紀子の元カレ「田中」は、二人の結婚生活を、ああしたい、こうしたい、と、細かいところまで妄想して話をしていた。
そうなるのが当然という口ぶりで、生まれてもいない子供の名前まで考えていたのだ。
それが、
「ティアラ、キララ、ハート」だった。
特に彼は「ハート」という名前が気に入り、
「早くハートちゃんに会えると良いね」
などと話すようになり、それが嫌になって別れに繋がったのだ。
その名前をこんなところで聞くなんて・・・。
そう思った途端、お腹に捻じれるような激痛が走った。
思わず紀子は息が止まりそうになった。
「田中ハートちゃ~ん。おられませんか~」
放送が聞こえるたびに、お腹が苦しくなる。
「田中ハートちゃ~ん。田中ハートちゃ~ん」
腹痛はもはや耐えられないほど強くなり、
紀子は椅子から滑るように待合室の床に倒れ込んだ。
お腹から何かが引きずり出されるような痛みを感じた時、
耳元に聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「ああ。ハートちゃん、こんな所にいたんでちゅね~。
こんにちは、田中ハートちゃん。ぼくがパパだよ」
大声で医者を呼ぶ声が交錯する待合室の中で、紀子は真っ赤な血を流しながら気を失っていった。。
おわり
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