山本 淳夫

京都市生まれ(1966)。京都大学文学部哲学科美学美術史卒業(1990)。芦屋市立美術…

山本 淳夫

京都市生まれ(1966)。京都大学文学部哲学科美学美術史卒業(1990)。芦屋市立美術博物館(1990〜2005)、滋賀県立近代美術館(2005〜2011)を経て、現在は横尾忠則現代美術館の学芸課長を務める(2012〜)。

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「具体」ノートについて

これまでに執筆した、「具体美術協会」に関するテキストのアーカイブです。 原則として執筆時のデータをそのまま掲載していますので、もしかしたら不正確だったり、最終校正が反映されていなかったり、誤字脱字もあるかもしれません。 引用、参照は自由ですが、著作権は放棄しておりません。

    • 「永遠」と「瞬間」のはざまに ―堀尾貞治の《千Go千点物語》をめぐって

      ・作品成立の経緯 《千Go千点物語》は、その名のとおり約1,000点の平面作品からなるシリーズで、堀尾貞治の晩年の代表作のひとつとなりうるものである。「なりうる」としたのは、制作に携わった当事者以外、誰もまだその全体像を見たことがないからだ。実はこの作品集は、初めてその全貌を明らかにするものである。 作品の成立には、奈良県の喜多ギャラリーが深く関わっている。ここではもと具体美術協会の浮田要三やヨシダミノルをはじめ、ギャラリーのオーナーである喜多洋子と溝渕眞一郎が関心を寄せ

      • 存在には理由はない 村上三郎の芸術について

        ・はじめに 本稿は、2021年12月より芦屋市立美術博物館で開催された「限らない世界/村上三郎」展のカタログに寄稿したテキストへの補遺である[1]。会期中には講演の機会もいただいたのだが、準備するなかで、テキストに盛り込めなかったいくつかの事柄が気になり始めた。村上さんには哲学者的な側面があり、美術をめぐる言動には難解なものが少なくない。なかでも1)時間と空間、2)偶然と必然 をめぐる興味深い言説があるのだが、正直いって筆者の手には負えず、これまで避けてきた経緯がある。

        • 四半世紀ぶりの村上三郎展によせて

          この展覧会は、村上三郎さんの没後25周年を記念したものだという。あれからもう四半世紀とは、時の経つのはなんと早いことだろう。 当時、筆者は芦屋市立美術博物館の学芸員として、1996年4月6日開幕予定の「村上三郎展」を担当していた。忘れもしない1月5日、村上さんが美術館に訪ねてこられた。恐らくは正月を返上して書き上げたであろう、テキストを持参されたのだ。これでカタログにも目処がついた、そう安堵したのもつかの間、数日後に牧子夫人から電話があり、村上さんが倒れた、と告げられた。

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        「具体」ノートについて

          追悼:堀尾貞治 「あたりまえ」の死

          葬儀からひと月が過ぎ、堀尾さんについて、ようやく落ち着いて考えられるようになった。堀尾さんはポジティブの権化のようなアーティストで、常軌を逸した頻度で発表活動を行う、まさに無窮の人だった。2011年にベルギーで出版された作品集に文章を寄せた際には、彼がいよいよ老いに直面し、身体の自由がきかなくなったとき、はたしてどのような表現を見せるのかむしろ興味深い、と書いたほどだ。 ところが実際の幕切れは、あまりにも想定とかけ離れていた。死因は、なんと自殺だったのだ。あれだけ風呂敷を広

          追悼:堀尾貞治 「あたりまえ」の死

          村上三郎、一瞬にして鮮やかに成立してしまう“美”がある

          上司に連れられて村上さんと初めてお目にかかった時のことは、今でもよく覚えている。具体のなかでも「哲学者」「理論派」と聞いていたこともあり、学芸員になりたての筆者はかなり緊張していた。ところが実際の村上さんは、拍子抜けするくらいあたりの柔らかい人だった。人懐っこい笑顔で、相手をたちまち武装解除してしまう。「山本さんは、何がご専門ですか?」と尋ねられ、「いちおう美術史学科出身なんですが、実は学校サボってばかりで... 恥ずかしながら絵のことはあまり分かってないので、一から勉強しま

          村上三郎、一瞬にして鮮やかに成立してしまう“美”がある

          《泥にいどむ》と初期「具体」の作品構造─「アール・ブリュット」と「童美展」の比較を通じて─

          1.泥にいどむ 白髪一雄の《泥にいどむ》[uu1] (1955〔昭和30〕年)はしばしば初期「具体」におけるアクション的な側面を象徴する作品として位置づけられる。しかし、実際にこの作品を眼にしたものはごくわずかである([1])。同時期の「具体」には作品の永続性に頓着しない例が多く、回顧展の際などにどこまで再制作を認めるかが争点となるのだが、《泥にいどむ》は最もそれに馴染みにくい作品のひとつである([2])。実作に接するのが事実上不可能な一方、大量の泥のなかでパンツ一丁の白髪

          《泥にいどむ》と初期「具体」の作品構造─「アール・ブリュット」と「童美展」の比較を通じて─

          坪内晃幸と「具体」

          ・距離と孤独 坪内晃幸は1957年4月に第3回具体美術展に初出品し、以来1972年の解散まで16年間にわたって具体美術協会のメンバーとして活動した。メンバーのほとんどが阪神間や大阪を拠点としていたのに対し、坪内が暮らしていたのは愛媛県松山市であり、50年代から参加していた古参メンバーの中では唯一、遠隔地からの出品を続けた。 1966年には高知の高崎元尚が会員となり、ようやく四国在住作家の仲間が生まれている。ただし高崎の場合、具体ヘの参加を決意したきっかけは、自らも招待され

          坪内晃幸と「具体」

          あたりまえのこと 堀尾貞治論

          はじめに 堀尾貞治は1939年神戸市の下町である兵庫区に生まれ、現在も同地に在住しているアーティストである。家庭の事情により、中学卒業後すぐに三菱重工神戸造船所に就職しているので、美術は全く独学である。1965年、第15回具体美術展に初出品、翌年「具体美術協会」(以後「具体」)の会員となり、1972年の解散まで出品を続けた。その後も息長く活動を続け、近年では個展、グループ展への参加、単発のパフォーマンスなどすべて含めた総数は一説によると年間100回を上回るという、桁外れに精

          あたりまえのこと 堀尾貞治論

          アヴァンギャルドと子どもの絵

          「具体美術協会」は1954年に兵庫県の芦屋で結成された前衛美術グループです。72年に代表の吉原治良が亡くなった際に解散していますので、約18年活動したことになります。近年、特にその初期の活動が世界的にも再評価されつつあるわけですが、実は彼らは子どもの表現に非常に興味を持ち、そこから制作のインスピレーションを得ていました。本日は、それとジャン・デュビュッフェが収集したアール・ブリュットとの関係性を比較検討することで、何がみえてくるか探ってみたいと思います。 児童画とアール・ブ

          アヴァンギャルドと子どもの絵

          元永定正展

          三重県美では1991年以来二回目となる個展である。充実していた前回をあらゆる点で上回っており、企画展示室のみならず常設展示室の一部、屋外、エントランスホール、県民ギャラリーとあらゆる空間に作品が展示されていた。それでも出品作はかなり厳選されたものだったといえる。86歳となる作家の途方もないエネルギーと仕事の幅広さに、まずは改めて脱帽させられた。 その作品においては「色」と「かたち」が重要なエッセンスである。それは常に「明快さ」を指向するが、原理主義的に煮つめる(例えばミニマリ

          元永定正展

          金山明展

          最後に金山さんにお目にかかったのは2006年のゴールデン・ウィークの最中、奈良市内の老人介護施設でのことだった。4月初旬にデュッセルドルフのクンスト・パラスト美術館でオープンした「ゼロ」展のために「具体」の初期作品の再制作などをお手伝いさせていただいた経緯があり、渡航できなかった作家を順に訪ねてご報告するのが目的だった。 金山さんは一段と衰弱されていた。前年の冬にパートナーである田中敦子さんに先立たれたことがやはり決定的だったのだろう(田中さんは金山さんにとって単なる伴侶の粋

          行為と現象 「具体」と「ゼロ」をめぐって

          ・つみとられた果実 「(…)具体の10年前の作品に対する、これらの人々の驚きが、まざまざと感じられた。たとえば、こんどの展覧会にはハッケやピータースが盛んに水を使っているが、元永の水の作品ははるかに早く、田中の10年前の風の作品がハッケのいまの作品と近似している。10年以前われわれが芦屋の松林で、あるいはさまざまな劇場でやったグタイのマニフェストが、つまり当時具体の機関誌に私の書いた『つみとられるべき果実』が、フランスの批評家タピエに、いまはまたオランダの美術館によってふた

          行為と現象 「具体」と「ゼロ」をめぐって

          (ゼロ展レヴュー)

          「モトナガ!?」…ヘンク・ピータースが我々日本人の一団を眼にするや、発した第一声である。オランダの前衛グループ「ヌル」(ゼロの意味)の中心人物と、日本の「具体」の元永定正との歴史的な出会いの場面である。 デュッセルドルフ(ドイツ)のクンスト・パラスト美術館で開催中の「ゼロ」展は、ドイツやオランダを中心に'50〜60年代に活動した前衛グループ「ゼロ」の大規模な回顧展である。彼らは各国の作家たちと広く交流したことで知られるが、特に1965年の「ヌル国際展」では、「具体」のリーダー

          (ゼロ展レヴュー)

          ゼロ−具体−ゼロ

          ゼロという概念は、芸術家たちにとって非常に魅力的なものであるらしい。年代、国籍を問わず、各地にその名を冠する美術のグループがあるのが、その証左である(註1)。ドイツのグループ「ゼロ」とオランダのグループ「ヌル」はその代表的なものだが、実は彼らは、ゼロの名を冠するもうひとつのグループとも「間接的に」関わっていた。 日本の「ゼロ会」が活動していたのは1952〜55年のわずか4年であり、「ゼロ/ヌル」が相次いで結成されたころには既に解散している。「芸術とはなにも無いゼロの地点から

          ゼロ−具体−ゼロ

          追悼:田中敦子

          戦後、関西を拠点に活動した「具体美術協会」の代表、吉原治良の生誕100年を記念する回顧展が開かれる最中、元会員のひとり田中敦子が世を去った。 その初期、数々の問題作を発表した。20個のベルが順にけたたましい音をたてる「ベル」(1955年)は、ある展覧会の絵画部門に出品され、物議をかもした。サウンド・アートの先駆にも思えるが、あくまでも絵画の空間性について考え抜いた結果だった。さらに、代表作の「電気服」(1956年)。不規則に明滅する色とりどりの電球を身にまとう過激なパフォー

          追悼:田中敦子