追悼:田中敦子

戦後、関西を拠点に活動した「具体美術協会」の代表、吉原治良の生誕100年を記念する回顧展が開かれる最中、元会員のひとり田中敦子が世を去った。

その初期、数々の問題作を発表した。20個のベルが順にけたたましい音をたてる「ベル」(1955年)は、ある展覧会の絵画部門に出品され、物議をかもした。サウンド・アートの先駆にも思えるが、あくまでも絵画の空間性について考え抜いた結果だった。さらに、代表作の「電気服」(1956年)。不規則に明滅する色とりどりの電球を身にまとう過激なパフォーマンスは、文字通り美術史上に燦然と輝きを放っている。

その後、電球と配線のイメージに基づく抽象絵画を、生涯をかけて追求した。折れてしまいそうな小さな身体と、強烈な作品とのギャップに、誰もが驚かされた。早くから海外からも注目されたが、繊細な感性ゆえか次第に「具体」の方向性との間に違和感を覚えはじめ、1965年に退会する。

夫の金山明ももと「具体」会員で、機械によって自動的に描かれる絵画などで知られている。しかし私には、田中こそ、作品を創る以外の機能がほとんど欠落した「絵画マシーン」にみえた。口数が少なく、時候のあいさつみたいな、形式的な会話はほぼ成立しないし、愛想笑いなどみた記憶がない。一方、美術の話題になると一切の曖昧さがなく、抜き身の刃物のような凄みを感じる瞬間があった。

晩年、心なしか表情が柔和になったような気がした。ニューヨークで個展が開催されるなど(2004年)、現役作家として再評価されたこともあったのだろう。最後にアトリエにお邪魔した際、いかにも満ち足りた穏やかな夫妻の佇まいに、同行したドイツの学芸員はすっかり感激してしまった。「なんて美しい人たちだ。でもヨーロッパだったら、田中ほどの作家なら工場みたいな広いアトリエに住み、大勢のスタッフを抱えて何不自由なく暮らしているだろうけど…」。

作品は最後まで瑞々しさを失うことはなかったし、今後も色あせることはないだろう。ご冥福をお祈りする次第である。

『朝日新聞』2005年12月16日

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