四半世紀ぶりの村上三郎展によせて

この展覧会は、村上三郎さんの没後25周年を記念したものだという。あれからもう四半世紀とは、時の経つのはなんと早いことだろう。

当時、筆者は芦屋市立美術博物館の学芸員として、1996年4月6日開幕予定の「村上三郎展」を担当していた。忘れもしない1月5日、村上さんが美術館に訪ねてこられた。恐らくは正月を返上して書き上げたであろう、テキストを持参されたのだ。これでカタログにも目処がついた、そう安堵したのもつかの間、数日後に牧子夫人から電話があり、村上さんが倒れた、と告げられた。

村上さんはたいへんな酒豪で、自宅近く、西宮北口の酒場に夜な夜な出没することで知られていた。酒を飲んでも飲まれることはなく、終始あのダンディさのまま、居合わせた人々との会話を楽しんでいたそうだ。その晩はテキストから解放されて気分が軽くなったのか、普段よりハシゴの軒数が多かったらしい。6日未明に帰宅した際、玄関先で倒れたのである。

一報を受けて、筆者は西宮渡辺病院に急行した。昏睡状態の村上さんは、美術館でお目にかかった時とはまるで別人だった。チューブに繋がれ、とても会話できる状態ではない。1月11日、村上さんは70歳でこの世を去った。当時多くの人が、その死をまるで「パフォーマンス」のようだと述べた。それには、相応の理由がある。


・「存在」と「無」

村上さんといえば、なんといっても「紙破り」である。クラフト紙を全身で突き破る作品に対して、現在の我々はそれに「パフォーマンス」という概念を当てはめることができるが、当時はそんな便利な用語もなかった。「具体」では、特にその初期において、多くの作家たちが今でいう「パフォーマンス」的な表現を生み出した。そのほとんどが、絵画をめぐる実験の果てに、勢い余ってその枠組を踏み外したようなものだった。

村上さんも例外ではない。「具体」の初期に発表された非絵画、あるいは脱絵画的な作品の数々は、実は絵画をめぐる思考の果てに生まれたものである。一連の「紙破り」は、描画の代替行為として画面を破ることからスタートしているし、《箱》(1956)は観客にその上に座ることを促し、視線の変化のようなものを体感させることを意図していた[1]。また《あらゆる風景》や《空》(ともに1956)は一定のフレームを設定し、現実空間をトリミングすることで、いわば仮想の絵画を提示する試みだったといえる。

筆者は、これらの作品の背後に、ある通奏低音のようなものを感じる。

それは「無」に関係する何か、である。例えば白髪一雄のフットペインティングの場合は、大量の絵具と格闘し、まるでレリーフのように盛り上がった画面を形作る。それに対して、村上さんの場合はどうだろう。同じ行為の痕跡であっても、クラフト紙の破れ目がヒラヒラと揺らめく様は、白髪さんのマッチョさとは対象的である。そういえば《剥落する絵画》(1957)もまた、表面の絵具層が絶えず剥がれ落ちることで、ひたすら「無」へと向かうベクトルを内包している。

さらに分かりやすいのは《箱》だろう。まさに「無」を封印した《箱》は、村上さんが幼少期に早逝した母親の、棺桶のイメージに由来している。まだ3歳だった村上さんは、最後に母親の顔を拝みたくても、どうしても棺桶のふちに背が届かなかった。ある種の喪失感や無常観のようなものが、村上さんの美意識に深く根を下ろしているのではないだろうか。

「無」は「存在」と表裏一体である。その作品は単に静かなだけではなく、しばしば過激な存在確認の衝動をも感じさせる。展示室の入口をクラフト紙で塞ぎ、全身で突き破る《入口》(1955ほか)は、展示空間全体を共鳴体とする打楽器のような構造を有しており、パフォーマンスの瞬間には想像を絶する炸裂音が生じる。狙いすました一瞬にエネルギーを集中させることで、瞬時に世界の様相を一変させるのも、いかにも村上三郎的だといえるだろう。それは'50年代後半から'60年代前半にかけてのアクション・ペインティングにも通底している。静かな思考の積み重ねの果に、一瞬の爆発力で絵画が産み出される[2]

ところが、’60年代半ば以降、村上さんの絵画からあの奔放なストロークが消え失せてしまう。1963年のグタイ・ピナコテカでの個展の頃からその傾向は始まっているのだが、1965年以降はよりシンプルな色面を中心とした構成や、コラージュしたクラフト紙の周囲を筆でなぞるといった抑制的な表現が目立つようになる。ちょうどこの時期に「具体」に在籍していた堀尾昭子は、当時これらの作品に否定的な印象を抱いていたことを告白している[3]。今でこそ昭子さんはその見解を改めているが、当時同様に当惑した者があったとしても不思議ではない。それくらい、’60年代後半の絵画は謎めいた空気をまとっている。

1957年に来日したフランスの美術批評家、ミシェル・タピエが「具体」のペインティングを高く評価し、国際的な展覧会やマーケットに紹介したことで、彼らは突如国際的に認知されることとなった。それと引き換えに、その活動は絵画へと収斂し、それまでの脱絵画的ダイナミズムを失っていく。一方、’60年代のアンフォルメルやネオダダ(熱い抽象)から'70年代のミニマリズムやコンセプチュアル・アート(冷たい抽象)へと、時代も大きく移り変わっていった。18年間続いた「具体」も、1972年にリーダー吉原治良が逝去したことで、その活動に幕を下ろすことになる。時代がうつろうなかで、作家たちは、それぞれに自らの表現を問い直す必要に迫られた。

村上さんの場合は、'60年代半ば以降の抑制的な絵画、'70年代のパフォーマンス的な個展を経て、'80年代以降はほとんど作品を発表しなくなる。それは一見「無」、あるいは「死」へと向かう巨大なデクレッシェンドのようにも感じられる。それにしても気になるのは、ほぼ沈黙のようにも見える村上さんの晩年は、単なるリタイヤだったのか、ということだ。そう一筋縄でいかないところが、多くの人が、その死を「パフォーマンス」と感じたことにもつながってくる。

'60年代半ば以降、恐らく村上さんは、「存在」と「無」をめぐる問題を、改めて捉えなおそうと試みていた。一連の'70年代の個展において、その傾向はさらに明確なものとなる。個展「拍子木」(1973)は、観客が打ち鳴らす拍子木の音に階下で控えている作者らが聞き入る、というのが基本的な構造である。拍子木の鋭い響きは、日常的な時間の流れに杭を打ち込むような感覚があり、一連の「紙破り」にも通じる美意識が感じられる。

さらに極端なのが「無言」(1973)である。会期中作家は常に在廊しながら、しかしひと言もことばを発しない。展示空間に作品らしきものが何もないので、来場者が訝しんでいると、作家から一片の紙切れを手渡される。そこには「一言もいわないことが作品です」と書かれている。

この時、村上さんは筆談によって来場者とのコミュニケーションをはかっており、実際に用いられたメモも残されている[4]。普通なら作家と来場者は会話で意思疎通を行う。それはとりとめのない時候のあいさつだったり、仮に重要な内容であっても、その場限りで消え去ってしまうだろう。「無言」では筆談の形式をとったがために、たまたま彼が考えていたことが記録されることとなった。しかも、展覧会そのものが「美術とは何ぞや」という話題を誘発しやすい性格を持っており、またメモ書きの性質上、より簡潔で端的なテキストになったものと思われる。これは、実は奇跡に近いことである。


・「ことば」をめぐって

村上さんと「ことば」。これもまた非常に悩ましい問題だ。村上さんは「具体」メンバーのなかでもインテリであり、文学や哲学に精通していたことを元永定正も書き残している[5]。また上前智祐も、大半のメンバーを「君」付けで呼んでいた吉原治良が、村上さんだけは「さん」付けで呼び、恐らくは密かに「具体」に関する論考の執筆に期待していたと述べている[6]。確かに、メンバーのなかできちんとした「具体論」が書けるとしたら、村上さんが最有力候補だったのは間違いない。ところが実際には、彼が残した文章は決して多くない。そのいずれもが非常に興味深いものであるだけに、どうして「具体」を理論的に裏付けるまとまった論考や、自身の芸術論を書き残さなかったのかと思うのが人情である[7]

どうやら村上さんは、「思考」を「ことば」にしてしまうことに、極めて慎重だったようなのだ。どんなに優れた考えであっても、いや、それが核心をついたものであればなおさら、声高に言語化した途端になにかマズイことになる、そんな感じさえする。「思考」と「ことば」の「ズレ」のようなものが、彼にとっては大問題だったのか、あるいは言語化できないことにこそ、価値を見出していたのだろうか。そういう訳で、村上さんの思想を理解するには、限られたテキストの他、思いがけず残ってしまった「無言」展のメモや、第三者が書き残した記録に頼るしかない。

この状況に、筆者は『歎異抄』に近いものを感じてしまう。浄土真宗の開祖、親鸞の発言を、弟子の唯円が書き残した同書には、「念仏を唱えても歓喜の心がおきない」と悩む唯円に対して、親鸞が「実は自分も同じで、不審に思っていたのだ」と意外な告白をしたり、「もし私のいうことを信じ、背かないというなら、まず人を千人殺してこい」と迫るなど、非常にスリリングなやり取りが記録されている。これらの対話を通して、浄土真宗の開祖として神格化されると、むしろ見えにくくなる親鸞の人間像が、よりリアルに感じとれる。

村上さんの場合、坂出達典の著作『ビターズ2滴半 村上三郎はかく語りき』[8]が、ちょうど『歎異抄』的な役割を果たしている。坂出さんは自身もアーティストであり、主に「音」に関連する作品を制作する傍ら、西宮北口にあったバー・メタモルフォーゼのマスターでもあった。バー・メタモルフォーゼ=通称メタモは、かつてチューリッヒ・ダダが生まれる契機となったキャバレー・ヴォルテールを念頭に、芸術に興味のある人々が気軽に飲んで交流できる場作りを目指して1992年にオープンした。最初の店舗は、西宮北口駅の北東部の、戦後の風情を色濃く残した雑然とした市場のなかにあったが、阪神淡路大震災の後、再開発のために立ち退きを余儀なくされ、駅北西部の雑居ビル4Fに移転した。筆者も近くに住んでいたので、ちょくちょく訪れたものだが、どちらかというと新店のほうが馴染み深い。旧メタモにも数回は行ったことがあるが、残念ながら村上さんとご一緒する機会はなかった。今更ながら、惜しいことをしたと思う。

同書には、メタモに来店した村上さんと、坂出さんとの間で交わされた会話が記録されている。印象的なエピソードがたくさんあるなかで、まず注目したいのが、坂出さんがダダや無意味、そして禅について考察した、自身の小論を見せた際の反応である。


「彼は手招きをして私を自分の近くに引寄せ、小声でささやきました。耳打ちをするように、

『あのね、ダダ以外に良いものはない。良いものはすべてダダなんや』

私は彼の言うことを即座に理解しましたが、彼がわざわざ耳打ちをしたということで、彼が大変用心深く、また言葉の使い方が非常に厳密な人であることに感銘を受けました[9]


本当に大事なことは、小声で、しかもマンツーマンでしか伝えられない。声高なプロパガンダにした途端、なにか大事なものが失われてしまう、とでもいわんばかりである。


・ビターズ2滴半

『ビターズ2滴半』というタイトルは、村上さんのリクエストによる、特別なジンビターのレシピに由来している。普通はまずグラスにアンゴスチュラ・ビターズを垂らし、リンスした後にジンを注ぐ。するとジンがピンク色に染まるため、別名ピンク・ジンともいう。ところが村上さんは、先にジンを注ぎ、その上からビターズを「2滴半」注ぐよう、坂出さんに要求した。2滴はともかく、半滴垂らすなどとても無理で、もう気合いしかない。以前は村上さんの命日の頃になると、筆者もメタモで村上さんバージョンのジンビターを飲んだものだ[10]。透明なジンのなかに褐色のビターがゆらゆら広がっていく様は神秘的で、まるで小さな宇宙空間のようだった。

『ビターズ2滴半』には、1992年のメタモ開店から、1996年に村上さんが急逝するまでの約4年間の語録が収録されている。これがもう、抜群に面白い。実は村上さんは、普段は美術や哲学について多くを語らなかったらしいのだが、どういうわけかメタモでは雄弁だった。もともと坂出さんは、「音」の作品づくりを通じて、ジョン・ケージの音楽や、彼が傾倒した禅などに興味を抱いていたが、その問いかけに対して、お酒の力もあってか、村上さんは時にかなり踏み込んだ発言をしている。そしてこの約4年間は、筆者が勤務していた芦屋市立美術博物館が1991年に開館し、1996年に主役不在のまま「村上三郎展」が開催されるまでの時期と、当然ながら重なっている。筆者は同書を何度読んだかしれないが、今回再読して、改めてそのリンクに思い至った。

なかでも印象的なエピソードのひとつが「ビール瓶事件」であろう。その日のメタモは、どういうわけか「パフォーマンスとは何ぞや?」という論争で盛り上がっていた。カメラマンや画家、芸大生、キュレーター志望で哲学科専攻の大学院生、構成作家等々が、酔いにまかせて次々と持論を披瀝していた。喧々囂々の議論が続くなか、突然「ガチャーン!」という大音響が響き渡る。それまでカウンターの端で静かに飲んでいた村上さんが、目の前にあったビール瓶を突然床に叩きつけたのだ。店内は水を打ったように静まり返り、まるで一瞬時間が止まったかのように感じられた。我に返った人々は、酔いが醒めたのか、次々にお勘定をすませて店を後にする。一気にガラーンとなった店内で、坂出さんが粉々になった瓶を掃除していると、それまで一点を凝視しつつ微動だにしなかった村上さんが、坂出さんの肩にそっと手を置きつぶやいた。


「すまん……私はこんなことするから嫌われるんやな」


どちらかというと、村上さんは決して敵をつくるタイプではなかった。「具体」のメンバーは強烈に個性的で、時にぶつかり合うこともあったが、村上さんのことを悪くいう人には会ったことがない。とはいえ、もしこの日メタモに居合わせていたら、たぶん筆者も呆気にとられただろう。一方、凡百のことばを、シンプルな行為(=全く別次元のノイズを介在させること)で瞬殺するのは、いかにも村上さんらしい、ともいえる。

この時に割れたビール瓶を撮影した写真を、筆者は坂出さんからいただいた。瓶の下半分は粉々に砕けているが、上半分は奇跡的にかたちをとどめていて、しかも床の上に直立している。まるでビール瓶が床から生えたように見えなくもない。そして印画紙の隅に「1992年6月11日」と日付が刻まれている。これは同年6月20日に芦屋市立美術博物館で開幕した「具体展I」にむけて、ちょうど準備が大詰めを迎えていた時期である。

同展では、初期「具体」の作品をいくつか再制作した。鮮明に覚えているのは、元永家と村上家が同日に来館して作業していたことだ。元永さんは窓辺に《水》のインスタレーションを、村上さんはオープニングに備えて《入口》のパネル制作に余念がなかった。元永チームは中辻悦子夫人と長女の紅子さん、村上チームには牧子夫人がそれぞれ参加していたが、いずれも主導権は完全に女性陣が握っていた。《水》はビニールシートに色水をくるんでロープで口を縛るのだが、元永さんは意外に不器用で、容赦なく「パパへたくそ!」と声が飛ぶ。《入口》についても、牧子夫人が障子貼りの要領でテキパキと作業をすすめ、「お父ちゃんは触らんといて」みたいな雰囲気になる。ついに両家とも、「おれの作品やぞ!」と作家本人が愚痴り始める。村上さんが「あちこちで家庭内争議がおきてるなぁ」と苦笑していたのを思い出す。

「具体」の作家たちは、概して非常に気さくだった。筆者のような経験の乏しい新米学芸員に対しても、権威を振りかざすような人は皆無だった。「具体展I」の準備の際も、笑いが絶えない雰囲気ではあったが、迫りくるパフォーマンスに向けて、果たして村上さんは何を思っていたのだろう。

筆者は何度か《入口》を見ているが、なかでも忘れられないのが、1993年に開催されたペンローズ・インスティテュートにおける「具体」回顧展である。既に日は暮れ、あたりは暗くなっていた。建物の正面玄関にパネルが設置されており、度肝を抜く大音響とともに村上さんが紙を突き破ると、裂け目から館内の光が屋外に漏れ出した。ハッとさせる美しさである。感激した筆者は駆け寄って声をかけたのだが、ギロリと横目で睨むだけで、あの優しい村上さんが一切口をきいてくれなかったのだ。思わず「なにか失礼でもあったかな」と狼狽えたが、後の宴席の場で、「すまんな。パフォーマンスの後は、どうもしゃべる気にならんのや」とフォローしていただいた。

《入口》は「こちら」から「あちら」へと瞬時に空間を移動する作品である。日常生活において我々は何の気なしにこの部屋からあの部屋へ、屋外から屋内へと移動するのだが、そのごく単純な事象は、クラフト紙のパネルを介在させることで強力にアンプリファイされる。そこでは破壊と創造が渾然一体となっている。恐らく村上さんは、あたかもヒヨコが卵の殻を破るように、全く別の空間へと生まれ変わったばかりだったのかもしれない。

もうひとつの初期作品《6つの穴》のエピソードも重要である。この作品は、クラフト紙を貼った200号大の木枠を3つ連結し、一瞬で穴をあけるものである。第1回具体美術展(1955)において、村上さんはパネルと格闘した挙げ句、最後にまだ破れていない左下の角に全身で突っ込んだ。すると吉原から、「あそこのとこだけ初めから飛び込もう思うてたみたいやったなあ」と看破されてしまう。

パフォーマンスはまさに一期一会の真剣勝負である。いかにかっこよく破るかとか、どんなアクションでやるか、みたいな些事は論外だ。むしろ、その場その時を生き抜くことこそが重要なのであり、いかに自分を「無」にできるか、ということにもつながってくる。「具体」の再評価に伴い、一連の「紙破り」を再制作する機会も増えていったが、村上さんはそれらを単なる過去作品の再現とは捉えていなかったはずだ。表面上はにこやかに振る舞いつつ、「具体展I」のオープニングに向けて、その心中はいかなるものだったのだろう。「ビール瓶事件」は、このタイムラインを理解したうえで読むと、また違った重みをもって迫ってくるのではないだろうか。


・エエのん決まってる

「『時間は縦に流れる』と村上氏が語ったのは、彼が亡くなる1〜3ヶ月前(つまり1995年の10〜12月)であったように記憶します。彼は以前から常連客の中でも来店の頻度はかなり高い方でしたが、なぜかこの頃から彼の来店が急激に増え、何かに憑かれたようにとうとうと語りだすことが多くなりました。

語られた内容は以前同様、芸術や哲学についてはもちろんのこと、彼の家系(先祖は村上水軍ということです)や親兄弟、それに夫人との馴初めにまでおよびました。いったい人間は、自分の死期を無意識に悟るのでしょうか[11]


冒頭で触れたとおり、少なくともこの時期、村上さんが芦屋での個展のため、カタログテキストの執筆に取り組んでいたのは間違いない。推敲するうちに様々な思いが去来し、夜な夜なメタモでそれらを吐き出していた、というのはあると思う。

村上さんは美術作品に対して厳しい審美眼を持っていたが、その一方で、あらゆる全てをよしとするかのような、独特な考え方を持っていた。「エエのん決まってる」というのが口癖で、それは『ビターズ2滴半』でも触れられているし、後期「具体」のメンバーであった堀尾貞治も折にふれて語っていた。'60年代なかば、同世代のメンバーたちが次々にコンクールで受賞するなか、一向に芽が出ない堀尾さんはスランプに陥り、自暴自棄になっていた。ある日、西梅田の立ち飲み屋で村上さんに愚痴をこぼしていると、突如胸ぐらをつかまれ恫喝される。「おまえみたいなええ作家が、何をいうてるんや。エエのん決まってるやないか!」。客観的にみて明らかに行き詰まっているにも関わらず、よいに決まっているとはどういうことか。当時は何がなんだかさっぱり分からなかったそうだ。

すべてを肯定する姿勢は、死期が近づくにつれて、ますます極端になっていく。


「しかし不思議なことです、彼がなくなる2、3ヶ月前から来店される頻度が急に上がり、以前にも増して重要な内容をとうとうと話し出しました。最後には店の内外に掲げてある色々な人の作品を見て回り、一つ一つを指して『良い! 全部良い!』と力強く言われました[12]


美術作品そのものの良し悪しはともかく、それがこの世に存在していること自体が既に奇跡に満ちたものだと、村上さんは考えていたのだろうか。もしかしたら、同年1月17日に起きた阪神淡路大震災で被災し、ほんの紙一重で生死が分かれる様を目の当たりにしたことも、何かしら影響していたのかもしれない。

そもそも村上さんは、作品をことば=意味の体系において把握することよりも、むしろ意味や概念に汚染される以前の、生々しい存在の有り様をそのまま受け入れることを重視していた。以下は嶋本昭三の作品を初めてみた時の回想である。


「1952年、或る会場で、黄一色の大画面の前に、私は呆然と立ちつくした。小児のなぐり描に等しい激しい筆触で殆ど塗りつぶされた色の塊りだけが、其処に在る。

こんなものが絵画と言えるかどうか。然しそう思ったとき、私はその絵の前に立った瞬間のガーンと殴られたような強烈な衝撃を失い始めていた。従来の絵に対する知識で貶そうとしている。言い訳をさがしている。そんな自分に気付いた。が、こんな理屈は無用だ。その衝撃の内包するものは何なのか[13]


こうした問題意識は、「具体」の作家たちが、子どもの絵に深い関心を抱いていたことと密接に関係している。発達過程にある子どもたちは、眼前の「もの」と「ことば」とを、まだうまく結びつけることができない。逆にいうと、目に飛び込んでくる色や形はすべて未知のものであり、あらゆる存在との出会いは発見と驚きに満ちているだろう。彼らはそうした子どもたちの眼差しに、ある種の理想を見出していた。

なかでも村上さんは、とりわけ厳格に、この問題と向き合っていた。すでに「ことば」に汚染されてしまった我々は、子どもの無垢な視線を取り戻すことはできない。しかし、限りなくそれに近づく手段があるとしたら、それこそが、彼にとっての「芸術」だったのではないか。


「芸術の徹底した形ではね、何もせんとポカーンとして、ぐうたらに酒飲んでね、寝て暮らしても、すごくええと思うよ[14]


余命を宣告された病人には、眼にするものすべてが輝いて見えるという。しかし最晩年の村上さんは、自身に残された時間が限られたものであることを知らず、存在の不思議に触れようとしていたかに思える。それはまさに、「芸術の徹底した形」だったとはいえないだろうか。

(やまもと・あつお/横尾忠則現代美術館 館長補佐兼学芸課長)


『限らない世界 村上三郎』芦屋市立美術博物館(2021)


[1] 第6回関西総合美術展(1956年4月)に出品された最初のバージョン。神港アンデパンダン展第2部(1956年5月)に出品されたものは、内部に柱時計が仕込まれていて、箱に耳を当ててその音を聞くよう観客に促すものだった。

[2] 「寡黙な日常と、激しい作品と、入念な準備と、一瞬の解決と、いつも、彼の作品を、間歇泉のようだと思う」吉原治良「村上三郎の場合」『村上三郎個展(パンフレット)』1963年

[3] 坂出達典『ビターズ2滴半 村上三郎はかく語りき』せせらぎ出版、2012年 p.159

[4] 『村上三郎 Through the ‘70s』発行:アートコートギャラリー、発売:青幻社、2013年

[5] 前掲書3、p.161

[6] 前掲書3、p.163

[7] 白川昌生編『日本のダダ』書肆風の薔薇、1988年 に収録された「『具体』は『具体』である」が、村上さんの「具体」論考としては最もまとまったものであろう

[8] 前掲書3

[9] 前掲書3、p.79 村上さんがここでいう「ダダ」とは、20世紀初頭におきた芸術運動としてのダダイスムのみを指しているわけではないだろう。美術と無意味との関係性を念頭においた、より幅広い概念だと思われる

[10] 2016年3月27日、坂出さんの逝去によりメタモルフォーゼは閉店した

[11] 前掲書3、p.111

[12] 前掲書3、p.125

[13] 前掲書7 次の文献も参照されたい。村上三郎「存在には理由はない」『美術ジャーナル』第38号、1963年

[14] 「具体と具体後 その2 村上三郎インタビュー」『Jam & Butter(モリス・フォーム機関誌)』⑰、1973年

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