ゼロ−具体−ゼロ

ゼロという概念は、芸術家たちにとって非常に魅力的なものであるらしい。年代、国籍を問わず、各地にその名を冠する美術のグループがあるのが、その証左である(註1)。ドイツのグループ「ゼロ」とオランダのグループ「ヌル」はその代表的なものだが、実は彼らは、ゼロの名を冠するもうひとつのグループとも「間接的に」関わっていた。

日本の「ゼロ会」が活動していたのは1952〜55年のわずか4年であり、「ゼロ/ヌル」が相次いで結成されたころには既に解散している。「芸術とはなにも無いゼロの地点から出発して創造すべきだ」というのが合言葉で、グループ名の由来でもあったが、それ以外に分かっている事実は極めて少ない。1952年に結成されたこと、1954年に大阪そごう百貨店のショー・ウインドウで一度だけ展覧会を開いたことの他、総勢約15名といわれるメンバーの全貌もよく分からないが、中心となって活動していたのは白髪一雄、村上三郎、金山明、田中敦子、さらに白髪富士子(一雄夫人)らだった(註2)。

1954年、「具体」が結成されるが、創立メンバー17名のうち約半数がすぐに脱退してしまう。存続の危機に立たされた「具体」は「ゼロ会」から上記の主力メンバーをヘッド・ハンティングし、延命を図った。このことで「ゼロ会」は発展的に解消し、一方の「具体」は激変する。それまでの彼らの作風は、よくフォンタナと比較される嶋本昭三の「穴」の絵画をのぞけば、概ね同時代の日本で流行していた構成的な抽象表現の延長線上にあった。それらと、「ゼロ会」吸収直後の「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」(1955年7月)との落差は明らかである(註3)(図版1)。

ゼロ=無に豊饒を見出す態度は、必然的に禅に代表される東洋思想を想起させる。ただ我々日本人は、一般的にそれらを語ることに慎重である。相当に西洋化(アメリカナイズ)の進んだ日本社会にとって、それはともするとリアリティを持ちがたい、というのがひとつ。一方、少数派ではあるが、より禅を深く理解する人々は、安易な言語化を遠ざける。彼らは「語りえぬもの」への畏敬の念を忘れないだろう。

「具体」のリーダー吉原治良もまた、安易な言語化に対して用心深い人物だったが、蔵書をみる限り、彼が特に東洋思想に傾倒していた痕跡は認められない。吉原はむしろモダニストであり、その財力を背景に、当時としては驚くほど大量の美術書を西欧から買い求めていた。ただし、その画業を解き明かしていくと、思いがけずある禅僧との接点が浮上する。

実は吉原家の宗派は禅宗であり、西宮市の臨済宗寺院、海清寺の檀家である。かつてこの寺には、南天棒という著名な禅僧がいた(註4)。豪快な逸話に事欠かないこの僧の、これまた豪放このうえない書や墨画が、この寺には多数残されている。いくつかは特大の筆で書かれたものらしく、制作途中で墨が画面に粘着すると、筆を蹴飛ばして書き続けたという逸話も残されている。ある意味、南天棒はアクション・ペインティングの先駆者なのである(図版2)。

「クラインの墨の流れた美しさ、ポロックのエナメルのトバッチリ、それとこの墨のトバッチリはそれだけ見ても共通した魅力がある」(註5)。1952年4月、吉原は南天棒の書と出会い、その大胆な墨の飛沫に着目する。「具体」結成の後も、彼はメンバーと共に同寺を訪れ、空間芸術に胚胎する時間性の問題について語ったという。南天棒は、「具体」が「行為」を重視した表現を生み出すための、栄養源のひとつだったのだ。

一方、吉原のアンフォルメル作品は、東洋絵画における時間性の問題を抽出し、造形的に昇華させる試みだったといえる。彼はしかし、絵具の飛沫までも偶然に任せず、構築しないと気が済まないタイプの画家だった(図版3)。世代の相違かもしれないが、他のメンバーのように、絵画が成立する諸条件を脱構築するには至らなかったのである。1957年、アンフォルメル運動の主導者ミシェル・タピエと接触することで、「具体」の活動は行為から絵画へと急速に収斂する。そして、メンバーが飛躍的に絵画の強度を増していくなか、吉原は本質的な矛盾を抱え込んだまま一種のスランプに陥る。リーダーでありながら自らの作品が最良でないという事実は、目利きであるがゆえに、余計に彼を苦しめた。

第16回具体美術展(1965年10月)において、初めてハード・エッジの「円」を発表した吉原は、ようやく桎梏から解き放たれた。それは意外にも、あれほどまでに彼がこだわり続けた、絵画における時間性を隠蔽することで成立している。禅僧による円相との表層的な類似を指摘されがちだが、実際には、それはむしろ東洋絵画からの影響を断ち切った結果なのである(図版4)。この大胆な変貌の背後には、実は「ゼロ/ヌル」との接触があった。同年4月、「ゼロ」と「ヌル」が合同で開いた3回目の「ヌル国際展」に際し、「具体」の初期作品群がリクエストされた。再制作のため、吉原治良と通雄(吉原の次男、初期からの具体メンバー)がアムステルダムに赴いている。

ゾーン・ゼロ展のための調査の過程で判明した新事実なのだが、実はこの時、「具体」は新作絵画を現地へ送っていた。到着したクレートを開梱した「ゼロ/ヌル」の作家たちは、わが目を疑った。中から現れたのは、典型的なアンフォルメルのペインティングだったからである。

「ゼロ/ヌル」が目指したのは、表現主義などに顕著な主観性、身体性の否定である。パターン化された画面構成、光や運動などへの関心は、いわばアンフォルメルを克服し、その次段階を目指すもので、彼らが敬意を払ったのは自らの先駆者としての「具体」のはずだった。ところが'60年代、「具体」は皮肉にも「ゼロ/ヌル」が最も嫌悪するところのアンフォルメルの王道を突き進んでいたのである。当然、彼らの新作絵画は展示されず、吉原もこの件については沈黙を守った(註6)。

この時、吉原はある種の時差を痛感したに違いない。彼の帰国後、吉原自身の作風も転換するが、「具体」も大量の新人を受け入れ、大きく様変わりする。しかし国内においても、テクノロジーと結びついた表現傾向はもはや「具体」のみの専売特許ではなかった。それらは1970年の大阪万博へと収斂する、より大きな「環境芸術」の流れに位置づけるべきである(図版5)。テクノロジーはしばしば作家の意図を現実空間にフィットさせる手段となり、作品はともすると観念と実体験のギャップを埋める「仕掛け」と化してしまう。「ゼロ/ヌル」の間接的な影響というより、むしろ「誤訳」というべき作例が、後期「具体」には散見する。

南天棒に戻ろう。吉原は初期「具体」に対して、自らが試みた造形的な方法論とは別の次元で、実は禅的アプローチを応用していたのかもしれない。まずは、言語的な思考の徹底排除である。吉原は作品に文学性が宿ることを何よりも忌避し、題名も原則的に「作品」あるいは「無題」とした。若い作家たちが彼に批評を乞う時、彼が発することばは「ええ」「あかん」のほぼ二つに限られ、「人のまねをするな」「今までになかった絵を描け」とのみ要求した。懇切丁寧に教え導くというよりは、既成概念を打破し、自ら発見を促すようなコミュニケーションのあり方は、禅問答を応用した一種のブレーン・ストーミングを思わせる。

ただ注意しておかねばならないのは、吉原が意図的に禅を参照した訳ではない、ということだ。それは、ある時代までの日本の知識人が身に付けていた教養や常識に基づくものと捉えるのが妥当である。ただ禅における論理的整合性・予定調和の否定と、「新しさ」に価値を見出すモダニストとしてのあり方には、時代を越えて響きあう何かがあったのだろう。

吉原に叱咤され、絵画のコンセプトを突き詰めていく過程で、初期「具体」の作品群は絵画空間から逸脱して現実空間を浸食し、さらには仮想空間にまで広がりはじめる。例えば田中敦子の「ベル」は、絵画における空間性そのものを提示する無謀な試みだし(図版6)、白髪の「どうぞお入り下さい」は列柱の内側を斧で傷つけることで、みる者を360°取り囲むエンドレスな仮想平面を想定している(図版7)。また、白髪富士子の「白い板」は、よく誤解されるような立体造形では全くない。その意図するところは、天空に裂け目を入れるという、単純だが壮大な二次元作品なのである(図版8)。技術・経済上の制約は、必ずしも弱点にはならない。そこで露になる観念と実体験の落差こそが重要なのだ。

1965年以降も、「具体」はオランダのグループ「ヌル」のヘンク・ピータースとしばしば接触している。翌年4月の「ヌル国際展」の際は村上三郎がデン・ハーグに赴いており、また同年計画された「ゼロ・オン・シー」という臨海・海上での野外展にも作品プランを送っている(実現せず)。さらに1972年1月、アムステルダムでの「フロリアーデ」会場での空中展に「具体」が参加する話が持ち上がるが、オランダ大使館と電話で打ち合わせている最中、吉原は突如倒れた。その時、彼が思い描いていた光景、虚空を満たす美術とは、果たしてどのようなものだったのだろう(註7)。

吉原の死によって、「具体」は18年に及ぶその活動に幕を下ろした。葬儀は、南天棒の寺、海清寺にて執り行われた。戒名は「秀徳禅院圓良恵居士」だった。

やまもと・あつお/滋賀県立近代美術館 学芸員

『ZERO. International Künstler-Avantgarde der 50er/60er Jahre』Museum Kunst Palast, Düsseldorf(2006)

註1:日本には、他にも「ゼロ次元」(加藤好弘、岩田信市を中心に、1963年に儀式集団として始動)、「ジャパン・コウベ・ゼロ」(1970年、榎忠を中心に結成)などがある。
註2:美術団体「新制作協会」に属していた白髪一雄、村上三郎は、同協会の伊藤継郎(吉原と同じ兵庫県芦屋市内にアトリエを構えていた)のもとで学んでいた。また、金山明と白髪一雄は幼なじみの間柄だった。
註3:「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」は「具体」ではなく、芦屋市美術協会(代表:吉原治良)の主催事業だったが、「具体」のほぼ全員が参加していた。翌1956年には同じ芦屋川畔の松林で、「具体」の主催により「野外具体美術展」が開催されている。
註4:本名は中原トウ州(1839〜1925)。佐賀県唐津の生れ。明治期を代表する禅僧のひとり。
註5:吉原治良、須田剋太、晴見老師、麻生恵三、山田與三吉、森田子龍、有田光甫(司会)「南天棒の書」『墨美』第14号 1952年7月
'50年代の関西では、美術、書道、工芸、ファッション、デザインなどジャンルを越え、前衛の第一人者と若手作家たちとの交流が盛んであった。代表的なものに「現代美術懇談会」(通称:ゲンビ)がある。
註6:吉原治良「風変わりな作品群(アムステルダム美術館)」『毎日新聞』1965年5月27日
註7:アムステル川のほとり、約50メートルにわたり、変形バルーン約10点を掲揚、地上に約5点の関連作品を展示することが構想されていたらしい。1972年3月30日のオープンをめざしてプランはかなり具体化されていたようで、メンバーによるアイデア・スケッチも残されている。

図版1:白髪一雄「どうぞお入り下さい」制作風景 真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展、芦屋 1955年
図版2:南天棒「竜吟初夜、虎嘯五更」から「五」 海清寺、西宮
図版3:吉原治良「作品」第9回具体美術展 1960年
図版4:吉原治良「作品」第16回具体美術展 1965年
図版5:具体美術まつり 万国博おまつり広場、大阪 1970年
図版6:「ベル」を設置する田中敦子 第3回ゲンビ展 1955年
図版7:前掲1、部分
図版8:白髪富士子「白い板」 真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展、芦屋 1955年

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